第1話 開発中の迅速な危機管理
新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やChief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった、と述べた。40年間を振り返って最も重要視すべきは、開発期間中の危機管理の実例であった。大きな開発には、必ず終盤に成否を左右する危機が訪れる。件の日英米独伊の5カ国共同開発中のV2500エンジン が、多くの関係者の共通認識として、「このまま計画を進めても型式承認が取れないのではないか」と考えた時期がそれである。
問題の発端は、Rolls-Royce社が担当をしていた高圧圧縮機なのだが、その前にRolls-Royce社の過去の危機管理を紹介しよう。当時のRolls-Royce社 は「Rolls-Royce1970」という名称で呼ばれたていた。それ以前に開発していた米Lockheed 社 の3発機L-1011トライスター(Tristar) 用のエンジン開発が約1年遅れただけのダメージにより経営が悪化して、1970年に国有化されていた企業であった。つまり、新型エンジンの開発はそれほど危険なものなのだ。この失敗を教訓に十数年後に見事に復活したRolls-Royce社の話は、別途語ることにして、今回はV2500に絞ろう。
新型エンジンの開発は、その開始条件として有力なエアラインの確定受注が前提であり、V2500も既に多くの受注を抱えていた。
2500 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
MD-90-30に搭載されたV2528-D5
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Air-ftd-md90-02-ar-8.jpg
V2500エンジンは、当初日本の参加を梃子に全日空からの受注に大きな期待を寄せていた。しかし、その期待は見事に裏切られた。
また、最大の顧客であったLufthansa(LH)による契約キャンセルの動きが、年明け早々風雲急を告げ、LHとの打合が繰り返され、LH がV2500に止まる為の最終条件として提示された項目について、フトハンザの契約を維持すべくあらゆる手段が講じられた。
この為に設計部隊にも多くの追加要求が出された。
しかし2月、LHはV2500契約のキャンセルを発表した。
そのことは、1987年の初頭に突然起こった。5年間以上も苦労を重ねた開発エンジンの型式承認の大ピンチである。Rolls-Royce社の技術陣は匙(さじ)を投げてPratt & Whitney社 に下駄を預けてしまった。この時Pratt & Whitney社がどのような危機管理を行ったかは、永遠の教訓であろう。それは、4週間で問題にケリをつけた見事な危機管理体制とDecision Makingであった。そして私は、日本チームのChief Designerとして最も大きな影響を受ける部分の設計責任(註1)を負うことになったのだが、概略はこのようであった。
危機管理非常体制下の活動は1週間単位で4つに分けられる。つまり、アサインされた責任者が分析をして具体案を決め、会社のTOPがそれを理解して決断を下すというサイクルが、1週間単位で4回繰り返され、見事に危機脱出計画が纏(まと)まったということである。
○ 第1週は、危機管理宣言と指導者の任命に始まり、Current Status Investigationが綿密かつ公平に行われた。そして週末には、Approach & Strategy の明示と共に Recovery Mission の合意と決定を行った。
○ 第2週は、Problem Item Definition と Risk Level Allocation である。会社は直ちに解析作業に必要な人材の提供を行った。そして週末には会社TOPに対して項目別の Risk Level の報告が行われた。
○ 第3週は、Goal と其処(そこ)へ至る Mile Stone の設定である。そしてそれに添った Program の立案と必要な Resource (Cost & Man Power) の算出が行われた。週末にTOPに対して、Program/Resource の報告が行われ、それに対してTOPは直ちにProgram の承認と Resource の保障を行った。
○ 第4週は、新たに補強された実働 Member により、誰が何をどのように何時までに実行するかの計画と Open Issue の確認が行われた。そして、全パーティーがそれに添っての活動を全速力で進め始めた。
1987年3月27日に責任者のTom Harper氏が纏(まと)めた「V2500 RECOVERY」というたった20枚の報告書がある。
