浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

集い来る過去世に学びし
友がらの一人一人の
愛おしきかな

「御垂訓」

2021-06-15 00:14:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

                第三章 天上界への道

              ◆生き地獄とあの世の地獄◆


先の続き・・・

昔から地獄というと、餓鬼界や阿修羅界など、
その苦しみの思いの種類によっていくつかに分類されてきました。
たとえば、「足ることを知る」ということを忘れ、貪欲に溺れれば、
その思いは自ずと餓鬼界へ通じていきます。
また、権力闘争など争いの思いは阿修羅界へと通じていきます。
これら二つの地獄は、人間の煩悩にうちでも最も気をつけなくてはならない
自我我欲の思いと自己保存の思いが原因となって現れてくるものです。

「残水の小魚 食を貪りて時に乾くを知らず」という諺が仏典にあります。

川の水が引いた後に残された水たまりの
浅い水にピシャピシャと小さな魚たちが
尾びれを動かしながら群れて、餌を奪い合っています。
雨も降らず、もうじきに水が干し上がってしまおうとしているのに、
そのことにさえも気付かずに食を漁り貧ぼるのに夢中になっております。
「残水」とは余命のたとえです。

人間でもいろいろな欲望を追いかけて、
もっと財産や土地や家を手に入れたいと躍起になっているうちに、
だんだんと死が近づいてくるのですが、それにも気付かず、自我我欲に
とらわれたあさましい姿とその運命をうまく言い表わしたものです。
私は二十歳の頃からこれをすごい言葉だなあと思っておりました。

人間はみんな足ることを知らないでいつまでも
欲望にとらわれて右往左往している。
そして、やがて死ぬということも忘れている、
なんと浅はかなんだろうと考えたり、
仕事仲間のうちで友達がいじめられ、
根性悪くされるのを見てもとてもつらい時期があったし、
人の死を多く見せられたので、
なおさら実感をもってこの言葉の意味が胸に入ってまいりました。
あってもあっても充足しない心は、
そのまま餓鬼界の意識につながっていきます。

       「糞中の穢虫 居を争いて外の清さを知らず」

という諺も私たちに人間世界における真実を示してくれています。
政界や宗教界において組織の中で自分の地位を
確保しようとポスト争いをする様が、
ウジ虫が糞の中にありながら互いに居場所を
争っている様子にたとえられています。
権力闘争の思いは、事後保存の欲望や自我我欲の
欲望から来るものです。

互いに自分の地位を守ろうとし、
また相手を失脚させて望む権力の座におさまろうという
権謀術数が渦巻く世界にあって、
やがて対立闘争の思いはカルマとなって、
阿修羅界に通じてゆきます。
そんな心の休まる暇もない世界を一歩外に踏み出せば、
清らかな世界があるとも知らずに、
自らの煩悩の火で自らの心を苦しめていきます。


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「御垂訓」

2021-06-14 01:01:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

              第三章 天上界への道

            ◆生き地獄とあの世の地獄◆


たった今幸せであったとしても、
次の瞬間に心を苦しめてしまいますと、
心は極楽から地獄へ一挙に転げ落ちてしまいます。
それが長く続き、苦しみの程度が甚だしければ
生き地獄ということになります。

ふつう地獄と称せられるあの世の苦しみの世界は、
肉体がなくなってもなお意識がけが存続し、
生きている時の苦しい心の状態を持ち越したまま、
別の次元に移行した時に、
自らの思いによって展開されてくるものにほかなりません。

宇宙の運行が一秒たりとも休まず、
自然界が変転すること絶え間のないように、
人間の心と身体の細胞組織も一瞬毎に変化しています。
それらが発する波動が常に変化しているとも言えます。
もう怒りっぽい自分は克服できたろう、もう大丈夫と思っていても、
何かの縁に触れてまた激怒してしまったなどということは
誰にでもありそうなことです。

