10月2日(水)に内宮さん、10月5日(土)に外宮さんの遷御の儀が無事執り行われました。
20年に一度の式年遷宮行事が8年間の歳月をかけて滞りなく行なわれ、常若の精神で新しい「神宮」となりました。
この数日、伊勢がタイムリーということもあって、立て続けに
10月1日(火)の朝日新聞「ひと」(全国版)
10月2日(水)NHK第一ラジオ「すっぴん」(全国区)にて1時間の生インタビュー
10月2日(水)伊勢新聞 遷宮特別号
にて、「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター事務局長野口あゆみ」として紹介されました。
そして、そのどれもが「神宮」と「バリアフリー」に関する内容でもありました。
センターの活動を始めて11年間。
メールや電話等々で
「どうして伊勢神宮はバリアフリーでないの?」
という疑問を時々いただきます。
式年遷宮記念(?)という機会でもありますので、「神宮のバリアフリー」について、長文になりますが、このブログで私たちの考えを皆さんにお伝えしておこうと思います。
まず、御遷宮前と後で参道、正宮前のバリアフリーがどうなったかお知らせいたします。
(砂利参道を走行しやすいタイヤの太い電動と手動の車いすの貸し出しは、外宮・内宮とも10数台ずつあります)
■■ 内宮 ■■
(遷宮前)
宇治橋から片道約800メートルの玉砂利参道。
ご正宮前には、踏み面の広い階段が32段+一般的な踏み面の階段が7段ありました。
(遷宮後)
宇治橋から片道800mの玉砂利参道を行くと、以前の敷地の左隣(手前側)が新宮。
ご正宮前の階段は現存しますが、敷地の高さが少し低くなったので、踏み面の広い階段が18段+一般的な踏み面の階段が7段です。以前よりマイナス14段です!
すみません、白石持のときの写真で分かりにくい写真です
■■ 外宮 ■■
(遷宮前)
表参道、北御門の火除橋から正宮まで300mほどの玉砂利参道。
正宮前には、15cmほどの段差一段あり。
(遷宮後)
火除橋から正宮まで300mほどの玉砂利参道を行くと、以前の敷地の左隣(奥側)が新宮。
正宮前に以前あった段差は解消され、フラットになりました!!
神宮は御鎮座されて2000年、昔とほぼ変わらぬ姿で存在しています。
私たち伊勢で生まれ、育っている者にとっては、あの姿が伊勢神宮であり、玉砂利を踏みしめながらご正殿に近づき、その距離で気持ちを高めていき、神様と人間との結界というバリアを乗り越えてたどり着くというイメージであります。
だからと言って、障がい者や高齢者にはこの砂利の参道はキツイでしょう!
せっかく遠方から、お参りにきたのに、これはないでしょう。
神社の総本山がそれでいいの?
階段横にスロープを作ればいいんじゃない?
砂利の参道に車いすの道を!
伊勢市や三重県がバリアフリー指導をすればいいのでは?
伊勢志摩バリアフリーツアーセンターは神宮へ要望を出しているのか?
と、ご意見もあるかと思います。はい。
私たちも、活動し始めた頃は正殿前にスロープや参道の一部にでもコンクリートの道を…と思ったこともありましたが、神宮さんとお話しすることや、その歴史、背景、参拝される障がい者、高齢者と一緒に参拝したり、お話を聞いたりしていくうち、考え方が変わってきました。
私の主人も交通事故で現在、車いす利用者でありますが、神宮参拝に行くときには、一緒に行くメンバー等にサポートしてもらいながら、参拝いたします。
不平も言いません。
むしろ、障がい者用の特別な参道でなく一般の方と同じ参道を行けることの喜びを感じています。
ゆっくりですが、ひとこぎ、ひとこぎ、目の前のバリアを越えながら神様に近づく。
ツアーセンターが活動を始めて2年目あたりで、神宮参拝のお手伝いをしてほしいという要望がちょこちょこと出てくるようになってから、キャンペーンやいろんなイベントを行いながら、現在は、地元のボランティアたちの手による参拝のサポートをおこなっています。
(常駐のボランティアがいるわけではないため、2週間以上前のお申し込みをお願いしています)
ただ、近年たくさんのお申し込みがあり、ボランティアの需要と供給が追い付かないこともあるため、グループ旅行の場合などは、出来るだけ、お仲間の介助で…とお願いしますが、老々介護や少人数のご旅行の際は、出来るだけお手伝いできるよう相談をお受けしております。
現在は、無料ボランティアですが、いつかは有償化として、たくさんの方に利用していただくようなシステムもただいま、検討中です。
また、最近では、参拝客の方が手を貸してくださることもあります。
おそらく、普段はボランティア活動などされない方でも、神域内に入ると、人を思いやる心が芽生えてくるのでは?
