文化と文明への眼 KMM3315,3317,3319,3321
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
鈴木大拙の著書4冊(③&④ of 4)
書籍名;
①「仏教の大意」中央公論新社 [2017]
②「神秘主義」岩波書店 [2004]
③「禅に生きる」ちくま文芸文庫 [2012]
④「禅八講」角川選書 [2013]
この中で、①は1947年に底本が出版されたので、最も古い。
また、③の副題は、「鈴木大拙コレクション」であり、
また、④は、副題に「鈴木大拙 最終講義」とある。
③「禅に生きる」ちくま文芸文庫 [2012] KMB3317
副題は、「鈴木大拙 コレクション」であり、大拙の主要な書簡と雑誌類への投稿が示されている。
書籍の紹介には次のように書かれている。
『本書では、今では読むことが難しい、雑誌への投稿論文や、西田幾多郎ら近しい人たちへ宛てた書簡を、編年体で収録。すべてを知ることのできる仏の智慧=「般若」と、すべての生きとし生けるものを救う仏の慈悲心=「大悲」が融合する大拙特有の「禅」がどのように作りあげられたのか、その思想の道すじが分かる。』
1922.1.6の「中外日報」より、当時問題となっていた「婦人解放問題」については、
『仏教者も何時まで良妻賢母主義に共鳴すべきであるまい。自分の信仰を基として是々非々主義を高唱しなくてはならぬ。』で結んでいる。
1924年の「中央仏教」第8巻第7号では、当時の米国における移民と排日問題については、現代のトランプの大統領令に関しても、このような発言をする日本の仏教学者が存在したら、現代日本も随分と違うものになっているだろうと思わせる。
『米国のやり口が乱暴であることは言うまでもない。同じ仕事で、同じ効果が上がるなど、と国民の自尊心を損じないでやる方が、利口であり、又礼儀でもあり、八釜敷云えば、正義人道にも叶うわけである。それをやらずに、真向から、何等緊急な必要ないのに、又何等のプロボカティブもないのに、「貴様には用はない、汚い奴、出て行け」と云うことは、大国民の襟度ではない。近頃の米国はどうかして居るに相違ない。』(pp.161)
しかし、同時にさらに続けて、
『今日の日本には世界の文明に対して有意義ならしむるものが何かあるかを考えてみたい。即ち日本の存在を世界的に有意義ならしむるものが何かあるか、これを調べてみるとどうか。』(pp.162)
この問いに対する彼の答えが、順次明らかになってゆく。結論は、教育改革のようなのだが、
『俳句のさび、生花の雅味、茶の湯の閑寂、墨絵の瀟洒、建築の清楚、気分のあっさりしたこと、地獄でもあまり苦しくは見えぬこと、人の災害には己を忘れることーーこれはまことに結構であるが、これだけでは国民性の偉大さを表すに充分と云うべきであろうか。これだけでも、あるは有るが、余程深い意味においてであると云えるか、どうか。』(pp.164)
『量で大きくてなれぬというなら、質で行きたい。それには思い切って精神の力を各方面に渉りて発展せしむるのだ。日本人にどの位の力があるのか、それを試してみるのだ。それをやるには教育を盛んにする。
今日のような教育でない。自由な創造的な教育をやる。各自の精神の力を極度に発揮するを目的とした方法によりて社会の各層を一様に教育する。これには経済問題も大いに加わるが、その解決も、小さな処を目当てにせずに個人精神力の創造的進展を期してやるのである。』(pp.167)
これらは、現代でもそのまま通用する内容だ。
1962.1.1の読売新聞には、「人間の尊厳を守れ」と題して、ケネディー大統領閣下とフルシチョフ首相閣下宛ての英文の書簡を記している。所謂キューバ危機にたいする発信なのだろう。
『人間の尊厳は般若(=智慧)と慈悲と、これら二つを実現するための方便の三つの要素で構成されていると考えられる。方便は般若と慈悲を具体化し、個物化するものである。』(pp.401)
と述べた後で、次のように説いたのちに核兵器の不使用を訴えている。
