生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(147)メタ文学

2019年11月12日 07時34分43秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(147)
TITLE: メタ文学

書籍名;「文学論」[1966]
① 著者;夏目漱石 発行所;岩波書店 発行日;1966.8.23
② 著者;立花太郎 科学史研究 KAGAKUSHI 1885 pp.167-177
初回作成日;R1.11.8 最終改定日;
引用先;メタエンジニアリング

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
「メタ文学」という言葉はない(と思う)。代わりに「メタフィクション」という言葉が使われているらしい。いわゆる、小説の中の小説のこと。
Wikipediaには、『それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。メタフィクションの自己言及の方法には、例えば小説の中にもうひとつの小説について語る小説家を登場させたり、小説の内部で先行作品の引用・批評を行ったり、小説の登場人物を実在の人物や作者と対話させたり、あるいは作者自身を登場人物の一人として作品内に登場させる、といったものがある。小説の登場人物のセリフで「これは小説」などの発言もこれに類する。』とある。

 しかし、ここで私が書こうとしている「メタ文学」は、これとはまったく異なる。文学というものを、一段上から全体的に眺めて、解析したものである。それが、漱石全集 第9巻の「文学論」だ。
 
この書は、漱石の著書の中でも難解と云われている。確かに、658ページの全集の丸ごと一巻を費やしているし、中には膨大な数の英語の長文が引用されている。巻末には「解説」が22頁、「注解」が109頁にわたり517項目もあることが、それを示している。この注解を見ながらでないと、容易に読み解けない。そこで、②の論文の助けを借りることにした。論文名は「夏目漱石の『文学論』のなかの科学観について」とある。そこには、表題のテーマのほかに、漱石の文学論の概要も示されているので、適宜引用する。
 
冒頭に「序」が12ページにわたって書かれている。1900年(明治33年)に、突然 学務局長から英国留学を言い渡され、全くその気がないのに、『他に固辞すべき理由のあるなきを以て』受けてしまったが、直接に局長と面談して、その目的が『高等学校もしくは大学にて教授すべき科目を専修せられたき希望なり』との言葉を確認したことが記されている。(pp.5)
 序には、英国生活の概要が語られているが、公費が少額でとても留学中の他の日本人とまともに付き合う金がないことが記され、そのためにケンブリッジやオクスフォードを早々に引き上げて、ロンドンで大学の講義と書店巡りをしたことが書かれている。
 『余が講学の態度はここに於いて一変せざるを得ず。(青年の学生につぐ。春秋に富めるうちは自己が専門の学業に於いて何者をか貢献せんとする前、先ず全般に通ずるの必要ありとし、古今上下数千年の書籍を読破せん企つる事あり。)』(pp.9)として、自身もまだ「英文学全体には通じていない」としている。そこから彼の全勢力と有り金をはたいて、あらゆる書物への挑戦が始まったとしている。これは、まさにメタエンジニアリングと同じ態度だ。

② には、次のようにある。
 『漱石の文学研究はロンドンに留学中に発意されたものであることは『文学論』の序文の中に書き記されている。漱石は「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんきするは血を以で血を洗ふが如き手段」であると信じたので,あらためて哲学書から生物学書に至るまで読書範翻を拡大し,読書ノートを作った。そして「重に心理学社会学の方面より根本的に文学の活動力を論ずるが主意」としたのである。この経過をみても激石がどこかで科学の本質を問題としたとしても,それはきわめて富然のことである。』(②pp.167)

また、文学論の全容と主テーマについても、②を引用する。
 
『『文学論』は全体を次の5編に分けて構成して ある。(1)文学的内容の分類,(2)文学的内容の数量 的変化、(3)文学的内容の特質、(4)文学的内容の相互関係,(5)集合的F.
第一編の書き出しに「凡そ文学的内容の形式は (F+f)なることを要す」という漱石理論の基本原理が示されている,ここでFは人の意識の流れにおいて,ある時間その焦点をなしている認識的要素(知的要素),
fはそれにともなう情緒的要素を意味している。』(②pp.168)

『そのことを激石は次のように述べている。凡そ吾人の意識内容たるFは人により時により、性質に於て数量に於て異なるものにして,其原因は 遺伝,性格,社会,習慣等に基づくこと勿論なれぱ,吾人は左の如く断言することを得べし,即ち同一の境遇、歴史,職業に従事するものには同種 のFが主宰すること最も普通の現象なりとすと。 従って所謂文学者なる者にも亦一定のFが主宰し つつあるは勿論なるべし。』(②pp.168)

