浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

集い来る過去世に学びし
友がらの一人一人の
愛おしきかな

「御垂訓」

2020-09-12 23:49:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が法友から贈呈された白衣を着けて
カメラに収まったお姿ですが、ご覧の様にカスミがかかったようになっています。


恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

        無償の行為とそれに伴う現象


先の続き・・・

今、皆さまの心に「ああ、私は幸せだ、私には何の苦しみもない、
本当に幸せだ」という方がおられますと、
その幸せは結果として現れていますから、
過去に喜びの原因をお作りになっていて、
今がその喜びの中にあるのです。
では、不幸にして今、苦しい、なぜ私は苦しいのだろう」と
いう人がございましたら、
それは苦しみの原因を過去において積んだから、今、
結果として苦しいのです。
原因があるから、結果が現れております。
ただ、させていただくのみ。一切の報酬を求めないで、
ただ、させていただくことです。
世の中に偉いといわれる人は数多くおられますが、
自らを捨てて他を生かそうと実践されている本当の偉い人は、
砂の中からダイヤモンドを捜すようなもので、
なかなかお見かけできません。

神理、正法を口にはしましても、思いにおいて、
言葉において、行いにおいて、
何とかして会員を増やそう、会員が減らないようにしよう、
或いはお金に困っているから寄附をしてもらいたい、長生きしたい、
などと言ったり思ったりしておりますと、これはもう正法
神理とは違います。「私こそ法の後継者、正法を伝えるのは私一人だ」と
自分のことを自分で先生、先生と言ったり、はっきりと嘘とわかっていて、
知らない会員を騙したり自らを正当化する為に人さまを非難中傷しながら、
「私は悪口は言ったことがはない」などと言っておれば、
これはもう帳消しですね。
教えの中にも誤りが出て来ます。
行いが間違っておりますと、正しい教えは説けません。
自分を捨てた、自己を犠牲にした、他の人への奉仕、
その行為の中に正しい教えが沸き上がってきます。


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「御垂訓」

2020-09-12 01:19:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」の喜びの旅でフランスのサンジルタール修道院を
訪問した時、化粧箱に入れられて院内の一室に安置されているお亡くなりになられて
150年以上たった今もその肉体が腐敗されていない聖処女ベルナデッタ様をカメラに
収めたものですがご覧の様に化粧箱の下に青い光線が写っています。


恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

      無償の行為とそれに伴う現象


そこで間違ってはならないことは、
人さまの為に尽くさせていただいて、
一生懸命心底から尽くした時に、人から裏切られた場合です。
この時、私たちは自分の心を傷つけます。
「ほんとうになんという憎い人だ。あれだけしてやったのに、
あの恩知らず。

ようあんな恩知らずの人があったものだ」と言って、
自分が尽くした人の裏切りによって、
夜も寝ないで苦しんでいるのですね。
この苦しみが、せっかく良い行いをしながら自分を
不幸におとしいれている
一つの大きな原因となっています。

「あの人は神か仏のような方で、
あんないい人がなぜあんな不幸な一生を送ったのか、
あんないい方がなぜあんなえらい病気になったのだろうか」と
思うような方がたくさんおられます。
それは全部、自分の心を苦しめたという原因が、
苦しみという不幸な結果として現れているのですが、
案外このことに気が付いていません。

「裏切った人が悪い、私は一生懸命尽くしたのに、
あの裏切り者が悪い」と言って、
人を恨みます。
しかし苦しんでいるのは自分の心です。
恩を忘れて裏切った人の心は苦しんでいません。
裏切られた人は夜も寝られないで腹を立てて怒っていますが、
裏切った当人は、そんなことには関係なくぐうぐう寝ています。



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