生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(24) 講座 文明と環境

2017年03月17日 09時12分21秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(24)「講座 文明と環境」 KMM3059,3300,01,02,03  

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


「講座-文明と環境」浅倉書店[1995-98]の全15巻は、次に示す刊行の言葉によって作成され出版された。

『1991年から93年まで、われわれは文部省重点領域研究「地球環境の変動と文明の盛衰」(領域代表者 伊東俊太郎)を行った。(中略)

環境の問題は決して自然科学だけの問題ではなく、実は文明の問題でもあり、人文科学の問題でもあるのである。そして環境破壊という21世紀の最大問題を解決するには、どうしても自然科学者と人文科学者の密接な連携が必要なのである。このような連携は日本の学問においてはまだ十分でないが、それは新しい、文明を作る、あるべき連携の芽を生むことになるのではないかと思う。』

 その中から、第1,2,5.11,15巻を選んで纏めた。 

このような著作を数十冊読んでも、残る印象は常に同じであった。それは、日本列島における縄文時代は、人類の歴史上で唯一の、戦争・飢饉・疫病・極端な格差などがない、平和で安定した状態が1万年間も続いた文明であった、ということである。

文明とは、西欧的なCivilization、すなわち都市化とか文字化、ましては機械化などではなく、易経にある「文明以健」、すなわち、武徳の反対語である文徳つまり「礼楽政教の徳が輝くこと」と考えたほうが、21世紀以降の人類の持続にとっては良いようである。






第1巻「地球と文明の周期」小泉 格、安田喜憲 編集

・宇宙の歴史から何を学ぶか

 『文明が気候変動の周期性を受けて、周期的に盛衰することは、これまで多くの人々が指摘してきた。とくに伊東[1985]は、人類文明の発達を5つの段階―人類革命・農業革命・都市革命・精神革命・科学革命―でとらえている。これらの改革期は図3(省略)をみると、いずれも気候が寒冷化する時期に当たっており、生活環境が悪化したときである。』

『こうした環境の変化に対し、創造的な技術革新の方法をもって対応したところでのみ、文明の改革は成し遂げられてきた。』としている。

 農耕・牧畜というライフスタイルが、地球システムのエネルギーの流れ、物質循環に擾乱をもたらすことになり、それが産業革命により擾乱では済ませられなくなったことを述べた後で、

『これまでの地球史を見ると地球はつぎつぎと分化し、より多くのサブシステムを持つ地球システムへと変化してきている。このような歴史を見る限り、歴史の発展の方向性は分化することにあるようにみえる。なぜだろうか?結論をいえば地球が冷えるからである。』(pp.19)
 
つまり、火の玉から始まった地球が、冷えるたびに新たな物質圏を産むことになったというわけである。そして、最終的に生物圏から人間圏が分化して、今日の状態が生じたというわけである。
 
著者は、生物の進化とは言わずに、生物の分化といっている。地球環境の変化により、生物が多様性を必要として、分化が行われているというわけである。

・分化論の視点から見た人間圏の未来

 地球は、『全体として冷えつつあるが、その高温の部分と低温の部分の温度差は拡大している。このことが分化を促し、地球システムや銀河系・宇宙システム、そして生物圏内のサブシステムに、多様性とダイナミズムを生んでいる。』(pp.24)

 それでは、地球システムの中で安定性を保つにはどのような方法があるか、著者は3つの問題点を挙げている。

① どのような人間圏のサイズが、地球システムの中で安定なのか
② 文明のそれぞれの段階で発生する難民のための新天地がなくなったのが現代なので、新たなフロンティアを、どこかに求める必要がある。
③ 人間圏の内部システムの向かいつつある方向性を定める。現代のグローバル化を始めとする方向性は統合へ向かっているが、その先は均質化になる。

