EIGHT-JAM FESの次の日、叔父に会いに行く。叔父に会うのは何年ぶりだろうか。一週間前に急に連絡したにもかかわらず、時間をとってくれた。始めは大宮で会う約束であったが、私が叔母の御仏前に線香をあげたかったと言うと深谷の自宅に招いてくれることに。しかも、お札になる渋沢栄一の生誕地が深谷ということで深谷を案内してくれるとのこと。また、何時の列車に乗ればいいとか全部計画を立ててくれる。叔父に会うのは嬉しいし、いろいろと歓迎してくれ感謝しかない。
深谷駅で待ち合わせて、叔父の家に。叔母の御仏前に線香をあげる。そして、しばらく叔父と近況を話す。叔父は八十を越えているが、お元気そう。プールに俳句にと趣味を満喫しているのが、元気の素だろうか。叔父が朝日俳壇に載った記事を見せてもらったり、私の俳句について疑問点を聞いたりする。
叔父の友達がわざわざ車を出してくれ、渋沢栄一ゆかりの地へ連れて行ってくれると言う。感謝しかない。まず、渋沢栄一生誕の地であり、渋沢栄一の妹の家である中の家(なかんち)へ。
正門 左側「青淵翁誕生之地」碑の字は幸田露伴
栄一の妹夫婦が明治28年に建てたもの。左端の部屋が栄一が深谷に来た時に泊まった部屋だとか。
中には、渋沢栄一アンドロイドが渋沢栄一の一生を説明してくれる。このアンドロイドが、生きているみたいに動くのでロボット感がない。渋沢栄一は、「近代日本経済の父」と言われ、多くの企業の創業に関わっている。いとこの尾高惇忠に論語を学び、それが栄一の軸になったのではないかと叔父が言っていた。始めは尊王攘夷だったが、討幕を断念し京都へ情報収集に行く。そこで、徳川慶喜に仕官することになり、慶喜の弟・昭武が渡欧するのに随行することに。栄一以外は、侍だった。栄一は侍ではなかったので、フランスの経済のしくみに驚いたらしい。大河ドラマ「青天を衝け」を見るべきだったな。
傷んだところを修理したところだろうが、団扇形にしているのがお洒落
二階の梁も太い 耐震工事をしているが、東北大震災のときもビクともしなかったらしい。
大黒柱(二階) 二階は養蚕をしていた。
一階に下りると大黒柱のすごさがわかりにくい
続きの梁? 一本の長さがすごい。見学に来た大工さんが、運ぶ時に曲がるのが大変だったろうと言ったとか。
蔵
渋沢栄一の像
藍 渋沢栄一の家は養蚕と藍を商売していた豪農だったらしい。
お昼は、中の家の隣の「麺屋忠兵衛 煮ぼうとう店」で煮ぼうとうをいただく
ほうとうというと、山梨のほうとうを思い出すが、深谷の煮ぼうとうは、味噌味ではなく、しょうゆ味。鶏の出汁が効いていて、美味しい。ほうとうと言うのが、小麦の産地らしい。渋沢栄一も煮ぼうとうをよく食べたらしい。長芋のお漬物も美味しかった。長芋も深谷の名産だとか。
食堂にあった渋沢栄一の書
青淵(渋沢栄一の雅号)88歳の書。意外に優しい字。
「天意夕陽ヲ重ジ、人間晩晴ヲ貴ぶ(てんいせきようをおもんじ、にんげんばんせいをたっとぶ)」と読む。
「人の一生におろそかにしてよいという時はない。一分一秒といえども貴重な時間に相違ないが、その中でも人間は晩年が最も大切ではないかと思う。」「若い時には欠点があった人でも、晩年が美しければ その人の価値は上がるものである」という意味らしい。
尾髙惇忠(おだかじゅんちゅう)生家 渋沢栄一のいとこで、学問の師。栄一の妻千代は惇忠の妹にあたる。この家の二階で栄一らは挙兵・討幕の密議をしたらしい。後に 惇忠は、富岡製糸場初代場長になり、惇忠の妹のゆうは、富岡製糸場伝習工女第一号となった。
渋沢栄一記念館
渋沢栄一アンドロイド 時間がなかったので写真だけだが、いろいろと講義してくれるらしい。
中の家と記念館のアンドロイドは、深谷出身でドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏が一億を寄付し、大阪大学の石黒浩教授が作った。一体が4000万くらいとか。
深谷駅 なんか見たことがあるなと思っていたら、東京駅を模しているらしい。東京駅の煉瓦が深谷で作った煉瓦を使っていることから。
利根川が氾濫した時に軽い細かい土が流域より遠くに堆積し、その粘土が煉瓦によかったのではないかとのこと。煉瓦工場は、ホフマン輪窯という連続で稼働できるものだったらしい。残念ながら、月曜日だったので、見学はかなわなかった。
ちなみに、川の近くは砂が多く稲作に向かないので、藍や養蚕のための桑を栽培したらしい。少し離れた肥沃な所は、稲作と麦の二毛作。川の氾濫って農業にすごく影響を及ぼしているのだ思った。四大文明発祥の地も大河のそばだったと思いをはせた。
ふっか水 ラベルがかわいいので。深谷市は、渋沢栄一の生誕地というだけでなく、深谷ねぎ、チューリップ、百合でも有名らしい。利根川が氾濫し、肥えた土が運ばれたとか。だから、同じ深谷ネギも利根川に近い地域のネギが美味しいという噂もあるらしい。
