廃異不思議探検隊/(SEASON2)

Wast different wonder expedition.(SEASON2)

陸軍少年戦車兵学校跡2

2009-01-22 02:20:00 | 一般探索
Continuation>>








 少年戦車兵と共に活躍した機甲部隊の主力戦車、九七式中戦車(チハ車)
 この戦車は、最も熾烈を極めた島、サイパンにて、四十余命の少年戦車兵と共に勇戦奮闘、祖国の礎となり、戦後30年、地中深くに埋もれていましたが、有志の願いで、日本に帰還し、安置されました。

 この戦車は、戦車第九連隊所属で、同時期に帰還したもう一両は、現在靖国神社の遊就館に修復整備、塗装され、展示されています。



















 無数の弾痕跡が戦闘の激しさを教えています。







 日本陸軍 戦車第九連隊(戦車連隊の一つ)連隊長 五島正大佐

 1944年 サイパン島をめぐる戦いで、全部隊が援軍としてマリアナ諸島に派遣された。
 大佐は、単独での戦車連隊の夜襲は、損害大で効果がない、と反対したが、上層部の命令で、夜襲を行い、米軍の砲火で44台の戦車が失われ、連隊は1時間弱で壊滅したそうです。







 付近に当時の痕跡が残っているか少し探索してみましょう。




 神社から少し離れた南東側に倉庫が残っていました。
 赤レンガの上に漆喰を塗った作りで、歴史を感じさせます。
 戦車の燃料油脂庫と思われます。




 漆喰が剥がれレンガが現れていて美しい。




 他にも似た様な建物が幾つか散見されますが、民家の物置や住居に改築されている様でした。







 そして、南側に当時”若桜神社”があった場所があり、校庭・儀式及び教練場・応用体操場でもあった場所です。
 現在は、墓地(東開拓記念墓地公園)になっていますが、退避壕(防空壕)が残っています。




 入口から壕内を覗くと、直ぐ突き当りが壁になっています、塞がれたのか、右側へ屈折して中へ入るのかもしれません。




 横から見たところです。
 壕の周りにお墓があるのが少し気になります。💧

 何度か廃墟マニア等を案内しているが、この場所は薄気味悪いと言う(笑)
 私も以前撮った写真に光やモヤが映り、記事には投稿していない。光の方は、そばのお墓の花を挿す筒の所に光がヒュゥっと映っていました、何故かその写真だけ行方不明です。💧




 それから、100m位先に”必中橋”と言う名称の橋があります。
 この先に基本射撃場があったことから、橋の名前が必殺的中という意味を込めて、必中橋なのだそうです。
 現在の橋は、30年位前に改修されており、当時の面影はありません。

 弾が射撃場から外へ洩れない様にしていた土手がHKSとトーネツと言う会社の間の林の中に残っていると地元住人の方から教えて頂き、行ってみましたが、やはり広い山の中で、林で分かり辛く、確認出来ませんでした。💦


*戦車操縦訓練学校跡地(若獅子神社)
 現代は、平和ぼけしていて、食べ物はこれは不味い、これは嫌い、仕事にしても、かったるい、面唐ュさい、眠い、とか、雨だから、暑いから、寒いから等と文句ばかり言ってしまいます、物は豊富にあるし、化学、技術、医療は発達し、簡単に死ぬ事もなくなり、戦争時代より安全な時代になりました、この今があるのも先人が命を賭けて戦って守ってくれた日本の上に私達が成り立っていると言う事を殆ど忘れてしまっていますので、少しでも意識して、日々を大切に生きて行こうと思います。
 広大な敷地なので、また遺構を確認したら、続報していきたいと思います。
 若獅子神社地図
2008/09/21
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陸軍少年戦車兵学校跡1

2009-01-22 02:01:00 | 一般探索


 かつて、戦車操縦戦術訓練学校があった場所、若獅子神社です。
 境内には、戦地に埋もれていた戦車を日本に帰還させ、この神社に展示してあります。

 兵士の年齢は、15才~17才の少年兵でした。




 当時の校門が残されています。




 陸軍少年戦車兵学校の表札が残されています。




 神社前の広場ですが、当時の路面だと思われます。







 1939年、千葉陸軍戦車兵学校内に”生徒隊”が発足される。
 1941年、少年戦車兵学校として分離。
 1942年、富士宮市に移駐、陸軍少年戦車兵学校が開校しました。




 若獅子の塔




























 若獅子の御霊と共に、これからの日本も末永く平和である様にと人々に訴えています。






 











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