しかし、『均質化は自然界では死を意味する。均質化を求める方向は人間圏内部のダイナミズムを喪失させる方向である。
 
これらの問題に関して今後具体的に検討してゆくことが21世紀の人間圏を設計するうえで必要になる。現在のまま21世紀を迎えれば、人類は生き延びられるにしても人間圏が崩壊することは予想されるからだ。』(pp.25)
 このように結んでいる。まさに「猿の惑星」を思い出させる文章だった。


第2巻「地球と文明の画期」伊東俊太郎、安田喜憲 編集

冒頭で、伊東俊太郎の持論である人類文明の5段階の画期を開設している。すなわち、人類革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命の5つである。そして、その革命の発端の原因を次のように分析をしている。

『人類文明史の大きな変革期は環境がよいときではなく、むしろ環境が悪化しているときに起こっている。(中略)「産業革命」も決して良い時期の所産ではなく、気候的・環境的悪化のなかで、何らかの新しい変革を試みなければならないというムードが、人々の意識の底にヒタヒタと押しよせて作り出されたのであろう。』(pp.8)
『しかし此処で筆者は、決して「環境決定論」を述べているのではないということを強調しておきたい。文明の新たな創出というものは、あくまでも人間と環境との相互作用によっている。環境が人間のありかたを一方的に決定するのでもなく、人間が環境を一方的に規制するものでもない。

環境の著しい変化は地球上のさまざまな場所で起こったに違いないが、そのとき文明の大きな変革を成し遂げたのは、以上に述べてきたような甚だ限られた特定地域のみであった。すなわち環境の変化の挑戦に対し、創造的に応戦したところのみ、以上のような文明の変革は成し遂げられた。』(pp.9)

 このように解釈をすると、現代の地球温暖化問題は、むしろ行き詰りつつある現代文明の新たな文明への変革の時期として、好機が到来したともいうことができる。


第5巻「文明の危機」安田喜憲、林 俊雄 編集

 この巻では、文明の興亡の共時性を主張している。つまり、興亡は地球上のあちこちで同時に発生するというわけである。
『人類史をざっとみただけでも、文明の危機の時代は、民族の大移動のせいであることがわかる。そして、その民族移動の主役は牧畜民、遊牧民と海洋民であった。

不思議なことに文明の危機のいくつかは、世界各地で同時多発的だった。それを文明興亡の共時性と呼ぶことにする。なぜ文明の興亡には共時性がみられるのか。それは、文明の危機のいくつかが、気候変動というグローバルな要因によって発生しているからであろう。

文明興亡の共時性は、気候変動という物差しを人類史の解釈に導入することによって、はじめて明らかにできたことがらである。遠く離れた地中海世界におけるミケーネ文明の崩壊と、日本列島への稲作をたずさえた人々の渡来。そして中米におけるオルメカ文明の誕生は、ともに連動した気候事件であったことが明らかとなるのである。』(pp.15)

 つまり、気候変動により、民族移動が起こり、その結果文明の興亡が生じたというわけである。



第11巻「環境危機と現代文明」石 弘之、沼田 眞 編集

この巻では、ごく常識的に現代文明の問題を述べている。すなわち、人間活動の拡大によって地球温暖化の恐怖が生まれ、文明と環境倫理が問題化されることになった。それは、過去に起こった様々な技術革新が環境汚染の原因を作ってしまったことに起因している。そして、このような技術革新の問題を解決に導くには、日本の貢献が注目されるべきであると述べている。

『共生と並んで狩猟採集文化に強く内在し、稲作農業文化において多分に残存している原理が循環の原理である。それは、日や月をはじめ、一切の生とし生けるものは永遠の循環を続けるという思想である。(中略)

人間もまた死ぬが、その魂はあの世に行き、また甦ってこの世へ帰るという思想がある。それは一見非科学的に見えるが、このような思想は最近の遺伝子科学とも一致し、ある種の科学的真理を含んでいるものといえるであろう。このような循環の思想は、小麦農業文化圏である西洋文化圏ではヘラクレイトスやニーチェなどにかすかに表れるのみであるが、私は、終末や進歩の直線的時間論に代わってこのような時間論が環境問題解決のために21世紀の世界観にならなければならないと思っている。』(pp.176)

