Continuation>>
若獅子神社裏手で、アイアンショットの練習をしていた男性(60才位)が説明してくれました。(笑)
男性「私は、戦後の開拓民なんだけど、施設の建物を皆さん結構倉庫や住居に改築して使ってますよ。うちの倉庫は、施設の木材をもらって作ってあります。(当時の施設ではないので撮影しませんでした。)
隣のお宅に弾薬庫がずっと残っていました、今は取り壊しちゃいました。
HKSの工場がある方の森の中に”基本射撃場”の弾洩れ防止の土手が残っています。
訓練で大量の弾が使われたわけですから、林業で弾が出て来る事もあるそうですよ。
神社の出入り口にある戦車学校の門柱は、井出小学校のグラウンド出入り口にあった物を移築したものです。小学校のある場所が本部でした。
施設の消火栓ですが、その防火水槽の一部が残っていて、今も利用しています。周辺の側溝も当時の物を利用しています。道路も大体当時のままですね。」等ご教授して頂きました。
(上記写真、防火水槽)この辺りは、弾薬庫、弾薬整理所があった付近なので、その関係の防火水槽だったのでしょう。
男性「北側に大きな貯水池がありますが、当時もそこに巨大な貯水槽があったので、その一部が利用されている様です。」
構内図に北門のあった場所の左側の道に橋の印があるので、確認します。
反対側から。
簡易的なパイプ柵が設置してあるだけなので、好きな人(マニア)以外はこれが橋とは気づかず、普通は通過します。(笑)
ご近所の男性に寄ると確かに陸軍時代ここに橋があったそうです。
今は、表面は舗装されたが、下地は当時のコンクリートだそうです。
川は、今はコンクリート側溝になったが、当時は普通の砂利川だったそうです。
コンクリートがかなり厚いです、重量がある戦車が通るわけですから、厚くないと橋が落ちますからね。
たまりませんなあこの穴(笑)
反対側です。
雑草が生い茂り、良い雰囲気です。
橋名は不明ですが、小さいので、当時から無いのかもしれません。
手前には、側溝から当川に流れてくる複雑な構造をした場所があります。
近所の男性も学校時代からそのままだと思うと言っていました。
旧構造と新しく整備された構造が重なっているのでしょう、たまりませんなあ💦(笑)
下流へ下がって行きます。
当時”忠節橋”と名が付いていた橋に来ました。
忠節橋の意味は、戦争に勝つ目的が実現するまで、愛国、天皇、戦勝につくすとかそんな意味なのでしょう。
新しく改修されており、当時の趣は感じられません。
先程の上の橋とこの橋は近いのに、上の橋は名前が付けられなかったのですね。
神社に設置されているチハ車(九七式中戦車)を帰還させた池田氏の知り合いと言う男性が、うちに当時の倉庫があるから見てみる?とおっしゃるので、興奮気味に拝見させて頂きました!
男性「赤煉瓦が綺麗でしょ?うちの場所は、戦車の修理場だったんだよ。おやじは満州で憲兵やってた、そしてここに来たんだ。」
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)うんうん
建物を観ると、他で見た油脂庫の様です。
これはたまりませんなあ💦(笑)
男性「でね、他に、カクカクシカジカで、四角いのがけっこう落ちててね、ちょっと手加えて、はじくとまたいい音するんだよ、昔はそれ拾うやつが結構いて、解体中に手や腕ふっとんじゃったやついたね。あと林ん中に塹壕とか演習の穴がボコボコ残ってるから、見に行くといいよ、私の土地ならいいよ。」
私「そうなんですか!💦行ってみます。ありがとうございます。」
男性「池田さんも亡くなったし、若獅子神社の神主さんも亡くなってるし、関係者が皆んな高齢で居なくなってる、市も当てにならない、もう靖国で管理してくれないかな。慰霊祭が夏か秋頃あるからくればいい。」
色々お話しを聴かせてもらいありがとうございました、もっと聞きたかったのですが、時間が制限されていたので、また今度お願いします。
貯水池の前の通りまで来ました。
右側が貯水池です。
ここに来る途中に鹿が数匹いて、驚きました。💧
いい雰囲気です。
当時あった物は、かなり大きな貯水池だった様で、これはその一部の様です。
広大な施設だったのですから、大きくないと賄えませんね。
手前の水槽より奥の水槽の方が歴史がありそうなので、当時の名残りかもしれません。
気温は高いのですが、風が乾いているので、涼しくて気持ちがいいです。
<<Return MoveOn>>