と思います。
とても素晴らしい光景だと思います。
また、場合によっては、階段下からの遥拝という方法もあります。
遥拝でも神様に届く気持ちは何ら変わりはありませんし、身体の状態やその日の天候(雨など)によっても、無理なさらない方が良い時もあるるでしょう。
神宮の姿は2000年前とはあまり変わりないかもしれませんが、参拝者の姿は昔に比べると随分変わってきています。
障がい者、高齢者、外国人、ペット連れ等々。
そのため、少しずつですが、変化はあります。
神苑にベンチを設置したり、神宮のパンフレット等をお渡する窓口。
ペットを預かれるゲージの設置、タイヤの太い車いすの貸し出し台数も10年ほど前は2~3台でしたが、いまや10数台あります。
車いす対応のトイレの改修、AEDの設置。
その他いろいろ。
車いすも以前は、人目にふれるところに置いていなかったため、だれも車いすの貸し出しに気付かないこともありましたが、今は目のにつくところにおいてあり、みなさんが気付くような仕組みを作ってあります。
2000年もの歴史のなか、少しずつ、良い方向に変わってきています。
みなさんにとっては「そんなくらいで納得?」と思われるかもしれませんが、以前はもっと頑として動かなかった神宮さんが、2000年もの間のこの数年でそれだけ動いただけで私たちは感激するほどのところである神社なのです。そんな位置づけでもあります。
私たちが考える神宮のバリアフリー化(神宮さんに限らず観光地のバリアフリー化)は、
「スロープを作ってほしい」
「砂利をコンクリートに」
という要望を訴えるものではなく、今現在行っている神宮参拝サポートのお手伝い、バリアの情報発信による、参拝アドバイス等により、今まで参拝し難かった障がい者、高齢者に安全に参拝してもらい、まず需要を認識してもらいます。
神苑のベンチやタイヤの太い車いすの貸し出しなども、需要を認識したための、素晴らしい変化だと思います。
もちろん、作らなくてもそれらに対して不服があるわけではありません。
むしろ、神宮の御膝元で暮らしてきた人にとって、2000年の変わらぬ姿をこの時代で変えてしまうことに、大きな形の変化は、戸惑いや残念な気持ちもあります。
そんな、変わらないことも大切だと思う出来事もあります。
戦時中に内宮周辺に疎開されていたというお母様とそのご家族がいらっしゃた時にサポートのお手伝いをさせていただいたことがあります。
お母様は、かなりの認知症であり、お手伝いしているときは話しかけても、始終無表情でした。(認知症の方特有の症状ですね)
お帰りのとき、神宮の宇治橋の上で五十鈴川を眺めながら、
「この五十鈴川の下流には烏帽子岩という岩があって、お母さんが小さいころは、その岩からよく飛び込みませんでしたか?このあたりの子どもたちはあの岩が度胸試しの岩として有名ですよね?」
と、言ったら、突然、言葉こそ発しないけれど、子どものようないたずらっぽい表情になり、まわりの皆さんがビックリするくらい手を叩いて笑い出しました。
おそらく、お母様が小さいころ見た宇治橋上からの五十鈴川の景色と、今の景色にそう変わりがないから、その言葉と景色とが重なったのだと思います。
昔来た時と変わりない風景…、日本には少なくなりましたが、そんな風景が守られているからこそ、神宮が「こころのふるさと」
と言われるのだと思います。
魅力的な場所は魅力的なまま。
バリアフリーだから行くのではなく、「そこへ行きたい」から行く方法を皆で考える。
「行けるところ」より「行きたいところへ」を合言葉に活動をし続けてします。
私たちは活動をしていて思います。
障がい者、高齢者の旅行は、一般の旅行者より素敵な体験が出来る要素がたくさんあるのでは?と。
神宮のように、人の手を借りなくてはいけないところがあるからこそ、地元の人や参拝者とのコミュニケーションをとることができ、出会いがない旅行よりはるかに楽しいひと時が過ごせます。
もし、神宮に玉砂利がなくなり、階段もスロープになり、誰もが手軽に行けるようになれば、行きやすくはなるけれど、人との交流もなく、印象も残らないと思います。