『各自の向上心によってみがかれた純粋な心と明晰な頭脳は、利害得失から生ずるいっさいのごたごたを解決するにすこぶる有力だが、この方便によって常に人間は自己の尊厳を構成する般若と慈悲とに各自立ち返らしめるのである。科学の諸分野は、今全世界を悟りに導くために、豊かな資源を提供しているといえるが、同時に、これはわれわれが般若と慈悲を忘れてこれらの成果の活用を誤った場合、はかり知れないわざわいを起こすことを意味するのである。』(pp,402)
ここまでが前置きで、ここから具体的な提言が始まり、「核兵器戦争の危機に直面している」とか、「これは愚の骨頂ではないか」といった言葉が発せられている。
④「禅八講」角川選書 [2013] KMB3319
副題は、「鈴木大拙 最終講義」であり、大拙の主要な講義が8つ納められている。最終講義以外は、すべて海外で行われたものの英文和訳である。
「Zen Opens Our Eyes to the Self which is Altogether Unattainably Attainable」という演題は「禅は人々を、不可得という仕方で自証する自己に目覚めさせる」となる。
話は、中国で禅を始めた慧可が、師の達磨に「こころが不安だ」と問うたところから始まっている。達磨の答えは、「汝の心をここへ出してくれれば、安心させてやろう」だった。そして、「長年心を探して参りましたが、いまだにそれを掴めません」との返答に、「そこだ!汝の心を安心させた!」といい、これで慧可は悟った。
この話は、正に「不可得という仕方で自証する自己に目覚めた」ことを示している。
さらに具体的には、科学者が科学的な説明ができないであろうとの例として、次のように述べている。
『運動や働きなどが客観的には強制によるものだとか、いわゆる自由意思に反するものとみられるときでも、確かな自由の感覚があることである。この確かさの感覚、あるいは意識はどこから来るのであろうか。
人間以外のすべての生物には、私が「意識しない意識」とか「意識する無意識」とも呼ぶ特殊な「人間的」道徳感覚が、どうやら無いようである。それは創造性の本能と深く繋がっている。禅はこの自律性の感覚を軸にして働いているといってよいだろう。』(pp.16)
1954年にニューヨークで行った「Philosophy of Zen Buddhism、禅仏教の哲学」では、いかにも禅問答のようなことが、合理的に聞こえてくる。冒頭は、この言葉で始まっている。
『宗教において教説よりも経験を重んじる人々は、異口同音に、その経験が言葉による表現を超えていて、いかなる形でも表現できないと言明する。ところが、実はそう言明することで、どんな経験であるにせよそれを表現しているのである。』(pp.193)
なるほどと思う。「表現できないと言明する」ことも、「どんな経験であるにせよそれを表現しているのである」も、両方が正しいように思えてしまう。
『禅は経験であって哲学ではないというのはその通りだが、だからといって禅がそれを合理的に説明しようとするのを拒んでいるという意味にとってはいけない。だが同時に、禅を単に理論づけでそれ以上のものではないと考えてもならない。なぜならば、禅とは経験であって、この点を無視すると禅はにげてしまうから。禅には経験と理論づけの二つが必要である。二つが並行して進まなくてはならず、それが適切に行われれば、禅は力を持つ。つまり社会的にすぐれて役立つものになる。』(pp.194)
結論としては、『通常の問題解決方法とはまったく違ったやり方が禅にあるなら、それを取り上げてそれぞれのやり方で哲学を打ち立てるのも面白いのではないか。これが、私が皆さんに試みてほしいことである。私は、哲学の訓練を受けたことはないが、できるだけ前述のような禅問答を分かりやすく解説し、できればさらにこのような荒削りのあるいは手のつけられない見方や特徴をもちつつ今日に伝えられてきた禅経験なるものがあることを示したい。』(pp.197)で、講演を終えている。
じっくりと読み返すと、味わい深い文章であった。