不調和な思いの波にさらわれ、
低い所に転落することから自らの心を守るためには、
出て来た嫌な思いや辛い思いをできる限り早く
切り替えてしまうことです。
そうすれば、まず生きながら味わう生き地獄に喘ぎがなくなります。
魂の修行の場としてのこの世で出会う人々や起きる出来事の縁に触れ、
様々な課題や試練に遭遇することになります。

けれども、それらを乗り越えて行く時、
今迄どうしても乗り越えられず、
自分が直そうとしても直らなかった癖や欠点などがやがて修正できて、
それが自信につながり苦しみは喜びとなります。

私たちは偽我の本当の姿に直面するのを恐れています。
そして、社会で人から期待される、
それぞれの人から都合がいいと見られる自分であろうとして、
仮面をかぶり、偽りの人格をまとってしまいます。
それでいて、自分の嫌な面や醜い面は人から見えないところに
押し隠しています。
それが潜在意識にたまり、
汚れや曇りとなって心の輝きを失わせてしまいます。
生きている間に真実の自己の姿に直面して、
精一杯魂を浄化すべきです。


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「御垂訓」

2021-06-13 00:16:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

              第三章 天上界への道

            ◆本当の神は罰など当てない◆


「神のみ名において赦しません」などと戒める宗教がありますが、
そんなことは絶対にありません。
神の心の中には責め裁く思いはありません。
太陽の心と同様に、神の心は無限の赦しです。
ただし、私たちの心は人に嘘をついても自分自身に
嘘をつくことは決してできません。
良心があるからです。

この良心が私たちが罪過ちを犯した時、
人は誰も知らなくとも自らを責め裁きます。
私たちが罰を恐れるのも、私たちの思いの中に自らを
責めたり裁いたりする心があるからです。
しかし、それが悔い改めて真理に目覚めるためならいいのですが、
ただ不必要に自らに罪悪感を背負わせるためにだけ、
自らを責めさいなみ続けるのなら、
これも一つの業であり、心に潜む魔です。

その時、自分の心は必ず苦しむはずです。
また、責める対象が他人であってもやはり自分の心は苦しみます。
もちろん、この場合相手の心にまで苦しみを与えてしまいます。
その結果、自分の心を暗くし、人様の心をも暗くしてしまいます。
そして、同時に心は重くなり、光の量は減ってゆきます。
それはなぜかというと、神の御心にない心というには、
光に対する影となって心に闇をもたらし、
光の量を減らすからです。

自分の心が明るくならなければ、
いくら宗教をやってもなんにもなりません。
正しい法を実践すれば、正しいものの見方と
正しい心の持ち方と正しい言葉の話し方と
正しい行いというものが、その人の身に必ず現らわされてきます。
古い人格は消え去り、
それまでとはまったく違う生まれ変わったかのような
神の子としての本来性が現れてきます。
神様は、「己自身を苦しむることなかれ、己を愛し、
己を愛するが如く他を愛せよ」とおっしゃいます。

そしてまた、「汝らの喜びは我が喜びなり、
汝らの苦しみは我が苦しみなり」ともおおせられます。
「我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ、
もし我が心と離れし箇所に気づかばそれを悔い改めよ、
その時、汝らの魂は浄まれり」というのが神の御心です。
私たちの誤まてる行為さえも神様は大きな心で赦されておられるのです。

いつでも自ら間違いを反省によって知り、悔い改め、
つぐないの行為によって挽回するチャンスをくださっています。
だから、やり直しがきかないということも、
罰せられるということもありません。
自分の失敗なり過ちを素直に悔い改めて、
二度と再びその間違いを犯さないようにすればいいのです。
「人は先に過ちを犯せども後に過ちを犯さざれば、
その人の世間を照らすこと、
雲を離れてひとり輝く満月の如し」という仏典の言葉があります。

現れては消えて行く実体のない現象界の出来事に
いちいちとらわれることなく、
過ちを繰り返さぬ前向きな努力をしていけば、過ちを犯して、
それを自覚したがゆえにかえって新しく生まれ変わり、
今度はより立派な人格となり、
世間の人々に光を放つ存在となれることです。
希望を与えられる言葉だと思います。

