生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(75) 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

2023年12月13日 10時41分21秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(75)     
題名;都心部の坂道と階段(その3)  場所;信濃町~四谷三丁目 月日;2023.12.8
テーマ;迷子になりそうな町
作成日;2023.12.12                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

 今日は、信濃町駅から北に向かって歩くのだが、終点は「その1」で歩き始めた四谷三丁目の荒木町の交差点になる。つまり、新宿通りを挟んで、その1では北側、今回は南側になる。
 中央線の信濃町駅は、神宮外苑や明治記念館に行くために、何度も降りたことがあるのだが、いきなり千日谷を下るのは初めてだ。ちなみに、谷の名前は、ここの領主の法要が千日間行われたことに拠るとか。下った先の窪地で、早速に方向が解らなくなって、いきなり引き返すことに。



 坂の途中には、公明党の建物がある、中央線から看板がよく見える処だ。道なりに進むと、旧東宮御所の門の前の通りに出てしまった。神宮外苑から迎賓館に通じる道で、大学への通学によく通った。現在は、上宮御殿になっているので、かつてよりも守衛さんの数が多い。



 方向転換をして坂を下ると、中央線を潜ることになる。そこから先は一本道だ。

 次の目当ては、若葉公園ですり鉢の底のような地形だと書いてある。
途中で道を聞いてなんとかたどり着いたのだが、何もない公園だった。
しかし、公園からは、次の暗闇坂が見通せる。昼でも暗闇だったそうだ。
丁度、保育園児の一団が降りてくる処だった。




 暗闇坂を登り切って、細い路地を進むと、須賀神社の裏手に出る。そこには何故か36歌仙の絵入りの額が並んでいた。このあたりでは、四谷十八ヵ町の鎮守様として、かつては江戸の五大祭りの一つとして有名でしたとある。社名の須賀は、須佐之男命が出雲の国で八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」との故事に基づき名付けられた。





 社務所には、やはり朱印帳の列があったが、私は、鳥居のストラップを選んでだ。なぜ鳥居なのかは解らないが、外人向けなのかも知れない。赤い紐は、「叶むすび」と呼ぶそうで、丸(四角)と十字の結び目が、叶という字になっている。


 
 拝礼を済ませて、正面から出る。すぐに天王坂という長い階段がある。しかし、その先はまた上り坂になっている。 谷底を左に行けばゴールの四谷三丁目だが、反対方向へ曲がる。服部半蔵の墓がある、西念寺を目指した。



 
 西念寺への道は単純だったのだが、お寺の境内は崖の上。通りがかりの人に聞いてもどこが入り口か解らない。
崖に沿ってこのまま進むか、思い切って「観音坂」という名の急坂を登るかの選択だった。道を聞いた人が登るので、話しながら坂を登ったのが正解だった。登り切った角を更に曲がり、結局、迷った場所の対角線の位置に山門があった。
 墓所は広いのだが、境内は意外に狭く、半蔵の墓と信康の供養塔はすぐに見つかった。





 服部家は徳川以前の松平時代の譜代家臣で、2代目服部半蔵正成が徳川家康に仕えて武功立て、8千石の旗本になった。彼は、いわゆる忍者ではなく、「槍の半蔵」と呼ばれる豪傑だったらしい。なぜこの地に家康の長男で、信長から切腹を強要された信康の供養塔を建てたのかは、よく分からない。




 山門でUターンをして、四谷三丁目へ向かう。途中には「東福院」と「円通寺」が有り、それぞれが「東福院坂(別名は天王坂)」と「円通寺坂」の中程にある。坂を登ったり下ったりで、
ウオーキングにはうってつけだった。



 そして、ついに地下鉄丸ノ内線が通る新宿通りとの交差点に出た。道の向こう側には、その1を歩き始めた荒木町の人力車の頭飾りがある赤い街路灯が見えた。





 全行程は7900歩、2時間強のウオーキングでした。