参拝のサポートをしていると、時々正殿前で「ここまで(階段上)来れるなんて夢のようです、ありがとうござます」と、泣き出す方もいらっしゃいます。
正殿にたどり着いた車いすのおばあちゃんが、神様より先にサポートしてくれたボランティアに手を合わせたこともありました。
いろんなサポートがあって正殿前にたどり着いた障がい者、高齢者の方が手を合わせた時は、まずは、ここまで連れてきてくださった家族や仲間などのサポートに感謝し、そんな人を育んでくれた社会や環境に感謝し、そして、神様への感謝となるのかもしれません。
まさに本来の、ご正殿で手を合わせる「感謝」の気持ちです。(神宮さんは、お願い事ではなく「感謝」を述べるところです)
もしかすると、その過程がなかったら、「自分本位のお願い」だけに止まっていたかもしれません。
そこへ行くことだけが目的ではなく、そこへ行くまでの過程が重要なのだと思います。
過程がなければ、その場に立った景色は全く違うものとなってしまいます。
例えでお話しすると、山登りが大好きな男性が、事故や病気で身体が不自由になったとしましょう。
その方が、どうしても、また山登りをしたいとなったとき、「●●山なら、車で頂上まで上がれますよ」と、周りの人に連れていってもらったとしても、きっとその男性はあんまり喜ばないと思います。
あの、山に登る苦労の過程があるからこそ、頂上からの景色は違って見えてくるのです。
頂上に立つことだけが目的ではなく、その過程を含めた全てが満足感に繋がるのだと思います。
強い「登りたい」気持ちがあれば、いつか健康な時に山登りした時と同じ気持ちで頂上に立つときがくるでしょう。
私たちは神宮さんが「バリアフリーでない」とは思っていません。
なぜならば、神宮さんは、参拝にいらっしゃる方を拒むことがないからです。(もちろん、酔っぱらっていたり、人に迷惑をかけるモラルに反するような方には声をかけているようですが)
今後も、参拝したいと願う方がいれば、私たちは地元民として、サポートを出来るだけ行い、一人でも多くの方に参拝を実現していただきたいと思います。
そして、参拝を願う方の多さ、その思いの強さを私たちが伝え続けていくことで、いつかなんらかのバリアフリーな形への変化が生まれることでしょう。
障がい者、高齢者だけを考えるのではなく、全ての参拝者に違和感なく、自然に、まるで2000年前からあるかのような、そんなバリアフリー化がいつか叶うかもしれません。
「スロープ作れと指導されたから」などというお仕着せのバリアフリーでなく、たくさんの方の「必要なこと」を汲みとり、その思いに答えるためのバリアフリー化。
後者にこそ、気持ちのバリアフリーが含まれていると思います。
私たちは、そのように気持ち=ソフト面を練り込みながらのバリアフリーの観光地を目指していきたいと思っています。
もしかすると変わらなくてはいけないのは、神宮さんではなく、人間なのかもしれません。
長文になりましたが、
ぜひ、みなさん、新しいお宮となった神宮、そして伊勢志摩へいらしてくださいませ。(混雑が落ち着いたころが良いかと…)
あからさまに変わっているところはないかもしれませんが、心が含まれた、障がい者、高齢者への配慮を神宮や伊勢志摩地域全体で感じていただければと幸いです。
長文、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
20年に一度の式年遷宮行事が8年間の歳月をかけて滞りなく行なわれ、常若の精神で新しい「神宮」となりました。
この数日、伊勢がタイムリーということもあって、立て続けに
10月1日(火)の朝日新聞「ひと」(全国版)
10月2日(水)NHK第一ラジオ「すっぴん」(全国区)にて1時間の生インタビュー
10月2日(水)伊勢新聞 遷宮特別号
にて、「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター事務局長野口あゆみ」として紹介されました。