内奥の神の御心罪深き この身を通し示す現わす。
我が行為 神の御心あらわさん 父(神)の御心世に示さんがため


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「御垂訓」

2021-06-11 23:59:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第三章 天上界への道

        ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

それまでは想念の厚い雲が実在界より来る神様の光を遮っていたわけですから、
この曇りがなくなれば現象界のほうにまでその光が届き、差し込んできます。
霊魂の器の内部に神我はあります。
表面意識のほうから見れば、いちばん内奥にある意識です。
想念の曇りを除きつつ奥に分け入ってはじめて到達できるのが、
潜在意識の最深部にある神の分け御霊としての神我であり、
キリスト意識であり、宇宙意識です。

ところで、私たちの命のふるさとは、
個別の霊魂の容器の彼方に無限に広がる大宇宙体を
つかさどる一つの偉大なる意識のほうにあります。
コップの口のあいたほうです。

肉体の五感に影響された理性、知性、本能、感情などから見て、
神社仏閣や教会やお墓や仏壇などを死後の世界とイメージで
結びつけたがるのは、単なる習慣上の思いにすぎません。
まったく想念が浄化され、なんのとらわれもない
自在無礙の空そのものの意識になってしまいますと、

仕切り板がなくなったコップを常に神様から来る光が
サァーッと突き抜けいく状態となります。
その時、この世の現象界にまであの世の実在界の光が完全に通り、
すでに心は自由にこの世とあの世とを往還できるようになっています。
この世に肉体がありながら、もはや心は肉体の五感にとらわれずに、
自由自在に意識を働かせ、宇宙大に意識が拡大しています。

こういう方を如来と呼びます。
如来という言葉には、「来るが如し」という意味があります。
それは、今説明させていただきましたような、
あの世の実在界のほうから来た神の光その
ままであるということなのです。
つまり、この地上にあっても、肉体の五官に振り回されずに、
神様の御心を行いに具現し、

その存在自体が神の御姿を如実に示し現わすことができたなら、
その時その人の心は如来の心と言えます。
又、神人とも言えます。
心の奥にある神我に到達せんと心を磨き、
少しでも如来に近づく努力をしていこうとする人が増えれば増えるほど、
この地球世界は実在界の写しのような大調和した理想世界となってきます。
仏国土、ユートピア、神の国、地上天国などと呼ばれる世界です。


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「御垂訓」

2021-06-11 00:20:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

                  第三章 天上界への道

             ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

そのためには、今迄に述べましたように、思いのスモッグが晴れて、
生命のもとの神からの光が入ってこなくてはなりません。
その思いのスモッグが発生する場所は、図1(先日投稿)で説明しますと、
コップの中を二つに仕切っている仕切り板
(想念帯と呼ぶことにする)のような思いの層となります。
だいたい一対九くらいの割合でコップの中の空間を仕切っています。
これを境にしてコップの開口部のほうが五官を超えたあの世、実在界、
反対の方向が五官の世界、この世、現象界ということになります。

五官の感官により生ずる思いの層には、
自己保存や自我我欲といった所謂エゴの生み出す煩悩もたまり、
それらが思いのスモッグのように厚い堆積層となって
実在界から来る光を遮っています。
そこで、これがだんだん薄くなり、
実在界のほうから差し込んでくる神の光が現象界の
表面意識にまで通りやすくなってくる必要があります。

それには自分の心を見つめる反省をして、
自己の想念行為の過ちに気付かなくてはなりません。
想念帯には日々のいろいろな感情や考えが完全に
行為に表わされ消えていかずにたまっていて、
過去に犯した過ち、思い出したくない不都合な出来事の記録、
不愉快な感情までも押し込まれ、記憶の底に沈んだり、
たまに浮上してきたりします。

それは丁度録音テープに記録されているようなものです。
心の発する叫びや独り言や雑音までも想念帯に記録されています。
また、遠く過去世にさかのぼる想念感情もあります。
すべて肉体の五官にまつわる想念感情です。