・Current Status
・Configuration Review
・Development/Certification Program
・Compliance/Production Program
・Open Issue
というセクションで簡潔に纏められている。
この中でApproach/Strategy の項では、4段階のリスク・レベルに対しての記述になっており、各国が担当する部分のリスク・レベルの段階的な低減スケジュールが示されている。この報告書をスタート・ラインとして、それから約1年余りの死闘が始まったわけであるが、その中身は別の機会に譲るとして、5カ国7社が短期間に Best と思われる解決策を纏められたことは素晴らしい危機管理能力と云える。中でも特筆すべきは、次に述べる「Single Company Policy」と、「経営トップの素早いリソース決断」であった。
「Single Company Policy」
Tom Harper氏のいつも口にする言葉は「a Single Company Policy」であった。
今でも当時の設計仲間との付き合いが所属の会社に拘わらず続いているが、当時から「デザイン・コミュニティー」とか、「シングル・カンパニー・ポリシー」という言葉を頻繁に使っている。開発が旨く進まなかった時や、不具合をどう直すかなどを議論する会議では「ビジネスの連中は、誰の責任だ、追加の資金はどこが持つか、などといっているが、我々設計技術者は一つの会社・一つの家族の精神で乗り切ろう」というものです。これを言い出したのは米国人で、ピュリタニズムが健在なりと感じました。多国間の共同開発事業の成功の一つの秘訣だったと思う。
「経営トップの素早いリソース決断」
現状の設計の評価と、変更案の検討は各国のChief Designerが額を寄せ合って検討をするのだが、設計部隊は各国に残っている。時差の関係で、24時間連続して作業は進められるが、トップの決断を待たねばならない項目が多数存在する。しかし、それらは総て週末の間に決断が下された。この、1週間単位の仕事の中味の配分と、週末の間に正しい決断を下すトップの機能には、日本では考えられない論理性とスピード感があった。
「驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談」
しかし、当時の危機管理はそれだけではなかった。この話には、驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談がある。
V2500エンジンは正確な Recovery Plan の末に無事当初の予定通りに型式証明を取得し、商業飛行も順調で売れ行きはうなぎのぼりに上昇し、現在では歴史的なベストセラーエンジンにまで成長をした。しかし、件のTom Harper氏はその後まもなくPratt & Whitney社を離れて同じUTC(United Technologies Corporation) 内のエレベータで有名なオーチス社 へ移った。そして、まもなく消息が切れた。Texasで念願のカウボウイになったと云う人もいる。
1999年のある日、私はナポリの空港にいた。1週間にわたるカプリ島でのFIAT社が幹事のGE社の品質に関する会合からの帰途であった。金曜日の午後であり、欧州勢は一目散に帰宅、アメリカ人の多くはご婦人同伴でスイスやオーストリアへ向かった。私はパリ経由の成田行きに乗るためにアリタリア航空のゲートにいた。しかし、待てど暮らせど来ぬアリタリア機は結局パリが悪天候でキャンセルとなってしまった。
覚悟を決めてカウンタでの交渉が始まった。先ずは、フライトの交渉。アリタリア氏は週末のヨーロッパ各地発はJALもANA も全て満席で、たった一席だけフィレンツエ発のアリタリア便のみが予約できます、とおっしゃる。午後遅くの出発便なので、少なくとも半日はフィレンツエ見学ができるぞ。次は宿。ナポリはスリが多く一人歩きは危険だ、早朝フィレンツエに向かうには空港のそばが良い。アリタリア氏は空港から程近いホリデイインを取ってくれた。
ヴェスヴィオス山を見ながらレストランで早めの夕食を採ることにした。客は私一人だけ。しばらくして、2人ずれの米国人が私の後ろに席を取って食事を始めた。聞くとは無しに話し声が耳に入る。Tom Harper氏とかV2500とか言っている。思わず振り向いて食事はそっちのけで飲みながらの話が弾みだした。彼らは、米国南部に居を構えるコンサルタント会社の人で何と当時Tom Harper氏から「V2500 Programから撤退するときのシナリオの作成を頼まれていた」そうである。これが、本当の危機管理である、見事なものだ。
余談はまだある。当時この話を知った三菱重工の某部長さんが後日彼らを雇った。三菱重工が米国での機体の商売から手を引く時に雇われたそうだ。