Snow Manのファンの私は、ふっかさんがふっかちゃんに会いにきたことが一番に思い浮かぶ。
深谷駅で待ち合わせて、叔父の家に。叔母の御仏前に線香をあげる。そして、しばらく叔父と近況を話す。叔父は八十を越えているが、お元気そう。プールに俳句にと趣味を満喫しているのが、元気の素だろうか。叔父が朝日俳壇に載った記事を見せてもらったり、私の俳句について疑問点を聞いたりする。
叔父の友達がわざわざ車を出してくれ、渋沢栄一ゆかりの地へ連れて行ってくれると言う。感謝しかない。まず、渋沢栄一生誕の地であり、渋沢栄一の妹の家である中の家(なかんち)へ。
正門 左側「青淵翁誕生之地」碑の字は幸田露伴
栄一の妹夫婦が明治28年に建てたもの。左端の部屋が栄一が深谷に来た時に泊まった部屋だとか。
中には、渋沢栄一アンドロイドが渋沢栄一の一生を説明してくれる。このアンドロイドが、生きているみたいに動くのでロボット感がない。渋沢栄一は、「近代日本経済の父」と言われ、多くの企業の創業に関わっている。いとこの尾高惇忠に論語を学び、それが栄一の軸になったのではないかと叔父が言っていた。始めは尊王攘夷だったが、討幕を断念し京都へ情報収集に行く。そこで、徳川慶喜に仕官することになり、慶喜の弟・昭武が渡欧するのに随行することに。栄一以外は、侍だった。栄一は侍ではなかったので、フランスの経済のしくみに驚いたらしい。大河ドラマ「青天を衝け」を見るべきだったな。
傷んだところを修理したところだろうが、団扇形にしているのがお洒落
二階の梁も太い 耐震工事をしているが、東北大震災のときもビクともしなかったらしい。
大黒柱(二階) 二階は養蚕をしていた。
一階に下りると大黒柱のすごさがわかりにくい
続きの梁? 一本の長さがすごい。見学に来た大工さんが、運ぶ時に曲がるのが大変だったろうと言ったとか。
蔵
渋沢栄一の像
藍 渋沢栄一の家は養蚕と藍を商売していた豪農だったらしい。
お昼は、中の家の隣の「麺屋忠兵衛 煮ぼうとう店」で煮ぼうとうをいただく
ほうとうというと、山梨のほうとうを思い出すが、深谷の煮ぼうとうは、味噌味ではなく、しょうゆ味。鶏の出汁が効いていて、美味しい。ほうとうと言うのが、小麦の産地らしい。渋沢栄一も煮ぼうとうをよく食べたらしい。長芋のお漬物も美味しかった。長芋も深谷の名産だとか。
食堂にあった渋沢栄一の書
青淵(渋沢栄一の雅号)88歳の書。意外に優しい字。
「天意夕陽ヲ重ジ、人間晩晴ヲ貴ぶ(てんいせきようをおもんじ、にんげんばんせいをたっとぶ)」と読む。
「人の一生におろそかにしてよいという時はない。一分一秒といえども貴重な時間に相違ないが、その中でも人間は晩年が最も大切ではないかと思う。」「若い時には欠点があった人でも、晩年が美しければ その人の価値は上がるものである」という意味らしい。
尾髙惇忠(おだかじゅんちゅう)生家 渋沢栄一のいとこで、学問の師。栄一の妻千代は惇忠の妹にあたる。この家の二階で栄一らは挙兵・討幕の密議をしたらしい。後に 惇忠は、富岡製糸場初代場長になり、惇忠の妹のゆうは、富岡製糸場伝習工女第一号となった。
渋沢栄一記念館
渋沢栄一アンドロイド 時間がなかったので写真だけだが、いろいろと講義してくれるらしい。
中の家と記念館のアンドロイドは、深谷出身でドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏が一億を寄付し、大阪大学の石黒浩教授が作った。一体が4000万くらいとか。
深谷駅 なんか見たことがあるなと思っていたら、東京駅を模しているらしい。東京駅の煉瓦が深谷で作った煉瓦を使っていることから。
利根川が氾濫した時に軽い細かい土が流域より遠くに堆積し、その粘土が煉瓦によかったのではないかとのこと。煉瓦工場は、ホフマン輪窯という連続で稼働できるものだったらしい。残念ながら、月曜日だったので、見学はかなわなかった。
ちなみに、川の近くは砂が多く稲作に向かないので、藍や養蚕のための桑を栽培したらしい。少し離れた肥沃な所は、稲作と麦の二毛作。川の氾濫って農業にすごく影響を及ぼしているのだ思った。四大文明発祥の地も大河のそばだったと思いをはせた。
ふっか水 ラベルがかわいいので。深谷市は、渋沢栄一の生誕地というだけでなく、深谷ねぎ、チューリップ、百合でも有名らしい。利根川が氾濫し、肥えた土が運ばれたとか。だから、同じ深谷ネギも利根川に近い地域のネギが美味しいという噂もあるらしい。
Snow Manのファンの私は、ふっかさんがふっかちゃんに会いにきたことが一番に思い浮かぶ。
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