それが心に曇りをつくり、神の光を遮る原因となっています。
反省をしていくと、この部分に照明が当てられ、
しだいに沈んでいた想念が表面意識のほうに映し出され、
浮かび上がってきます。

それを悔い改め、償いの善き行いを積んだ時、
過ちの原因だった不調和な想念は、
明かりがもたらされて闇が去るように、
想念帯の中から消され、取り除かれてゆきます。


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「御垂訓」

2021-06-10 00:50:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

               第三章 天上界への道

          ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

ここはコップを逆さにして底を上から見た時に、
図2のように見えます。
想念を中心としてその周囲を囲むようにして、
ちょうど穴のあいた蓮根の断面のごとく
理性、知性、本能、感情の四つの働きが
分かれて集まっています。

それらは、たいてい大きさが不揃いになっています。
均等な大きさへとバランスがとれてくると、
心が調和していると言います。


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「御垂訓」

2021-06-09 00:10:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓


 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第三章 天上界への道

      ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

私たち一人一人の個別の霊魂の容器をコップにたとえるとします。
まず、図1を御覧ください。
これはコップの側面図です。
コップにたとえられた霊魂の容器の口をあけたほうに行けば潜在意識のほうに降りていき、
底のほうに行けば、私たちの表面にある意識に近づいていきます。
表面意識とは、見たり聞いたりしたことから悲しんだり、喜んだり、ものを考えたり、
食べ物を得たりと、感情、理性、知性、本能などの働きをする場所です。


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「御垂訓」

2021-06-07 22:09:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

インターネットが明日の午前5:00まで使用できなくなるとの先行通知がありましたので、
本日只今先行して当ブログの明日分の投稿をします。


 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第三章 天上界への道

        ◆宇宙を動かす力とつながる心の内奥◆


先の続き・・・

以前先生と呼ばれているある方が、
「何年か先には地球が風船玉のしぼんだようにしぼんで
土星の外に飛んで出る」と、もっともらしいお話をなさいました。
しかし、もともと地球が今の位置を変えて他の惑星の所へ
飛んでいきますと、
これは太陽系のみならず、大宇宙全体におけるバランスを
大いに崩してしまうことになります。
時計の歯車が一個飛び出しただけで、
その働きが止まってしまうのと同じです。
ところで、この大宇宙や大自然というものを
動かしている目に見えない力とは、
たった一つの大いなる意識であり、巨大なエネルギーとして、
私たちが神と呼んでいる存在のことです。
この神様の意識を私たち一人一人がこの胸の内に
いただいているのです。
太平洋の水が神様とすると、
その一滴一滴の海水が私たちの意識です。

汲む上げた水は太平洋の水となんら変わりありません。
それと同様に、大いなる神様とまったく同質同根の心が私たちの心の
一番深いところに存在しています。
それが「神様」と呼ぶものです。

これに気付かせていただくには、神の子としての自覚を持ちながら、
神の子として恥ずかしくない行いと生き方をすることです。
親鸞上人の教えの中に、「心を開いてずっと奥底を覗いたら、
御本尊は鬼だった、阿弥陀様におすがりして、ただ一念念仏申さば、
鬼は鬼のままで救われる」と説かれています。

これは一念に徹して心を余計な思いに向けず、
ひたすら阿弥陀様の御心に向ければ救われるということです。
煩悩具足の罪悪深重の凡夫と自らを称した親鸞が
自らの心の内を顧みて認めたのが心の鬼、
つまり煩悩です。
しかし、その鬼のもっとも奥まで入った時、
神の御心がましますのです。
これが実相であり、私たちの神我です。


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「御垂訓」

2021-06-07 00:47:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

           ◆心の重量と行き着く先◆


地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、
わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間の
はかない存在が人間というものです。

形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、
実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世の
あらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世いる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。

肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、
行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも
呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、
この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、
「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。

すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を
言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の
生活を送っていらっしゃる方は、

心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、
そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。