この根底にある思想は、『日本文化には人間と他の生物を本来同じものと考え、人間と他の生物の共生を図るという思想がその文化の根底に存在している。』(pp.176)である。


第15巻「新たな文明の創造」梅原 猛編集
 
 この書の位置づけは、編集者の梅原 猛による「あとがき」の冒頭にある。
 
『この講座「文明と環境」が第15巻「新たな文明の創造」をもって完了する。この全集の総編集者に私と伊東俊太郎君と安田喜憲君が名を連ねているが、(中略)平成3年から5年まで、文部省科学研究費の重点領域研究「文明と環境」が行われたが、この研究には200人を超える自然科学者、人文科学者、社会科学者、ジャーナリストや市民運動家などが参加して共同研究をつづけたばかりでなく、・・・。』(pp.223)

 さらに続けて、『地球科学、気象学、海洋学、生態学などの学問が地球環境破壊の現状の正確な認識を与えてくれるかもしれないが、それを全体の問題として考えるとき、哲学が必要であるし、文明論が必要である。

そしてそのような哲学あるいは文明論の上に立って地球環境の保全を考えるとき、何よりも技術というものをどう考えるかという技術論が不可欠である。それには法的な規制をどうするか、またそれに伴う経済をどう考えるかという法律学、経済学の成功性が必要である。』(pp.224)

 つまり、現状の正確な認識の後で、法律学と経済学の条件下における「哲学と技術論」が結論に導くことを示唆している。大掛かりな研究プロジェクトの最終結論としては、かなり常識内に留まりすぎているように感じられる。

 本書は、総論と14の独立した論文で構成されているが、そのなかから3つ(総論と最初と最後)を選んで検討を試みる。

・総論 地球と人類を救う東方思想と文明  


 表題からして結論ありきのように見えるが、冒頭から次のようにある。
『地球環境破壊の問題は、近代西洋文明の問題である。とすれば、この問題に対する解決の道は東洋文明すなわち東アジア文明の中に求められるであろうか。』(pp.1)

つぎに、いきなり古代西アジアにおける小麦農業による自然破壊を問題視して、『シュメールを統一して、最初の都市文明をつくったギルガメッシュ王が最初にしたことは、森の神フンババの殺害であった。これは人類を森を破壊するタブーから解放したことであり、自然破壊の理論的な許容を与えたことになる。』(pp.2)

一方で、東アジアのモンスーン地域で発生した稲作文明は、『稲作文明は小麦文明に負けない華麗な文明を生み出したと思われるが、それは自然に対して小麦文明よりははるかにやさしい。なぜなら稲作文明においてもっとも大切なものは水であり、水を恒久的に保存するのはもりであり、したがって稲作農業民は守を大切にし、森を神の住みかと考えざるを得ないからである。』(pp.3)

 その後、仏教、キリスト教、ギリシア哲学などに触れた後で、ヨーロッパのロマン主義を「自然に帰れという思想」として紹介している。しかしそれも、結論的に「人間を世界の中心におき、自然と対立する文化」として否定している。
 最終結論は、『人類のために東洋文明の原理の積極的採用を主張すべきなのである。』(pp.9)
で総論を終えている。

・文明の転換と自然観の変貌 

 彼の従来からの主張である、「人類革命 ⇒農業革命 ⇒都市革命 ⇒精神革命 ⇒科学革命」を述べた後で、現在は、「環境革命」が進行中と述べている。そして、注目は最初の人類革命の時代にある。つまり、石器時代の生活環境である。