話に夢中になった私は、名刺入れも持ち合わせず、財布の中の予備の名刺を渡した。食後の散歩を終えて部屋に戻った私は、愕然とした。財布がない、ここはナポリだ、最悪だ。散歩ですっかり酔いは覚めたが、血の気が引くとはこのことだ。公園で子供たちのグループと話したときに、ひょっとして後ろで、などと後悔しきり。とにかくあわててフロントへ小走りで近づくとイタリア氏がにこにこしている。こちらが話し出す前に私の財布を目の前に出してきた。「さっき貴方と食堂で一緒だったアメリカ人が届けてくれました」。ああ、ホリデイインで良かった。アリタリア氏に感謝、感謝。そして、危機管理の大切さを改めて認識した次第でした。
(註1)
この時の設計変更はエンジン全体に及ぶものであったが、中でもRolls-Royce社が担当の高圧圧縮機の仕事の一部を受けもつことにした日本の低圧圧縮機の設計変更は大作業であった。圧縮機の段数を増やすのだが、既に機体とのインターフェイスは全て決まっていたので、エンジンの全長はおろか、重量や重心位置も動かすことはできない。この設計変更は、Pratt & Whitney社の空気力学の専門家も加わったが、短期間で成功裏に完成したことは、日本の設計技術者の「与えられた課題にたいする回答を素早く完成させる能力」の真骨頂であった。
脚注;
V2500は2軸式の高バイパスターボファンエンジンである。エアバスA320ファミリーとマクドネル・ダグラスMD-90向けに開発された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/V2500
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://www.rolls-royce.com/
1995年の合併でLocheed Martin社。 http://www.lockheedmartin.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキード_L-1011_トライスター
http://www.pw.utc.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユナイテッド・テクノロジーズ
http://www.utc.com/Home
http://www.utc.com/Home
新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やChief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった、と述べた。40年間を振り返って最も重要視すべきは、開発期間中の危機管理の実例であった。大きな開発には、必ず終盤に成否を左右する危機が訪れる。件の日英米独伊の5カ国共同開発中のV2500エンジン が、多くの関係者の共通認識として、「このまま計画を進めても型式承認が取れないのではないか」と考えた時期がそれである。
問題の発端は、Rolls-Royce社が担当をしていた高圧圧縮機なのだが、その前にRolls-Royce社の過去の危機管理を紹介しよう。当時のRolls-Royce社 は「Rolls-Royce1970」という名称で呼ばれたていた。それ以前に開発していた米Lockheed 社 の3発機L-1011トライスター(Tristar) 用のエンジン開発が約1年遅れただけのダメージにより経営が悪化して、1970年に国有化されていた企業であった。つまり、新型エンジンの開発はそれほど危険なものなのだ。この失敗を教訓に十数年後に見事に復活したRolls-Royce社の話は、別途語ることにして、今回はV2500に絞ろう。
新型エンジンの開発は、その開始条件として有力なエアラインの確定受注が前提であり、V2500も既に多くの受注を抱えていた。
2500 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
MD-90-30に搭載されたV2528-D5
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Air-ftd-md90-02-ar-8.jpg
V2500エンジンは、当初日本の参加を梃子に全日空からの受注に大きな期待を寄せていた。しかし、その期待は見事に裏切られた。
また、最大の顧客であったLufthansa(LH)による契約キャンセルの動きが、年明け早々風雲急を告げ、LHとの打合が繰り返され、LH がV2500に止まる為の最終条件として提示された項目について、フトハンザの契約を維持すべくあらゆる手段が講じられた。
この為に設計部隊にも多くの追加要求が出された。