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「御垂訓」

2021-06-06 00:05:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

            ◆心の重量と行き着く先◆


地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、
わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間の
はかない存在が人間というものです。

形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、
実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世の
あらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世にいる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。

肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、
言葉がどんな状態か、行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも
呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、
この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、
「手の舞い足の踏む所を知らず」

とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。
すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の
状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の
生活を送っていらっしゃる方は、

心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。


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「御垂訓」

2021-06-05 00:21:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

       ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

浄心庵ではそこに集われた人々とともに現在も週に二度、
一日の反省をしますが、昭和六十二年頃でしたが、
その頃には毎日禅定を行っていると、ある時期毎日のように
不思議な現象が起こりました。
今日はどんなことが起こるのでしょうね、
と楽しそうに言われる方もおられるくらいでした。
たとえば、
禅定に入ると天上界からのものとしか思えぬ美しい音楽が流れ、
禅定を解くまでずっとそこに集う大勢の人々が
それを聞いていたことがありました。
はじめはかすかな音ですが、それがだんだんと大きくなり、
また寄せては返す波のように大きく鮮明になってきます。

時にはその妙なる調べとともにどこの国の言葉かはわかりませんが、
厳かに説法をされているような声が聞こえてまいりました。
ワァ-ッとすごい音がなり響いた時もありました。
UFOの飛行する音はまだ聞いたことがありませんが、
おそらくそんな音に近かったのではなかったかと思います。

禅定の最後にどうぞこの場に集う方々に光をお与えくださいと祈ると、
小さなうすい金の鈴を何百個も一度に振ればこのような
音色になるのかと思われるような、
とても涼やかで繊細優美な音が奏でられました。
マクドナルド・ベインさんの著書に、
イエス様が入ってこられると天から音楽が
鳴り響いてくると書かれているのも、
自分の体験からよくわかるのです。




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「御垂訓」

2021-06-04 00:18:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第二章 必要なのは正しい生命観の確立

         ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

「心身の神癒」を読むと、
そこには私たちの命そのものは永遠に死なないということが、
うかがえます。
肉体は時間の中で成長し、衰え、ある時間が来ますと、
この世界から消えていきます。
物質だからです。

ところが、生命そのものは死にません。
魂は天上界に帰って、
何回も生まれ変わるうちにいろいろなことを学んで、
それぞれの心の癖や欠点を修正していきます。
やがて、完全に成長すればこの世に生まれることはありません。

「如来は再生されないだろう」という仏典の言葉もあります。
イエス様はあの世に帰られたけれど、
ベインさんの体を通して説法をしている。
この死んでも死なないというのは、命そのものです。
生命のことなのです。

本当は生かす力と言うほうがよく、一なる神の御命だけが存在し、
私たち一個の命はそれにより生かされているだけです。
どんな聖者でもその肉体は滅びます。

ですから、「私を信じる者は私の中に生きる」という言葉の意味は、
イエスの教えの中に生きるということです。
花々を通し、動物たちを通し、人間と天使たちを通し、
愛が全宇宙の中心、
神の御心より泉のように流れていると言っておられます。
神の愛とは命そのものであり、

常に私たちの内なる意識へとそそがれています。
「神、我とともにあり、我、神とともにあり」という言葉の
意義深さもここからわかってまいります。
あらゆるものを生かそうとするその愛と生命の力こそは、
形なき神様から発せられるものです。
そして、人に嘘をつけても自分に嘘をつくことのできない心、
これが神のささやきです。

これにいつも耳を傾けることです。
世の宗教家の中には、過去の聖者が自分の中に入ってきたと言って、
その言葉を述べる方がいらっしゃいますが、
証拠がなければそれが本当にイエスや
お釈迦様などの語られているものなのか
どうかもわかりません。

外なる言葉と内なる言葉を識別すべきです。
ところが、このマクドナルド・ベインにイエスが入った時には、
この世では聞いたこともないなんとも言えぬ美しい音楽が説法の期間中
その会場に鳴り響いたり、