そして、そのどれもが「神宮」と「バリアフリー」に関する内容でもありました。
センターの活動を始めて11年間。
メールや電話等々で
「どうして伊勢神宮はバリアフリーでないの?」
という疑問を時々いただきます。
式年遷宮記念(?)という機会でもありますので、「神宮のバリアフリー」について、長文になりますが、このブログで私たちの考えを皆さんにお伝えしておこうと思います。
まず、御遷宮前と後で参道、正宮前のバリアフリーがどうなったかお知らせいたします。
(砂利参道を走行しやすいタイヤの太い電動と手動の車いすの貸し出しは、外宮・内宮とも10数台ずつあります)
■■ 内宮 ■■
(遷宮前)
宇治橋から片道約800メートルの玉砂利参道。
ご正宮前には、踏み面の広い階段が32段+一般的な踏み面の階段が7段ありました。
(遷宮後)
宇治橋から片道800mの玉砂利参道を行くと、以前の敷地の左隣(手前側)が新宮。
ご正宮前の階段は現存しますが、敷地の高さが少し低くなったので、踏み面の広い階段が18段+一般的な踏み面の階段が7段です。以前よりマイナス14段です!
すみません、白石持のときの写真で分かりにくい写真です
■■ 外宮 ■■
(遷宮前)
表参道、北御門の火除橋から正宮まで300mほどの玉砂利参道。
正宮前には、15cmほどの段差一段あり。
(遷宮後)
火除橋から正宮まで300mほどの玉砂利参道を行くと、以前の敷地の左隣(奥側)が新宮。
正宮前に以前あった段差は解消され、フラットになりました!!
神宮は御鎮座されて2000年、昔とほぼ変わらぬ姿で存在しています。
私たち伊勢で生まれ、育っている者にとっては、あの姿が伊勢神宮であり、玉砂利を踏みしめながらご正殿に近づき、その距離で気持ちを高めていき、神様と人間との結界というバリアを乗り越えてたどり着くというイメージであります。
だからと言って、障がい者や高齢者にはこの砂利の参道はキツイでしょう!
せっかく遠方から、お参りにきたのに、これはないでしょう。
神社の総本山がそれでいいの?
階段横にスロープを作ればいいんじゃない?
砂利の参道に車いすの道を!
伊勢市や三重県がバリアフリー指導をすればいいのでは?
伊勢志摩バリアフリーツアーセンターは神宮へ要望を出しているのか?
と、ご意見もあるかと思います。はい。
私たちも、活動し始めた頃は正殿前にスロープや参道の一部にでもコンクリートの道を…と思ったこともありましたが、神宮さんとお話しすることや、その歴史、背景、参拝される障がい者、高齢者と一緒に参拝したり、お話を聞いたりしていくうち、考え方が変わってきました。
私の主人も交通事故で現在、車いす利用者でありますが、神宮参拝に行くときには、一緒に行くメンバー等にサポートしてもらいながら、参拝いたします。
不平も言いません。
むしろ、障がい者用の特別な参道でなく一般の方と同じ参道を行けることの喜びを感じています。
ゆっくりですが、ひとこぎ、ひとこぎ、目の前のバリアを越えながら神様に近づく。
ツアーセンターが活動を始めて2年目あたりで、神宮参拝のお手伝いをしてほしいという要望がちょこちょこと出てくるようになってから、キャンペーンやいろんなイベントを行いながら、現在は、地元のボランティアたちの手による参拝のサポートをおこなっています。
(常駐のボランティアがいるわけではないため、2週間以上前のお申し込みをお願いしています)
ただ、近年たくさんのお申し込みがあり、ボランティアの需要と供給が追い付かないこともあるため、グループ旅行の場合などは、出来るだけ、お仲間の介助で…とお願いしますが、老々介護や少人数のご旅行の際は、出来るだけお手伝いできるよう相談をお受けしております。
現在は、無料ボランティアですが、いつかは有償化として、たくさんの方に利用していただくようなシステムもただいま、検討中です。
また、最近では、参拝客の方が手を貸してくださることもあります。
おそらく、普段はボランティア活動などされない方でも、神域内に入ると、人を思いやる心が芽生えてくるのでは?