しかし2月、LHはV2500契約のキャンセルを発表した。
そのことは、1987年の初頭に突然起こった。5年間以上も苦労を重ねた開発エンジンの型式承認の大ピンチである。Rolls-Royce社の技術陣は匙(さじ)を投げてPratt & Whitney社 に下駄を預けてしまった。この時Pratt & Whitney社がどのような危機管理を行ったかは、永遠の教訓であろう。それは、4週間で問題にケリをつけた見事な危機管理体制とDecision Makingであった。そして私は、日本チームのChief Designerとして最も大きな影響を受ける部分の設計責任(註1)を負うことになったのだが、概略はこのようであった。
危機管理非常体制下の活動は1週間単位で4つに分けられる。つまり、アサインされた責任者が分析をして具体案を決め、会社のTOPがそれを理解して決断を下すというサイクルが、1週間単位で4回繰り返され、見事に危機脱出計画が纏(まと)まったということである。
○ 第1週は、危機管理宣言と指導者の任命に始まり、Current Status Investigationが綿密かつ公平に行われた。そして週末には、Approach & Strategy の明示と共に Recovery Mission の合意と決定を行った。
○ 第2週は、Problem Item Definition と Risk Level Allocation である。会社は直ちに解析作業に必要な人材の提供を行った。そして週末には会社TOPに対して項目別の Risk Level の報告が行われた。
○ 第3週は、Goal と其処(そこ)へ至る Mile Stone の設定である。そしてそれに添った Program の立案と必要な Resource (Cost & Man Power) の算出が行われた。週末にTOPに対して、Program/Resource の報告が行われ、それに対してTOPは直ちにProgram の承認と Resource の保障を行った。
○ 第4週は、新たに補強された実働 Member により、誰が何をどのように何時までに実行するかの計画と Open Issue の確認が行われた。そして、全パーティーがそれに添っての活動を全速力で進め始めた。
1987年3月27日に責任者のTom Harper氏が纏(まと)めた「V2500 RECOVERY」というたった20枚の報告書がある。
・Current Status
・Configuration Review
・Development/Certification Program
・Compliance/Production Program
・Open Issue
というセクションで簡潔に纏められている。
この中でApproach/Strategy の項では、4段階のリスク・レベルに対しての記述になっており、各国が担当する部分のリスク・レベルの段階的な低減スケジュールが示されている。この報告書をスタート・ラインとして、それから約1年余りの死闘が始まったわけであるが、その中身は別の機会に譲るとして、5カ国7社が短期間に Best と思われる解決策を纏められたことは素晴らしい危機管理能力と云える。中でも特筆すべきは、次に述べる「Single Company Policy」と、「経営トップの素早いリソース決断」であった。
「Single Company Policy」
Tom Harper氏のいつも口にする言葉は「a Single Company Policy」であった。
今でも当時の設計仲間との付き合いが所属の会社に拘わらず続いているが、当時から「デザイン・コミュニティー」とか、「シングル・カンパニー・ポリシー」という言葉を頻繁に使っている。開発が旨く進まなかった時や、不具合をどう直すかなどを議論する会議では「ビジネスの連中は、誰の責任だ、追加の資金はどこが持つか、などといっているが、我々設計技術者は一つの会社・一つの家族の精神で乗り切ろう」というものです。これを言い出したのは米国人で、ピュリタニズムが健在なりと感じました。多国間の共同開発事業の成功の一つの秘訣だったと思う。
「経営トップの素早いリソース決断」
現状の設計の評価と、変更案の検討は各国のChief Designerが額を寄せ合って検討をするのだが、設計部隊は各国に残っている。時差の関係で、24時間連続して作業は進められるが、トップの決断を待たねばならない項目が多数存在する。しかし、それらは総て週末の間に決断が下された。この、1週間単位の仕事の中味の配分と、週末の間に正しい決断を下すトップの機能には、日本では考えられない論理性とスピード感があった。
「驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談」