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
鈴木大拙の著書4冊(③&④ of 4)
書籍名;
①「仏教の大意」中央公論新社 [2017]
②「神秘主義」岩波書店 [2004]
③「禅に生きる」ちくま文芸文庫 [2012]
④「禅八講」角川選書 [2013]
この中で、①は1947年に底本が出版されたので、最も古い。
また、③の副題は、「鈴木大拙コレクション」であり、
また、④は、副題に「鈴木大拙 最終講義」とある。
③「禅に生きる」ちくま文芸文庫 [2012] KMB3317
副題は、「鈴木大拙 コレクション」であり、大拙の主要な書簡と雑誌類への投稿が示されている。
書籍の紹介には次のように書かれている。
『本書では、今では読むことが難しい、雑誌への投稿論文や、西田幾多郎ら近しい人たちへ宛てた書簡を、編年体で収録。すべてを知ることのできる仏の智慧=「般若」と、すべての生きとし生けるものを救う仏の慈悲心=「大悲」が融合する大拙特有の「禅」がどのように作りあげられたのか、その思想の道すじが分かる。』
1922.1.6の「中外日報」より、当時問題となっていた「婦人解放問題」については、
『仏教者も何時まで良妻賢母主義に共鳴すべきであるまい。自分の信仰を基として是々非々主義を高唱しなくてはならぬ。』で結んでいる。
1924年の「中央仏教」第8巻第7号では、当時の米国における移民と排日問題については、現代のトランプの大統領令に関しても、このような発言をする日本の仏教学者が存在したら、現代日本も随分と違うものになっているだろうと思わせる。
『米国のやり口が乱暴であることは言うまでもない。同じ仕事で、同じ効果が上がるなど、と国民の自尊心を損じないでやる方が、利口であり、又礼儀でもあり、八釜敷云えば、正義人道にも叶うわけである。それをやらずに、真向から、何等緊急な必要ないのに、又何等のプロボカティブもないのに、「貴様には用はない、汚い奴、出て行け」と云うことは、大国民の襟度ではない。近頃の米国はどうかして居るに相違ない。』(pp.161)
しかし、同時にさらに続けて、
『今日の日本には世界の文明に対して有意義ならしむるものが何かあるかを考えてみたい。即ち日本の存在を世界的に有意義ならしむるものが何かあるか、これを調べてみるとどうか。』(pp.162)
この問いに対する彼の答えが、順次明らかになってゆく。結論は、教育改革のようなのだが、
『俳句のさび、生花の雅味、茶の湯の閑寂、墨絵の瀟洒、建築の清楚、気分のあっさりしたこと、地獄でもあまり苦しくは見えぬこと、人の災害には己を忘れることーーこれはまことに結構であるが、これだけでは国民性の偉大さを表すに充分と云うべきであろうか。これだけでも、あるは有るが、余程深い意味においてであると云えるか、どうか。』(pp.164)
『量で大きくてなれぬというなら、質で行きたい。それには思い切って精神の力を各方面に渉りて発展せしむるのだ。日本人にどの位の力があるのか、それを試してみるのだ。それをやるには教育を盛んにする。
今日のような教育でない。自由な創造的な教育をやる。各自の精神の力を極度に発揮するを目的とした方法によりて社会の各層を一様に教育する。これには経済問題も大いに加わるが、その解決も、小さな処を目当てにせずに個人精神力の創造的進展を期してやるのである。』(pp.167)
これらは、現代でもそのまま通用する内容だ。
1962.1.1の読売新聞には、「人間の尊厳を守れ」と題して、ケネディー大統領閣下とフルシチョフ首相閣下宛ての英文の書簡を記している。所謂キューバ危機にたいする発信なのだろう。
『人間の尊厳は般若(=智慧)と慈悲と、これら二つを実現するための方便の三つの要素で構成されていると考えられる。方便は般若と慈悲を具体化し、個物化するものである。』(pp.401)
と述べた後で、次のように説いたのちに核兵器の不使用を訴えている。