 この記述は非常にわかりにくいので、巻末の注解を頼ることにする。そこでの「F」についての記述は、このようにある。
 
『Fは、FocusまたはFocal point(焦点)であろう。ある場合にはFact(事実)と考えられることもある。fは、feeling(感情)であろう。漱石は、文学とは人間のf=感情・情緒に基礎を置くものであって、いかなるF=意識の焦点または観念も、感情を伴わず、情緒を喚起しないならば、文学の内容にはなりえない、というのである。』(pp.550-551)
つまり、漱石はFから発してfにゆくストーリーを本格的な文学としている。

 第1編の第2章は「文学的内容の基本成分」としている。エンジニアリングにとっては、工学の各科目といったところだろう。一般的には、文学は『単に高尚なる知的感覚の具』だが、その基礎である「簡単な感覚的要素」を列挙するわけである。
(1) 触覚 テニソンの詩を引用している。例えば、誰かの手を握る場面を想像する。
(2) 温度 キーツの詩の引用。寒さ暑さなどの感じ方の表現。
(3) 味覚 キーツの詩の引用。食べ物は、文学の中に頻繁に出てくるが、その表現方法。
(4) 嗅覚 スペンサーの詩の引用。花の香りの表現方法。
(5) 聴覚 音楽が主だが、詩の韻を踏むのも同じ。様々な自然の音の表現
(6) 視覚 ボールドウインの小説を引用。絵画彫刻が主だが、文学的表現はF+Fで達せられる。

最後に、シェリーのプロメテウスの一節を引用して、この6感がすべて含まれることを証明している。
さらに、マクベスの終章の一節を引用して、「恐怖の兆候を記載したFに続けて、fを含む主観分子が書かれている」としている。
 この章に表れる膨大な数の英文の詩、戯曲、小説の数には圧倒される。漱石はロンドンでいかに書物に明け暮れたかが、よく理解できるが、とても全文を読む力は私にはない。

第1編第2章は「文学的内容の分類及び其価値的等級」とある。ここには、文学に対する漱石の自信のようなものを感じる。『情緒は文学の試金石にして、始にして終なりとす。』(pp.104)として、次の4種に分類している。
(1) 感覚F;先に挙げた6項目など
(2) 人事F;人間の芝居であり、善悪喜怒哀楽を鏡に寫したるもの
(3) 超自然F;宗教的F
(4) 知識F;人生問題に関する観念
これらのいずれからか「F」が発せられると、強大な「f」を起こし得る(pp.105)と。そして、延々と文例とその解釈が続く。

 第2編は「文学的内容の数量的変化」と題して、先の4種が数量的にいかなる原則のもとにあるかを論じている。

 第3編は「「文学的内容の特質」で、その第1章が「文学的Fと科学的Fとの比較一汎」となる。
『凡そ科学の目的とするところは叙述にして説明にあらずとは科学者の自白によりあきらかなり。語を換へて云はば科学は“How”の疑問を解けども“Why”に応ずる能わず、否これに応ずる権利無しと自任するものなり。』(pp.219)

 そして、文学者と科学者の事物にたいする態度の違いを明らかにしてゆく。
 
『次に来るべき文学者科学者間の差異は其態度にあり。科学者が事物に対する態度は解剖学的なり.由来吾人は常に通俗なる見解を以て,天下の事物は悉く全形に於て存在するものなりと信ず,即ち人は人にして,馬は馬なりと思ふ.然るに科学者は決して此人或は馬の全形を見て其儘に満足するものにあらず, 必ずや其成分を分解し、其各性質を究めざれば巳まず,即ち一物に慧する科学者の態度は破壊的にして,自然界に於て完全形に存在する者を,細かに切り離ちて其極致に至らざれぱ止まず,単に肉眼の分解を以て溝足せずして百倍及至千倍の鏡を用ゐて其目的を達せんとす。複合体に甘んずることなく,之を原素に還し,之を原子に分かつ,さて如此き分解の結果は遂に其主成分より成立せる全形を等閑視すること濵にして,又之を顧るの必要なきことも或場合に於ては事実なりと云ひ得べし。』(pp.222-223)
 
しかし、②の論文は、これらのことは「ピアソンの書を下敷きにしている」とある。確かに、ピアソンはそのことを書いているがしかし、漱石なりの説明はあくまでも英文学の中にある。
『文学者の行う解剖は常に全局の活動を目的とするものにして、・・・』(pp.225)として、ロゼッティーの「太陽が地球を廻るも、地球が太陽を廻るも吾が関するところにあらず。』(pp.224)などを引用している。

 さらに後半では、科学者も全局を描こうとすることもあるが、その時の態度は文学者と同じか、違うかを論じている。
 まだ、この著書の三分の一を過ぎたところだが、「メタ文学」の説明には十分と考えて、本を閉じることにした。この書には、二つの「メタ」が存在する。一つ目は、漱石による文学のメタ化であり、英文学の様々な分野を一段上の立場で解析している。二つ目は、個々の文学作品は、認識された事象「F」を「f」の場でメタ化しているということ。そこに、科学者と文豪の違いがある。