ご本人よりも一回り大きな姿に身体が伸長したり、
誰が見てもイエス様がのりうつっておられるとわかるほどに
お顔が変貌されたりしたそうです。
霊的なものはこのように証拠がない限りは信じてはなりません。
これも身体に現わされた心の現象の不思議の一例です。


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「御垂訓」

2021-06-03 00:36:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第二章 必要なのは正しい生命観の確立

      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


マクドナルド・ベインという方の書物は、
現在のキリスト教では認められていませんが、
イエス・キリストの語られた真理の言葉が書かれています。
この方はヒマラヤでいろいろな勉強をされました。
『心身の神癒」や『解脱の真理』などの著書があります。

第二次大戦後、
南アフリカのヨハネスブルグに暮らしていた
マクドナルド・ベインに
イエス様の霊が入ってきて、彼の口を通して語られました。
現代の教会の誤りを指摘しつつ、
真理はキリスト教徒だけのものにあらず、
万人のものであるということを明らかにしています。
人間を神の分霊であるとしています。
現代の教会ではなぜイエス様の現わされたような
奇蹟が起きないのか言いますと、

神学に頼るばかりでイエス様の説かれた心を本当には
実践していないからです。
イエス様は、「私のごとく生きた者は、
私以上の力を現わすであろう」とおっしゃっています。
私はお釈迦様の説かれた法やイエス様の説かれた
真理を行うことによって、もっとも近き
弟子になろうと努力しています。

あくまでも法というのは、
日々の実践によってその命が宿るものです。
お釈迦様は、「行いなく、ただ聖句だけを唱える者は
他人の牛の数を数えるが如し」という
言葉を残されています。
当時、牛は財産を意味していました。
他人の財産をいくら数えても、

自分のためにも他人のためにも利益がないということです。
また、イエス様は、「あなた方は祈りによって
信仰の証しを立てようとしますが、
私は行いによって信仰の証しを立てましょう」と言われたそうです。
言うより行えということです。

「遠くにありても近き弟子。近くにあっても遠き弟子」とは。
お釈迦様の言葉です。
高橋信次先生のお口から聞き、大変感激した言葉です。
たとえ身近に仕えて師の教えを実践しない人は、
遠く離れた弟子であり、

いまだ巡り逢うこともなくとも、その教えを理解し、
実践する者は最も近き弟子であるという意味です。
「心身の神癒」は、第一話から始まって第十四話までありますが、
その第一話に「我はよみがえりなり。命なり。
すなわち神の愛なり。

私を信じる者は私の中に生き、けっして死なないのである」と
記されてあります。
イエス様は肉体の生死を超越して永遠の生命があることに気付かれ、
それを得られたのですが、
私たちもまったく変わりのない本質というものを持っているのだと
いうことを自覚したいと思います。

私が言っていることを信じてほしい、
そしてみなさんにもこの素晴らしい真理に到達してほしいという願いは、
イエス様の人類への愛でもあります。
ただし、疑問があれば追求し、もはや疑う余地がなくなってはじめて、
本当の信頼ができてくるので、無理に信念を持つのとはちがいます。


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「御垂訓」

2021-06-02 08:13:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第二章 必要なのは正しい生命観の確立

        ◆仏壇とお墓――誤やまった生命観からの迷い◆


先の続き・・・

先祖供養を主としてやっている宗教は多くあります。
この先祖供養の究極の目的はなんでしょう。
ある宗教では、六親眷属の中から亡くなった人を一人でも
多く寄せ集めてきて拝んだら、
功徳があると言って、それに戒名をつけてもらい、
何百体という親戚縁者の亡くなった人を集めて、
一生懸命に拝んでいます。

もし悟っておられる方であれば、戒名をつけようが、
名前を呼ぼうが、
あの狭いお仏壇の中などには来られません。
悟ったお方は自由なのですから、
高い次元の世界に通常はいらっしゃいます。

この地上界のお仏壇にとどまる必要はないはずです。
そういうものに救いを求めて来られる諸霊があるとすれば、
これは成仏できていない不成仏霊ばかりです。
そういう方々を自分の家にたくさん招かれますと、
良い結果は出ません。