と思います。
とても素晴らしい光景だと思います。
また、場合によっては、階段下からの遥拝という方法もあります。
遥拝でも神様に届く気持ちは何ら変わりはありませんし、身体の状態やその日の天候(雨など)によっても、無理なさらない方が良い時もあるるでしょう。
神宮の姿は2000年前とはあまり変わりないかもしれませんが、参拝者の姿は昔に比べると随分変わってきています。
障がい者、高齢者、外国人、ペット連れ等々。
そのため、少しずつですが、変化はあります。
神苑にベンチを設置したり、神宮のパンフレット等をお渡する窓口。
ペットを預かれるゲージの設置、タイヤの太い車いすの貸し出し台数も10年ほど前は2~3台でしたが、いまや10数台あります。
車いす対応のトイレの改修、AEDの設置。
その他いろいろ。
車いすも以前は、人目にふれるところに置いていなかったため、だれも車いすの貸し出しに気付かないこともありましたが、今は目のにつくところにおいてあり、みなさんが気付くような仕組みを作ってあります。
2000年もの歴史のなか、少しずつ、良い方向に変わってきています。
みなさんにとっては「そんなくらいで納得?」と思われるかもしれませんが、以前はもっと頑として動かなかった神宮さんが、2000年もの間のこの数年でそれだけ動いただけで私たちは感激するほどのところである神社なのです。そんな位置づけでもあります。
私たちが考える神宮のバリアフリー化(神宮さんに限らず観光地のバリアフリー化)は、
「スロープを作ってほしい」
「砂利をコンクリートに」
という要望を訴えるものではなく、今現在行っている神宮参拝サポートのお手伝い、バリアの情報発信による、参拝アドバイス等により、今まで参拝し難かった障がい者、高齢者に安全に参拝してもらい、まず需要を認識してもらいます。
神苑のベンチやタイヤの太い車いすの貸し出しなども、需要を認識したための、素晴らしい変化だと思います。
もちろん、作らなくてもそれらに対して不服があるわけではありません。
むしろ、神宮の御膝元で暮らしてきた人にとって、2000年の変わらぬ姿をこの時代で変えてしまうことに、大きな形の変化は、戸惑いや残念な気持ちもあります。
そんな、変わらないことも大切だと思う出来事もあります。
戦時中に内宮周辺に疎開されていたというお母様とそのご家族がいらっしゃた時にサポートのお手伝いをさせていただいたことがあります。
お母様は、かなりの認知症であり、お手伝いしているときは話しかけても、始終無表情でした。(認知症の方特有の症状ですね)
お帰りのとき、神宮の宇治橋の上で五十鈴川を眺めながら、
「この五十鈴川の下流には烏帽子岩という岩があって、お母さんが小さいころは、その岩からよく飛び込みませんでしたか?このあたりの子どもたちはあの岩が度胸試しの岩として有名ですよね?」
と、言ったら、突然、言葉こそ発しないけれど、子どものようないたずらっぽい表情になり、まわりの皆さんがビックリするくらい手を叩いて笑い出しました。
おそらく、お母様が小さいころ見た宇治橋上からの五十鈴川の景色と、今の景色にそう変わりがないから、その言葉と景色とが重なったのだと思います。
昔来た時と変わりない風景…、日本には少なくなりましたが、そんな風景が守られているからこそ、神宮が「こころのふるさと」
と言われるのだと思います。
魅力的な場所は魅力的なまま。
バリアフリーだから行くのではなく、「そこへ行きたい」から行く方法を皆で考える。
「行けるところ」より「行きたいところへ」を合言葉に活動をし続けてします。
私たちは活動をしていて思います。
障がい者、高齢者の旅行は、一般の旅行者より素敵な体験が出来る要素がたくさんあるのでは?と。
