恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第二章 必要なのは正しい生命観の確立
◆死ぬとは何か◆
先の続き・・・
そのためにも生命の本質を知らなくてはなりません。
心臓も肺も胃も私たちの意志で動かしているわけではありません。
私たちは生命の祖でありエネルギーの元である神から
分け与えられた命によって生かされている存在です。
ですから、人は神の分け御霊と呼ばれます。
自分の命がどこから来てどこへ帰るか。
これがわかれば、心穏やかに死を迎えられます。
周囲の人々には迷惑や心配をかけなくてすみます。
「この身体は私のもので、私が生きているのだ」と
思われがちですが、それはとんでもない見当違いです。
その証拠に、「私は年をとりたくない」と言っても、
また「死ぬのは嫌だ」と言っても、
時間が経てば必ず年をとり、死ななくてはなりません、
これを自分ではどうすることもできません。
自分がいただいている命がどこから来ているのかが理解でき、
この世から離れる時は諸々の執着より思いを離し、
感謝できてはじめて、帰るべきところに帰ることができます。
「母なる大地に肉体をお返しし、
魂は天の父なる神のみもとに帰る」ということです。
あの世の存在については科学的な証明が
ないではないかという方もいらっしゃいます。
しかし、臨死体験の研究やサナトロジー
(死の科学)の開拓者として世界的に有名な
「死ぬ瞬間」の著者エリザベス・キューブラロス
(一九二六年生まれのスイスの精神科医)
の努力などにより、近年では一般にもかなり
浸透しつつあります。
一杯のお茶を「頂戴します」と言って飲べば、
この世からそのお茶は消えてなくなるように、
現在ある建物でも何百年か何千年も経てば
消えてなくなってしまいます。
同様に私たちの肉体も現にここにあるように思っていても、
定められた時間が過ぎた時には、
この肉体は消滅してしまいます。
死が訪れるとたちまちにして肉体は腐ってゆき、
一瞬たりともとどまることなく腐乱しいきます。
野に放っておけば、やがて腐り果てるか、
動物や鳥に食べられて、やがて消えてしまいます。
今在るように見えるのは、
ただ一時的に現れているにすぎません。
この世に形あるものとして生じた限りは、
必ず消えてゆかなければならない宿命のもとにあります。
頂いたお饅頭が、トイレに行くとそのままの形で
出て来るなどということはありません。
この世のいっさいはまったく実体がないことがわかります。
形となって現れた世界、般若心経で説かれている
「色即是空 空即是色」の「色」の
世界に当たる目に見える現象世界
(以後、現象界と呼ぶことにします)を「この世」と
呼んでいます。
一方で、「空」と表わされている世界、
「あの世」という世界が、実はちゃんとあるのです。
そして、こちらこそが実体のある世界
(以後、実在界と呼ぶことににします)です。