しかし、当時の危機管理はそれだけではなかった。この話には、驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談がある。
V2500エンジンは正確な Recovery Plan の末に無事当初の予定通りに型式証明を取得し、商業飛行も順調で売れ行きはうなぎのぼりに上昇し、現在では歴史的なベストセラーエンジンにまで成長をした。しかし、件のTom Harper氏はその後まもなくPratt & Whitney社を離れて同じUTC(United Technologies Corporation) 内のエレベータで有名なオーチス社 へ移った。そして、まもなく消息が切れた。Texasで念願のカウボウイになったと云う人もいる。
1999年のある日、私はナポリの空港にいた。1週間にわたるカプリ島でのFIAT社が幹事のGE社の品質に関する会合からの帰途であった。金曜日の午後であり、欧州勢は一目散に帰宅、アメリカ人の多くはご婦人同伴でスイスやオーストリアへ向かった。私はパリ経由の成田行きに乗るためにアリタリア航空のゲートにいた。しかし、待てど暮らせど来ぬアリタリア機は結局パリが悪天候でキャンセルとなってしまった。
覚悟を決めてカウンタでの交渉が始まった。先ずは、フライトの交渉。アリタリア氏は週末のヨーロッパ各地発はJALもANA も全て満席で、たった一席だけフィレンツエ発のアリタリア便のみが予約できます、とおっしゃる。午後遅くの出発便なので、少なくとも半日はフィレンツエ見学ができるぞ。次は宿。ナポリはスリが多く一人歩きは危険だ、早朝フィレンツエに向かうには空港のそばが良い。アリタリア氏は空港から程近いホリデイインを取ってくれた。
ヴェスヴィオス山を見ながらレストランで早めの夕食を採ることにした。客は私一人だけ。しばらくして、2人ずれの米国人が私の後ろに席を取って食事を始めた。聞くとは無しに話し声が耳に入る。Tom Harper氏とかV2500とか言っている。思わず振り向いて食事はそっちのけで飲みながらの話が弾みだした。彼らは、米国南部に居を構えるコンサルタント会社の人で何と当時Tom Harper氏から「V2500 Programから撤退するときのシナリオの作成を頼まれていた」そうである。これが、本当の危機管理である、見事なものだ。
余談はまだある。当時この話を知った三菱重工の某部長さんが後日彼らを雇った。三菱重工が米国での機体の商売から手を引く時に雇われたそうだ。
話に夢中になった私は、名刺入れも持ち合わせず、財布の中の予備の名刺を渡した。食後の散歩を終えて部屋に戻った私は、愕然とした。財布がない、ここはナポリだ、最悪だ。散歩ですっかり酔いは覚めたが、血の気が引くとはこのことだ。公園で子供たちのグループと話したときに、ひょっとして後ろで、などと後悔しきり。とにかくあわててフロントへ小走りで近づくとイタリア氏がにこにこしている。こちらが話し出す前に私の財布を目の前に出してきた。「さっき貴方と食堂で一緒だったアメリカ人が届けてくれました」。ああ、ホリデイインで良かった。アリタリア氏に感謝、感謝。そして、危機管理の大切さを改めて認識した次第でした。
(註1)
この時の設計変更はエンジン全体に及ぶものであったが、中でもRolls-Royce社が担当の高圧圧縮機の仕事の一部を受けもつことにした日本の低圧圧縮機の設計変更は大作業であった。圧縮機の段数を増やすのだが、既に機体とのインターフェイスは全て決まっていたので、エンジンの全長はおろか、重量や重心位置も動かすことはできない。この設計変更は、Pratt & Whitney社の空気力学の専門家も加わったが、短期間で成功裏に完成したことは、日本の設計技術者の「与えられた課題にたいする回答を素早く完成させる能力」の真骨頂であった。
脚注;
V2500は2軸式の高バイパスターボファンエンジンである。エアバスA320ファミリーとマクドネル・ダグラスMD-90向けに開発された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/V2500
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://www.rolls-royce.com/
1995年の合併でLocheed Martin社。 http://www.lockheedmartin.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキード_L-1011_トライスター
http://www.pw.utc.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユナイテッド・テクノロジーズ
http://www.utc.com/Home
http://www.utc.com/Home