先祖供養の本来の目的というのは、亡くなった方々に
この現象界から思いを離して、
魂のふるさと、天上界に帰っていただくことにほかなりません。
供物やお経や線香や燈明を献じても、
それで成仏できるわけはありません。
それどころか、「ここにおれば安心だ。ここにおれば、
お経も線香供えてくれる。

ああ、長いこと放ったらかしにされていたけれど、
ここにいたら安心だ」と、
かえって霊をその場所にとどめてしまって、
その結果成仏できなくしてしまいます。
執着を与える結果となります。

先祖供養は先ず己が成仏することからと心得て下さい。
私たち自身の生活態度が大切です。
何時間も念仏を唱えて拝んでいても、
一家が喧嘩ばかりで不調和な生活をしていれば、
ご先祖様はちっとも救われません。

ご先祖様に成仏していただこうとすれば、
まず己れが成仏し、救われて、
その幸せな姿を見てもらうことです。
それが物質のお供えなどより、
何よりの供養となります。

「ご先祖様のお陰で本当に幸せに
暮らさせていただいております。
お金はたくさんありませんけれど、
貧乏はしておりません。

身体もお陰様で健康でございます。
いつも感謝に満たされております」というように
ご先祖様の前で報告させていただきますと、
ああよかったと喜んでくださいます。

お墓というものに意義があるとすれば、
自分がこの世に生きた、
ささやかな記念碑であればよいと思っています。
自己という一個の肉体をいただいた人間が、
自らの使命に目覚め、
どれだけ多くの人々に喜んでいただいたか、
どれだけ多くの人々のために尽くせたか、
どれだけ多くの人々に神の愛を捧げたか。

昭和六年七月二十五日にこの世に生をいただき、
この世を去ってあの光の世界に帰るまでの間に、
どれだけの行いができたか、
この地球の上にどれだけの善き行いを積めたか、
それらに関しての自己への讃美の碑としたいと思っています。

お仏壇も、ご先祖様に心を向けて、そのご恩に感謝し、
今の幸福を「ご先祖様のお陰です」
と報告させていただく天上界への窓口と
思わさせていただいております。


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「御垂訓」

2021-06-01 01:01:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

       ◆仏壇とお墓――誤まった生命観からの迷い◆


もし、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだとか、
お墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、必ずそこへ行きます。
死ねば肉体がなくなり、思いの世界、心の世界だけとなりますから、
この目に見える現象世界よりももっと精妙な波動の想念が写し出す世界に
住むことになります。

思ったことはこの現象世界よりも速く、そのままに現わされてまいります。
だから、死んだ後にはあの世などなく、無に帰すまでだと信じている方は、
行く先知らずとなります。
ところが、亡くなってもなお意識があるとわかり、はじめて、戸惑いますが、
生き場がないのでさまようしかありません。

そうかといって、お仏壇やお墓に入るものと思っていればそこへ行き、
やはり成仏はできません。
つまり、光あふれる素晴らしいふるさとに帰り着くことはできないのです。
死んでお仏壇やお墓の中に入ってはなりません。
これまで私たちの考えていたこととは違うかもしれませんが、
お仏壇やお墓はこの世の現象世界の物質です。
その物質に心をとらわれていては、そこから心が離れられず、
成仏できません。

以前、四国に行きました時に、
死んでお墓に入ってはいけませんと話していますと、
あるおばあさんが「私は毎日お墓へお参りして、
どうか早くお迎えください。
ここへ入れてもらったら極楽です、
と言って頼んでいます」と言われます。

「それはいけません。もし、不審に思われるのだったら、
今夜一晩おひとりでお墓に行って寝てみてください」と言いますと、
「いやいや怖い怖い、あんな所ではよう寝ません」とおっしやいます。
生きていて怖い場所は死んで行ってもやはり怖いのに決まっています。
同じ意識を持った自分が行くのですから。



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