不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『子どもたちの8月15日』(岩波新書)

2011年01月17日 03時21分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は新春囲碁ゴルフ口吉川町大会に勢揃いした各老人クラブの方々です。今年はどのも張り切って2チーム出場しましたが、うちのは老人が集らず1チームだけ参加しました。この人たちもそれぞれに昭和20年8月15日の思い出をもっておられるでしょうね。
 私のブログを読んでいただいている方は「このブログを書いてる人は、日本の敗戦の日につよいこだわりがあるようだ」という印象を持たれるでしょう。その通りです。では昭和12年10月生まれで国民学校(=小学校)2年生だったぼくが、昭和20年8月15日にどんな体験をしたかといえば実はなにも体験していません。敵の飛行機も味方の飛行機も飛んで来ず、兵隊さんも見かけず、山陰の山奥の静かな村で、蝉をとったり魚をとったりして遊んでいました。
 昭和20年8月15日は晴れていました。いつものように蝉取りの網を持って裏山から帰ってくると、隣りの家からおばあちゃんが帰ってくるところでした。(うちのラヂオは壊れてて、大人は隣りで玉音放送を聴いたのです)おばあちゃんはぼくを見ると急に泣き声になって「啓一や。日本は負けただぜ。おまえ、大きゅうなってアメリカにカタキとってごせえよ」といいました。どういうことかわかりませんが、とにかくこの場面だけは覚えています。
 ぼくらより少し上の年齢で(敗戦のとき15歳前後だった少年たち)敗戦を体験した人たちは、「兵隊さんになってお国のために死のう」と決意して、陸軍幼年学校を志願したり満蒙開拓青少年義勇軍に志願したり海軍の予科練に志願しようとしたでしょう。城山三郎さんも半藤一利さんもそんな世代の人です。では昭和10年から15年に生まれ、敗戦のとき6歳から12歳くらいだった子どもたちは、どんな思いで生きてきたでしょう。
 図書館で『子どもたちの8月15日』という岩波新書を見かけたとき「これだ! 読んでみよう」と飛び付きました。漫画家の山藤章二(1937年=昭和12年生れ)、阿刀田高(昭和10年生れ)、筑紫哲也(昭和10年生れ)、中村敦夫(昭和15年生れ)、小澤征爾(昭和10年生れ)、大竹宣彦(昭和13年生れ)、河野洋平(昭和12年生れ)など30人余りの著名人が敗戦の日の思いを書いています。でも読んでみるとおもしろくないのです。
 ぼくたちは敗戦で価値観がひっくり返り、大人たちがうろうろした時代に子どもだった。子どもの眼でじっとそんな大人を見て大きくなった。その体験を交流しようという本なのにおもしろいと思わない。なぜだろう。
 筑紫哲也のこんな文に出会って「敗戦の日は胸にしまっておくしかない」と思います。

 日本とアメリカがかつて戦争をした、という「事実」自体が今日の日米〝同体〝ぶりからは推量できないし、それを知らない若い人たちもいる。それを教えた大学教授に向かって「それで、先生、どっちが勝ったんですか」と学生が反問した、というエピソードはもう20年以上も前の話である。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする