民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化 (序)
先年、私は国立科学博物館の依頼で、「民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化調査」というレポートを纏めた。このシリーズは、その内容に当時はページ数の制限で書けなかった部分の追加などを含めて、私の若いころからの日の丸エンジンへの見果てぬ夢の行き先を示してゆくことを試みる。
1960年代の大学紛争の中で学部と修士の学業を終えたときに、ジェットエンジンの開発と量産こそは、日本の次の製造業を担うのにピッタリと考えて、この分野に入った。当時の工学部の中で、最も人気の高かったのが航空宇宙学科だったこともあるのだが、流体と熱工学の最先端の知識と、多くの難削材の精密加工との組み合わせを必要とするジェットエンジンの開発と量産は、次の日本の製造業の柱になる可能性が大きいと考えてからであった。
しかし、50年以上たった現在の状況は、三菱の新型航空機の開発が不調に終わったことで、夢の実現は益々遠のいてしまったように感じられる。しかし、まだ望みを捨てるわけにはゆかない。そこで、この分野の技術について、これからの人たちに少しでも知見を持ってもらうために、このシリーズを始めることにした。
ライト兄弟による初の動力飛行の成功は、1903年12月17日になされたが、それは人類の古代からの夢を実現した瞬間であった。その夢は、僅か100年余りの期間に、世界中の多くの人が自由に安心して旅行できるまでに成長した。ある発明を契機にして、これほど長い間人類が夢に見ていた技術が、短期間に完成したのはジェットエンジンに負うところが大きい。
なぜ、それが実現したのか。そこには技術の系統化に関する二つの大きな特徴がある。第1は、発明当初から、国際間の情報交換が盛んに行われたことだった。それには、平和時の国際共同開発があげられるが、戦争時等における相手方の軍用機の利点と欠点を必死に追及した努力も含まれる。
第2の特徴は、人から人への技術の伝承が、常に行われていたことであった。ジェットエンジンの作動原理の基本は単純で、このことは発明以来変わらない。問題は、性能の向上と安全性と信頼性の確保にある。このことは、必然的に暗黙知の伝承が必要となる。つまり、優れた設計と製造の技術があっても、膨大な経験が的確に伝えられなければ民間航空機用のエンジンの型式承認を取得することはできない。
1903年を契機にして、世界中の多くの発明家が独自の飛行機を設計して、その性能を競った。当初のそれは、いかに早く目的地に到着できるかで、競争相手は自動車だった。それが達成されると、次は長距離の安全飛行で、それは1927年のリンドバーグの大西洋横断飛行の成功で達成された。しかし、当時の航空機産業は採算性が悪く、郵便輸送や遊覧飛行が中心であった。
その状況が一変したのは第2次世界大戦で、当事国の航空機生産能力は一気に向上した。各国の製造機数は現代をはるかに上回る数で、その間には、性能の向上と大型化が飛躍的に行われた。しかし、エンジンはレシプロで、ジェットエンジンは一部を除いてまだ実用レベルには達していなかった。
ジェットエンジン技術が急激に伸びたのは、戦後も続いた大国間の緊張によるもので、軍需予算の多くが、この分野の研究と開発に費やされた。そして、その完成された技術が民間航空機用に転用された。このために、新規の開発には多くの特殊性があり、その内容をよく理解する必要がある。
エンジンの大型化と信頼性の向上が、大洋横断に十分なまでに成長すると、国際間移動の需要の急上昇と共に多くのエアラインが乱立した。その中で、国家の威信を背負ったフラッグ・キャリアーと呼ばれるエアラインの力が強力になり、エンジン開発は、その要求によって大型化に重点が置かれた。またこの頃には、安全性の確保のために、多くの国際間協定が結ばれ、更に排気ガスと騒音という環境問題の解決のための許容限度に関するルールが、頻繁に見直されることになった。その結果、ジェットエンジン技術の高度化が破断なく続けられて今日に至っている。
