生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼(26)

2017年04月04日 07時11分03秒 | メタエンジニアの眼
鈴木大拙の著書4冊(①&②of4)

文化と文明への眼 KMM3315,3317,3319,3321
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

書籍名;
①「仏教の大意」中央公論新社 [2017]
②「神秘主義」岩波書店 [2004]
③「禅に生きる」ちくま文芸文庫 [2012]
④「禅八講」角川選書 [2013]

この中で、①は1947年に底本が出版されたので、内容は最も古い。
また、③の副題は、「鈴木大拙コレクション」であり、
また、④は、副題に「鈴木大拙 最終講義」とある。

引用先;文化の文明化のプロセス Converging & Implementing

 文化の文明化のプロセスのConvergingとImplementingを考えるにあたって、宗教と哲学を抜かすわけにはゆかないとの思いに至った。中でも、仏教と仏教哲学はメタエンジニアの眼からは最も普遍的なものに見える。仏陀の中でConvergingして、それ以降の僧侶によってImplementingされ続けたものなので、栄枯盛衰を繰り返した諸文明や、科学技術に基づくイノベーションなどとはけた違いなものとなっている。
 
 鈴木大拙の思想と著書には、従来から興味があった。理由は二つで、第1は従来の考え方にはとらわれずに、独自に研究を行う態度であり、第2は欧米人の多くの分野の人々に心底理解されているということだった。

かなり前に、私が所属する日本機械学会が金沢大学で行われた。私も二十数年ぶりで発表をしたのだが、一般の学術講演は枝葉末節のテーマが多く、早めに会場を出てしまった。金沢市内は、何度も歩き回った経験があるので、特にゆく当てもなく、足が図書館に向かってしまった。そこで出会ったのが、地元出身の二人の巨頭の西田幾多郎と鈴木大拙の著者だった。ゆっくりと読む暇はなかったので、数冊をcopyした。私の常の方法は、A5サイズの本を2冊並べて広げて、A3サイズに4ページ分を一挙にcopyするのだが、ここの図書館では、なぜか、このようにすると枚数の2倍の金額をとるそうだ。面白い発想だと思った。
 以来、その場考学とは縁のある「場の理論」の西田幾多郎の書には接したが、鈴木大拙の著書にはご無沙汰だった。いやむしろ、歯が立たないだろうと思っていた。しかし、あることがきっかけで、彼の行動がまさにメタエンジニアリングのそれと同じような気がして、にわかに4冊を選んで読むことにした。

①「仏教の大意」中央公論新社 [2017]

 


奥付の編集付記には、次のようにある。
 『本書は、1947(昭和22)年に法蔵館から刊行された「仏教の大意」を底本とし、新たな解説を作品の前に付した。』つまり、最も古いものを、最 新のコメントと共に読めることになる。

 新たな解説とは、山折哲雄氏の巻頭からP22まで続く長い文章だった。そこで、鈴木大拙の人生の概略を知ることができた。
表題には、「近代思想とは一線を画した巨人」とある。

 山折氏がロンドン大学に滞在中に、英国の日本学研究者たちに明治以降の知識人、思想家で もっとも欧米人に影響を与えた人物を問うた。岡倉天心、新渡戸稲造、内村鑑三、西田幾多郎、和辻哲郎の名が挙がったが、彼らの最終的な答えは次のように書かれている。

『それは何といっても鈴木大拙だ、なぜなら日本人思想家が書いた本はすべて私たちの知性に訴えてくるから頭ではそれを受けとめる。でも大拙だけは違う。彼は私たちの感性にまで訴えかけてくるので、私たちはからだ全体でそれを受けとめることになるからだ。』(pp.7)

そして、大拙に影響を受けたとされた人物としては、ハイデッガー、オノ・ヨーコ、スチーブ・ジョブス、多くのファッションデザイナー、音楽家、小説家、思想家などが挙げられている。
 
例えば、有名な「禅と日本文化」は、もともと英文で書かれたものが、後に邦訳されて日本で発売された。彼の著書にはそのようなものが多い。外国での著者名は、「D・T・Suzuki」だそうだ。

 大拙の考え方や発想については、次のようにある。
『そこにはたしかに在野の批判精神が脈打っている。(中略)かれがヨーロッパ思想のたんなる解説、租述といった方向に行こうとしなかったことがただちにわかる。(中略)それはあくまでも、自分の体験にもとづく禅および禅思想の普遍性を、それによって確認し証明しようとするためであった。』(pp.18) ここで、「それ」とは神秘主義思想を指している。

『どのような議論を展開しようとするときでも、西洋に対する東洋、という単純な見取り図にこだわることがまるでなかった。またその延長線上で、西洋と東洋の折衷という方向に向かうこともなかった。いってみれば、インド、中国、日本の膨大な仏教典籍の山を読破して、主観と客観に分かれる以前の普遍的な禅体験を解き明かそうとしていた。

つまり禅体験を世界概念に高め、それをなんとか言葉にしようとしてもがいていたのである。』(pp.19)
つまり、西洋と東洋を意識せずに、人類共通の普遍的な要素として扱ったところに、大拙が欧米人に心底理解された原因の一つのようだ。

