生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(25)この世界が消えた後の科学文明の作り方

2017年03月24日 19時51分10秒 | メタエンジニアの眼
文化と文明への眼  KMM3286 
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

「この世界が消えた後の科学文明の作り方」
ルイス・ダートネル著,川出書房新社[2015]
引用先;文化の文明化のプロセス Converging & Implementing

 原題は「THE KNOWRAGE:HOW TO REBUILD OUR WORLD FROM SCRATCH」であり、特に科学技術に拘ったものではない。何らかの理由(例えば、感染症、核戦争、彗星の衝突など)で、現代文明が完全に滅んだ後に、生き残った人類がどのような文明を創るかを問うている。



 ヒントは、1991年のソ連崩壊後にモルドヴァ共和国で起こった自給自足生活にあったようだ。『小国であるモルドヴァ共和国は経済面で大打撃を受け、国民は自給自足を強いられ、紡ぎ車や手織り機、バター搾乳機といった、博物館で見るような技術を再び採用しなければならなかった。』(PP.9)

 しかし、著者の仮定はこれをはるかに上回る、徹底的な文明の崩壊であり、いわば猿の惑星からの出発を想定している。著者は、そのときには現代文明の複製になる可能性は、むしろ少ないと述べている。
 
『マニュアルに提示した重要な知識がすべてあっても、新しい社会が技術的に高度な段階に到達できる確証はない。歴史を通して多くの優れた社会が繫栄し、その知識の宝庫と技術力はその時代の世界の輝かしい宝石となってきたが、大半はいつの時代かで立ちゆかなくなって膠着状態に陥る。それ以上は進歩しない均衡状態だ。あるいは、まったく崩壊してしまう。それどころか、僕らの今の文明が進歩をつづけていることは、歴史的には特異な事例なのだ。』(PP.291)

 この言葉は、文明論の世界では当たり前のように思う。文明崩壊では、「過去のいかなる文明も、その当時の人々は、その文明が永遠に続くと思っていた。しかし、その文明は崩壊した。」ということが、繰り返し述べられている事実である。

 古代からの世界的な大発明の多くは、中国でなされていた。ヨーロッパが中世の暗黒時代の間に中華文明は繁栄を遂げた。しかし、それは止まってしまった。

『14世紀末には中国は、ヨーロッパでは1700年代になるまでどこにも見られなかったような技術的進歩を遂げており、独自の産業革命を始める準備が整っているかに見えた。
 
だが、意外なことに、ヨーロッパが長い暗黒時代を抜け出してルネッサンス時代にはいろうというところに、中国の進歩は揺らぎ、やがては止まってしまった。中国の経済はおおむね国内の流通によって成長しつづけたし、増え続ける人口は恒常的に高い生活水準を享受していた。しかし、重要な技術の進歩はそれ以上には起こらず、むしろ一部の新技術は後に忘れられていった。それから3世紀半後にはヨーロッパが追いつき、イギリスは産業革命に突入した。』(pp.292)

 イギリスの産業革命は、単に技術の新発見がもたらしたものではなく、繊維製品の旺盛な需要に対して、供給が間に合わずに、機械化への投資が継続的に行われたことが、主原因であるとの説が有力になっている。

一方で、『中国では労働力は安く、産業資本家になりうる人びとも効率を改善する技術革命からの利益はほとんど期待できなかった。』というわけであった。(pp.293)

 翻って現代を見ると、破壊的イノベーションによって、従来からの文化と経済が破壊されつつあるようだ。例えば、「スマホ」の出現によって、従来からの新聞・雑誌・書籍・カメラ・パソコン・TVなどの産業が衰退の時期を予想をはるかに超えたスピードで迎えようとしている。

この現象下では、すべての産業分野を総合した利益の増減は、いかがなものであろうか。そのような統計値は、まだ表されていないが、恐らくはトータルでの利益は減少しているのではないだろうか。つまり、著者が次に述べている「科学による技術の進歩と文明の関係は平衡状態」に達しつつあるのではないだろうか。

 科学による技術の進歩と文明の関係は、以下の言葉に集約されている。

『技術的に発展する文明はどこで頂点に達し、それ以上に進歩しても(投資に見合う収益がない)収穫逓減がおきるのだろうか?おそらくそのような文明は安定した経済を実現し、適度な人口で、天然資源を持続可能なかたちで利用できる能力に達したら、ある技術水準で、それ以上は進歩も後退もしない、平衡状態に達するのかもしれない。』(pp.294)

現代は、その方向に向かって進み始めたようにも感じられることが、あちこちで始まっている。しかし、数えきれないほどの民族と、2百に及ぶ独立した国家が存在する中で、平衡状態はあり得るとも思えない。

最後の、「科学とテクノロジー」の章では、
『科学的理解を実用化することが技術の基本だ。(中略)歴史の中で、科学と技術は密接に係り合ってきた。(中略)奇妙な代物を、日用の必需品に変える過程だ。』などは当然なのだが、次の言葉からはメタエンジニアリング的な発想が見受けられる。

『関連する現象が科学的に正しく理解されても、実用的な発明を生み出すには、想像力と創造力で一飛びするよりはるかに多くのことが求められる。成功につながったどんな技術革新も、長い計画期間に工作しては設計の欠陥を改善する作業を続けなければ、安全に働いて広く普及するようにはならない。

これこそ、アメリカのトマス・エディソンが、1%のひらめきのあとに言及した99%の汗水を垂らす部分なのだ。科学を働かすのと同じ厳格で秩序だった調査が、技術革新においても必要になる。この場合は、自然界でなく、僕ら自身の人工的産物を分析することだ。出現しようとしている技術を実験して、その欠陥を理解し、効果を上げるのである。』(pp.308)

このことは、航空機の発達史を考えれば当然にように思うのだが、近来のイノベーションは、果たして、「僕ら自身の人工的産物を分析することだ。出現しようとしている技術を実験して、その欠陥を理解し、効果を上げる99%の汗水を垂らす部分」を行っているだろうか。大いに疑問である。イノベーション至高主義は、あまりにも経済的な事情に偏りすぎ、かつ急ぎすぎている。
                  


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