 『生活の充実感も現在以上であったと考えられる。彼らには財産というものがなかったから、これを増やそうとあくせくすることもなかった。彼らは土地も所有しなかったから、そのテリトリーにとどまる限り、土地を奪い合う戦争もなかった。移動によって人口も自然と抑制されていた。』(pp.13)

そして、現代については、『人類史の第6の転換期「環境革命」-われわれはまさにその真っ只中に生きているーにおいて、今や自然観はどのように変わらなければならないのか。われわれはその自然観をデカルトの「機械論的自然観」(mechanistic view nature)にたいして「生世界的自然観」(bio-world view of nature)と名づける。
本章では、この新たに形成されるべき「生世界的自然観」がいかなる内実を含むものであるかが、考察されねばならない。』(pp.20)
 としている。

 そして結論としては、『来るべき21世紀は「生命の時代」といえる。(中略)従来の「自然」対「人間」、「物質」対「精神」の二元論的対立が究極的に止揚されるのみならず、「科学」と「宗教」の対立も、これまでとはまったく違った角度から、再検討されねばならなくなるであろう。』(pp.23)
 これは、総論とほぼ同じ結論だ。


・文明の縄文化・文明のヘレニズム化が人類を救う 

 表題のごとく、縄文人の思想を地球と人類の救済のために役立てるべきとの主張になっている。
『その縄文王国再生計画の中で、現代から未来にかけて極めて重要と思われるものをここでは5点にしぼって取り上げる。』(pp.201)

 ① 循環の思想に立脚した持続型社会
 ② 共生の思想に立脚した平和共存の世界
 ③ 平等主義に立脚した共同社会
 ④ 文明融合地帯の先進技術社会
 ⑤ 土偶文明にみる女性中心の世界
 の5つである。

 そして、それらを総合することを、「ヘレニズム化」と呼んでいる。

『日本人は文明の縄文化によって危機を回避し、自らの文明のアイデンティティーを確認できるだろう。しかし、文明の縄文化と叫んでも世界には通用しないだろう。世界に適用するたえには新たな概念を設定する必要がある。それを文明のヘレニズム化と呼ぶ。文明のヘレニズム化は3つの新たな文明原理からなっている。すなわち文明の大地化、文明の東洋化、そして文明の地球化である。』(pp.212)

これに関しては、ギリシア文明が崩壊したのちに、アレキサンダーが東方文化をもたらして、新たにヘレニズム文明として文明の伝統を継承したことを挙げている。そして、そのために必要なことは、以下であるとしている。

『ギリシア文明が破滅の淵を回避し、ヘレニズム文明にゆるやかにバトンタッチできたのは、プラトンからアリストテレスへの転換、つまり外なる天空のかなたの力から、内なる自然の内在する秩序への転換、文明の大地化が行われたからであった。もしそうならば、現代文明が破壊的な崩壊の危機を回避するためにまずなさなければならないことは、文明の大地化である。その為にはアリストテレスやストア派に匹敵する哲学者が排出されなければならない。』(pp.216)

 
著者は、東洋の文明の概念を、「再生、循環、共存、調和、慈悲、感性など」としている。しかし、これらを並べたところで、新たな文明は発生しないであろう。しかも、昨今では日本は勿論、中国やほとんどのアジア諸国で、このような文化は、むしろ廃れ始めている。過去に存在した優れた「東洋的な文化」をいかに持続させるかのほうが問題になると思う。

先ずは、優れた文化の復活や堅持が問題で、並行して優れた文化の文明化を進めるプロセスが必要と思う。

このような著作を数十冊読んでも、残る印象は常に同じであった。それは、日本列島における縄文時代は、人類の歴史上で唯一の、平和で安定した状態が1万年間も続いた文明であった、ということである。

文明とは、西欧的なCivilization、すなわち都市化とか文字化ではなく、易経にある「文明以健」、すなわち、武徳の反対語である文徳つまり「礼楽政教の徳が輝くこと」と考えたほうが、これからの人類の持続にとっては良いようである。


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