『彼はひたすら「大乗起信論」をはじめとする大乗経典の研究に没頭し、仏教思想がどのようにして発生し展開していったかを明らかにするとともに、その全体構造を把握しようとそれこそわき目もふらずに専心していたのである。そしてそのためにあるに違いないのだが、かれの全業績はその後の学会正統派の文献リストからすっぽり抜け落ちてしまうことになった。』(pp.21)
 
つまり、彼の講演内容や著作は、学術論文としての条件を満たしていなかったということのようなのだが、このことはエンジニアとして大いに理解できる。

『本書「仏教の大意」の内容は、昭和21年4月23日と24日の両日にわたって天皇皇后両陛下のために講演したものにもとづき書き加えられた文章から成り、大幅な増補をへている。
加えて著者はその内容の英語版もつくり、みずからも目を通して発表していた(The Essence of Buddhism in the Buddhist Society, London 1946)。』 (pp.22)

本文(すなわち、両陛下への御進講)の初めは宗教一般の話が語られている。

『普通吾等の生活で気づかぬことがあります。それは吾等の世界は一つではなくて、二つの世界だと云うことです。そうして此二つがそのままに一つだと云うことです。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。これら二つの世界の存在に気の付いた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や思想家や又所謂霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものだときめて居るのです。

併し宗教的立場から見ますと、この霊的世界ほど実在性をもったものはなにのです。それは感性的世界に比するべくもないのです。一般には後者を以って具体的だと考えていますが、事実はそうではなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。』(pp.6)

この話は、具体的には『感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。』としている。「霊性的世界」と言われると、死後の世界のように思ってしまうのだが、このように語られると、設計の世界では、現実にも「霊性的世界」に入り込んでいるように思われてくる。

さらに、次の著作で明らかになるように、物事を真に「見透す」ためには、感性と知性の世界では不十分で、霊性の世界と一体で観なければならないということだと思われてくる。


②「神秘主義」岩波書店 [2004]




副題は、「キリスト教と仏教」であり、大拙の主張が、西欧人の心に響いたことが理解できる著書のひとつと思う。しかし、この著書で最も注目すべきは、「知る」と「見透す」の大きな違いだった。
 「仏教哲学の基盤」と称して、以下を述べている。 

『普通、われわれは、哲学とは純粋な知性の問題で、それ故、最も優れた哲学は、活発な知的活動と緻密な分析能力とに、豊かに恵まれている心に由来するものと考えている。しかし、仏教哲学の場合は全く違う。確かに、知的能力にあんまり恵まれていない人たちが立派な哲学者に成れぬことは確かであるが、知性が全てではない。逞しい創造力が無ければならぬし、強靭な融通性に富んだ意思もなければならぬ。また、人間性への鋭い洞察力がなければならず、そして、最終的には人間自身のあり方全体に総合されている真実を見透す眼がなければならない。』(pp.52)

『私は、この“見透す”ということの重要性を殊に重視すべきだと思うのである。何故なら、普通、理解されている“知る”という言葉の意味だけでは、尽くせないものがあるからである。自らの体験の伴わぬ知識は、浅薄の謗りを免れない。そんなグラグラな基礎の上に、いかなる哲学も築かれるものではない。しかしながら、実体験の裏付けのない思想体系は数々あるであろう。(中略)

哲学者がどんな知識を持ち合わせていようとも、それは自己の体験から出てきたものでなければならぬ。この体験が“見透す”ということなのだ。』(pp.52)

なんと、メタエンジニアリングにはぴったりの言葉に思えた。
そして、仏陀の説いた八正道の第1が「正見」であり、第2が「正思」であるとした。

『“見透すこと”は、単に相対知を通じて日常の“見る”ことではないことも見逃してはならぬ。それは般若の眼による“見透す”であって、われらをして実在の基盤の内にまで、じかに透過せしめる一種特別の直覚なのである。』(pp.56)

「般若の眼」とは、智慧の眼であり、聊か傲慢のようだが、メタエンジニアリングの眼でもありたいものだと思う。

 その後、“見透す”ことが、キリスト教の神学のなかでも同様に述べられていることを、エックハルトなどの言葉から述べている。

 悟りの体験が重要であることについては、『智慧の眼が万物の本性を観察する時、はじめてそれらに実体のないことが積極的・建設的なエネルギーを発現する。すなわち、それはまず迷いの暗雲を追い散らし、次いで、迷妄が作りだすすべての構造物を打ち毀し、最後に、智慧・慈悲に基づく全く新しい価値観の世界を創造することによってである。』(pp.60)としている。

 つまり、仏教は『根源的な経験主義であり、あるいは体験主義なのである。』(pp.70)

メタエンジニアリングが、この境地に至れば最高なのだが、それは悟りを得られていないものにとっては難しい。

以下、長くなるので別途。
③「禅に生きる」ちくま文芸文庫 [2012]
④「禅八講」角川選書 [2013]
           


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