若獅子神社裏手で、アイアンショットの練習をしていた男性(60才位)が説明してくれました。(笑)
男性「私は、戦後の開拓民なんだけど、施設の建物を皆さん結構倉庫や住居に改築して使ってますよ。うちの倉庫は、施設の木材をもらって作ってあります。(当時の施設ではないので撮影しませんでした。)
隣のお宅に弾薬庫がずっと残っていました、今は取り壊しちゃいました。
HKSの工場がある方の森の中に”基本射撃場”の弾洩れ防止の土手が残っています。
訓練で大量の弾が使われたわけですから、林業で弾が出て来る事もあるそうですよ。
神社の出入り口にある戦車学校の門柱は、井出小学校のグラウンド出入り口にあった物を移築したものです。小学校のある場所が本部でした。
施設の消火栓ですが、その防火水槽の一部が残っていて、今も利用しています。周辺の側溝も当時の物を利用しています。道路も大体当時のままですね。」等ご教授して頂きました。
(上記写真、防火水槽)この辺りは、弾薬庫、弾薬整理所があった付近なので、その関係の防火水槽だったのでしょう。
男性「北側に大きな貯水池がありますが、当時もそこに巨大な貯水槽があったので、その一部が利用されている様です。」
構内図に北門のあった場所の左側の道に橋の印があるので、確認します。
反対側から。
簡易的なパイプ柵が設置してあるだけなので、好きな人(マニア)以外はこれが橋とは気づかず、普通は通過します。(笑)
ご近所の男性に寄ると確かに陸軍時代ここに橋があったそうです。
今は、表面は舗装されたが、下地は当時のコンクリートだそうです。
川は、今はコンクリート側溝になったが、当時は普通の砂利川だったそうです。
コンクリートがかなり厚いです、重量がある戦車が通るわけですから、厚くないと橋が落ちますからね。
たまりませんなあこの穴(笑)
反対側です。
雑草が生い茂り、良い雰囲気です。
橋名は不明ですが、小さいので、当時から無いのかもしれません。
手前には、側溝から当川に流れてくる複雑な構造をした場所があります。
近所の男性も学校時代からそのままだと思うと言っていました。
旧構造と新しく整備された構造が重なっているのでしょう、たまりませんなあ💦(笑)
下流へ下がって行きます。
当時”忠節橋”と名が付いていた橋に来ました。
忠節橋の意味は、戦争に勝つ目的が実現するまで、愛国、天皇、戦勝につくすとかそんな意味なのでしょう。
新しく改修されており、当時の趣は感じられません。
先程の上の橋とこの橋は近いのに、上の橋は名前が付けられなかったのですね。
神社に設置されているチハ車(九七式中戦車)を帰還させた池田氏の知り合いと言う男性が、うちに当時の倉庫があるから見てみる?とおっしゃるので、興奮気味に拝見させて頂きました!
男性「赤煉瓦が綺麗でしょ?うちの場所は、戦車の修理場だったんだよ。おやじは満州で憲兵やってた、そしてここに来たんだ。」
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)うんうん
建物を観ると、他で見た油脂庫の様です。
これはたまりませんなあ💦(笑)
男性「でね、他に、カクカクシカジカで、四角いのがけっこう落ちててね、ちょっと手加えて、はじくとまたいい音するんだよ、昔はそれ拾うやつが結構いて、解体中に手や腕ふっとんじゃったやついたね。あと林ん中に塹壕とか演習の穴がボコボコ残ってるから、見に行くといいよ、私の土地ならいいよ。」
私「そうなんですか!💦行ってみます。ありがとうございます。」
男性「池田さんも亡くなったし、若獅子神社の神主さんも亡くなってるし、関係者が皆んな高齢で居なくなってる、市も当てにならない、もう靖国で管理してくれないかな。慰霊祭が夏か秋頃あるからくればいい。」
色々お話しを聴かせてもらいありがとうございました、もっと聞きたかったのですが、時間が制限されていたので、また今度お願いします。
貯水池の前の通りまで来ました。
右側が貯水池です。
ここに来る途中に鹿が数匹いて、驚きました。💧
いい雰囲気です。
当時あった物は、かなり大きな貯水池だった様で、これはその一部の様です。
広大な施設だったのですから、大きくないと賄えませんね。
手前の水槽より奥の水槽の方が歴史がありそうなので、当時の名残りかもしれません。
気温は高いのですが、風が乾いているので、涼しくて気持ちがいいです。
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