それでは、古代から現代に至るまでの長い歴史について、書き始めることにしよう。
先年、私は国立科学博物館の依頼で、「民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化調査」というレポートを纏めた。このシリーズは、その内容に当時はページ数の制限で書けなかった部分の追加などを含めて、私の若いころからの日の丸エンジンへの見果てぬ夢の行き先を示してゆくことを試みる。
1960年代の大学紛争の中で学部と修士の学業を終えたときに、ジェットエンジンの開発と量産こそは、日本の次の製造業を担うのにピッタリと考えて、この分野に入った。当時の工学部の中で、最も人気の高かったのが航空宇宙学科だったこともあるのだが、流体と熱工学の最先端の知識と、多くの難削材の精密加工との組み合わせを必要とするジェットエンジンの開発と量産は、次の日本の製造業の柱になる可能性が大きいと考えてからであった。
しかし、50年以上たった現在の状況は、三菱の新型航空機の開発が不調に終わったことで、夢の実現は益々遠のいてしまったように感じられる。しかし、まだ望みを捨てるわけにはゆかない。そこで、この分野の技術について、これからの人たちに少しでも知見を持ってもらうために、このシリーズを始めることにした。
ライト兄弟による初の動力飛行の成功は、1903年12月17日になされたが、それは人類の古代からの夢を実現した瞬間であった。その夢は、僅か100年余りの期間に、世界中の多くの人が自由に安心して旅行できるまでに成長した。ある発明を契機にして、これほど長い間人類が夢に見ていた技術が、短期間に完成したのはジェットエンジンに負うところが大きい。
なぜ、それが実現したのか。そこには技術の系統化に関する二つの大きな特徴がある。第1は、発明当初から、国際間の情報交換が盛んに行われたことだった。それには、平和時の国際共同開発があげられるが、戦争時等における相手方の軍用機の利点と欠点を必死に追及した努力も含まれる。
第2の特徴は、人から人への技術の伝承が、常に行われていたことであった。ジェットエンジンの作動原理の基本は単純で、このことは発明以来変わらない。問題は、性能の向上と安全性と信頼性の確保にある。このことは、必然的に暗黙知の伝承が必要となる。つまり、優れた設計と製造の技術があっても、膨大な経験が的確に伝えられなければ民間航空機用のエンジンの型式承認を取得することはできない。
1903年を契機にして、世界中の多くの発明家が独自の飛行機を設計して、その性能を競った。当初のそれは、いかに早く目的地に到着できるかで、競争相手は自動車だった。それが達成されると、次は長距離の安全飛行で、それは1927年のリンドバーグの大西洋横断飛行の成功で達成された。しかし、当時の航空機産業は採算性が悪く、郵便輸送や遊覧飛行が中心であった。
その状況が一変したのは第2次世界大戦で、当事国の航空機生産能力は一気に向上した。各国の製造機数は現代をはるかに上回る数で、その間には、性能の向上と大型化が飛躍的に行われた。しかし、エンジンはレシプロで、ジェットエンジンは一部を除いてまだ実用レベルには達していなかった。
ジェットエンジン技術が急激に伸びたのは、戦後も続いた大国間の緊張によるもので、軍需予算の多くが、この分野の研究と開発に費やされた。そして、その完成された技術が民間航空機用に転用された。このために、新規の開発には多くの特殊性があり、その内容をよく理解する必要がある。
エンジンの大型化と信頼性の向上が、大洋横断に十分なまでに成長すると、国際間移動の需要の急上昇と共に多くのエアラインが乱立した。その中で、国家の威信を背負ったフラッグ・キャリアーと呼ばれるエアラインの力が強力になり、エンジン開発は、その要求によって大型化に重点が置かれた。またこの頃には、安全性の確保のために、多くの国際間協定が結ばれ、更に排気ガスと騒音という環境問題の解決のための許容限度に関するルールが、頻繁に見直されることになった。その結果、ジェットエンジン技術の高度化が破断なく続けられて今日に至っている。
それでは、古代から現代に至るまでの長い歴史について、書き始めることにしよう。