神宮のように、人の手を借りなくてはいけないところがあるからこそ、地元の人や参拝者とのコミュニケーションをとることができ、出会いがない旅行よりはるかに楽しいひと時が過ごせます。
もし、神宮に玉砂利がなくなり、階段もスロープになり、誰もが手軽に行けるようになれば、行きやすくはなるけれど、人との交流もなく、印象も残らないと思います。
参拝のサポートをしていると、時々正殿前で「ここまで(階段上)来れるなんて夢のようです、ありがとうござます」と、泣き出す方もいらっしゃいます。
正殿にたどり着いた車いすのおばあちゃんが、神様より先にサポートしてくれたボランティアに手を合わせたこともありました。
いろんなサポートがあって正殿前にたどり着いた障がい者、高齢者の方が手を合わせた時は、まずは、ここまで連れてきてくださった家族や仲間などのサポートに感謝し、そんな人を育んでくれた社会や環境に感謝し、そして、神様への感謝となるのかもしれません。
まさに本来の、ご正殿で手を合わせる「感謝」の気持ちです。(神宮さんは、お願い事ではなく「感謝」を述べるところです)
もしかすると、その過程がなかったら、「自分本位のお願い」だけに止まっていたかもしれません。
そこへ行くことだけが目的ではなく、そこへ行くまでの過程が重要なのだと思います。
過程がなければ、その場に立った景色は全く違うものとなってしまいます。
例えでお話しすると、山登りが大好きな男性が、事故や病気で身体が不自由になったとしましょう。
その方が、どうしても、また山登りをしたいとなったとき、「●●山なら、車で頂上まで上がれますよ」と、周りの人に連れていってもらったとしても、きっとその男性はあんまり喜ばないと思います。
あの、山に登る苦労の過程があるからこそ、頂上からの景色は違って見えてくるのです。
頂上に立つことだけが目的ではなく、その過程を含めた全てが満足感に繋がるのだと思います。
強い「登りたい」気持ちがあれば、いつか健康な時に山登りした時と同じ気持ちで頂上に立つときがくるでしょう。
私たちは神宮さんが「バリアフリーでない」とは思っていません。
なぜならば、神宮さんは、参拝にいらっしゃる方を拒むことがないからです。(もちろん、酔っぱらっていたり、人に迷惑をかけるモラルに反するような方には声をかけているようですが)
今後も、参拝したいと願う方がいれば、私たちは地元民として、サポートを出来るだけ行い、一人でも多くの方に参拝を実現していただきたいと思います。
そして、参拝を願う方の多さ、その思いの強さを私たちが伝え続けていくことで、いつかなんらかのバリアフリーな形への変化が生まれることでしょう。
障がい者、高齢者だけを考えるのではなく、全ての参拝者に違和感なく、自然に、まるで2000年前からあるかのような、そんなバリアフリー化がいつか叶うかもしれません。
「スロープ作れと指導されたから」などというお仕着せのバリアフリーでなく、たくさんの方の「必要なこと」を汲みとり、その思いに答えるためのバリアフリー化。
後者にこそ、気持ちのバリアフリーが含まれていると思います。
私たちは、そのように気持ち=ソフト面を練り込みながらのバリアフリーの観光地を目指していきたいと思っています。
もしかすると変わらなくてはいけないのは、神宮さんではなく、人間なのかもしれません。
長文になりましたが、
ぜひ、みなさん、新しいお宮となった神宮、そして伊勢志摩へいらしてくださいませ。(混雑が落ち着いたころが良いかと…)
あからさまに変わっているところはないかもしれませんが、心が含まれた、障がい者、高齢者への配慮を神宮や伊勢志摩地域全体で感じていただければと幸いです。
長文、最後まで読んでいただいてありがとうございました。