『各自の向上心によってみがかれた純粋な心と明晰な頭脳は、利害得失から生ずるいっさいのごたごたを解決するにすこぶる有力だが、この方便によって常に人間は自己の尊厳を構成する般若と慈悲とに各自立ち返らしめるのである。科学の諸分野は、今全世界を悟りに導くために、豊かな資源を提供しているといえるが、同時に、これはわれわれが般若と慈悲を忘れてこれらの成果の活用を誤った場合、はかり知れないわざわいを起こすことを意味するのである。』(pp,402)
ここまでが前置きで、ここから具体的な提言が始まり、「核兵器戦争の危機に直面している」とか、「これは愚の骨頂ではないか」といった言葉が発せられている。
④「禅八講」角川選書 [2013] KMB3319
副題は、「鈴木大拙 最終講義」であり、大拙の主要な講義が8つ納められている。最終講義以外は、すべて海外で行われたものの英文和訳である。
「Zen Opens Our Eyes to the Self which is Altogether Unattainably Attainable」という演題は「禅は人々を、不可得という仕方で自証する自己に目覚めさせる」となる。
話は、中国で禅を始めた慧可が、師の達磨に「こころが不安だ」と問うたところから始まっている。達磨の答えは、「汝の心をここへ出してくれれば、安心させてやろう」だった。そして、「長年心を探して参りましたが、いまだにそれを掴めません」との返答に、「そこだ!汝の心を安心させた!」といい、これで慧可は悟った。
この話は、正に「不可得という仕方で自証する自己に目覚めた」ことを示している。
さらに具体的には、科学者が科学的な説明ができないであろうとの例として、次のように述べている。
『運動や働きなどが客観的には強制によるものだとか、いわゆる自由意思に反するものとみられるときでも、確かな自由の感覚があることである。この確かさの感覚、あるいは意識はどこから来るのであろうか。
人間以外のすべての生物には、私が「意識しない意識」とか「意識する無意識」とも呼ぶ特殊な「人間的」道徳感覚が、どうやら無いようである。それは創造性の本能と深く繋がっている。禅はこの自律性の感覚を軸にして働いているといってよいだろう。』(pp.16)
1954年にニューヨークで行った「Philosophy of Zen Buddhism、禅仏教の哲学」では、いかにも禅問答のようなことが、合理的に聞こえてくる。冒頭は、この言葉で始まっている。
『宗教において教説よりも経験を重んじる人々は、異口同音に、その経験が言葉による表現を超えていて、いかなる形でも表現できないと言明する。ところが、実はそう言明することで、どんな経験であるにせよそれを表現しているのである。』(pp.193)
なるほどと思う。「表現できないと言明する」ことも、「どんな経験であるにせよそれを表現しているのである」も、両方が正しいように思えてしまう。
『禅は経験であって哲学ではないというのはその通りだが、だからといって禅がそれを合理的に説明しようとするのを拒んでいるという意味にとってはいけない。だが同時に、禅を単に理論づけでそれ以上のものではないと考えてもならない。なぜならば、禅とは経験であって、この点を無視すると禅はにげてしまうから。禅には経験と理論づけの二つが必要である。二つが並行して進まなくてはならず、それが適切に行われれば、禅は力を持つ。つまり社会的にすぐれて役立つものになる。』(pp.194)
結論としては、『通常の問題解決方法とはまったく違ったやり方が禅にあるなら、それを取り上げてそれぞれのやり方で哲学を打ち立てるのも面白いのではないか。これが、私が皆さんに試みてほしいことである。私は、哲学の訓練を受けたことはないが、できるだけ前述のような禅問答を分かりやすく解説し、できればさらにこのような荒削りのあるいは手のつけられない見方や特徴をもちつつ今日に伝えられてきた禅経験なるものがあることを示したい。』(pp.197)で、講演を終えている。
じっくりと読み返すと、味わい深い文章であった。
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