元気、福島
東京電力、福島原発が事故になってもう4年が過ぎます。
津波の翌日、新横浜の事務所に帰りました。
机から落ちていたパソコンを取り出し、電話を拾い上げました。
東北地方のお客さんに電話をかけました。
かかりませんでした。
メールを10社ほどに打ちました。
メールが通じて翌日返事が来ました。
今は、どうしてよいか解りません。
とりあえず助けていただくことは何もありません。
との返事でした。
やっと被災地に入ったのは、8月になってからでした。
仙台にあるビール工場は、1階部分が潮水で満たされました。
8月でも、工場までの田んぼには、流れ着いた流木などが散乱していました。
工場は、磯の香りがしました。
福島では、工場に誰もいませんでした。
風評被害で作っても売れないのでした。
工場の周りの田んぼで出来た米は売れるかどうか解らないのでした。
他府県ナンバーの大型トラックが自主流通米を「青田買い」をして、集荷したそうです。
子供達は、戸外で遊ぶ時間が制限されていました。
つくば市では、福島から来た人の移住を拒否したそうです。
始まった省電力で、どの工場も稼働率を下げて運転しました。
従って休日返上で働かざるを得なかったそうです。
東京では、電車が間引運転でどの電車も満員でした。
横浜の事務所では、3時に社員全員が集まり家族の無事を確認しました。
原発の被害とこれからの対策のための話し合いが行われました。
サブのサーバーを置くために、大阪に急遽事務所を借りました。
4階建てのビルを3階分で借りる契約が成立しました。
大慌てで、引っ越し計画が練られました。
そして4時には、全員が帰宅しました。
毎日出される汚染度の報道に、ヨーロッパ人は大使館の命令で帰国しました。
その後、高地にあるオーストリアの自然の汚染度より低いことが解り、
続々と日本へ帰って来ました。
スイスの原発依存度は40%です。
ライン川のすぐ近くに原発があります。
事故があれば、福島と比較にならない甚大な被害となることでしょう。
あの時、管首相は、「ベント」(昇圧する水蒸気を一時的に放出)をするよう
東京電力に迫ったそうです。
事故の対応に奔走していた人たちはどうなっていたでしょう。
結果的には、爆発しました。放射能はまき散らされました。
想定外の事故に対する決定と決定方法が話されていなかったのです。
その後、安全基準が厳しくなり、全原発が停止しました。
被災地には、国だけでなく多くのボランティアが入りました。
復興の手助けをしました。私の友人も何としても行きたいと言っておりました。
多くの外国人が、仙台側から福島に潜入し金品を盗んだとか聞きました。
日本人は、暴動を起こしませんでした。今回のネパールでも同様でした。
事故への備えは充分でしょうか。
不測の事態への対応はされているのでしょうか。
私達は多くのことを学びました。そして実践しました。
福島が元気にならない限り日本は再生できないと知りました。
福島県だけ封鎖は出来ないのです。
私の故郷広島には、原子爆弾が投下されました。
被爆二世の子供達は、差別されました。
私達のことです。私は差別を感じたことはありませんでした。
しかし、広島は特別な地域だったのです。
当時、ビッグデータ(ナビ情報、携帯電話)が活かされていれば、
多くの二次災害は防止できたそうです。
我々は、まだまだ多くのことを覚悟し考えていかなければなりません。
これまでもできました。これからもきっと出来るはずです。
湧き水の 洗いし水を 鯉清め
2015年8月3日
東京電力、福島原発が事故になってもう4年が過ぎます。
津波の翌日、新横浜の事務所に帰りました。
机から落ちていたパソコンを取り出し、電話を拾い上げました。
東北地方のお客さんに電話をかけました。
かかりませんでした。
メールを10社ほどに打ちました。
メールが通じて翌日返事が来ました。
今は、どうしてよいか解りません。
とりあえず助けていただくことは何もありません。
との返事でした。
やっと被災地に入ったのは、8月になってからでした。
仙台にあるビール工場は、1階部分が潮水で満たされました。
8月でも、工場までの田んぼには、流れ着いた流木などが散乱していました。
工場は、磯の香りがしました。
福島では、工場に誰もいませんでした。
風評被害で作っても売れないのでした。
工場の周りの田んぼで出来た米は売れるかどうか解らないのでした。
他府県ナンバーの大型トラックが自主流通米を「青田買い」をして、集荷したそうです。
子供達は、戸外で遊ぶ時間が制限されていました。
つくば市では、福島から来た人の移住を拒否したそうです。
始まった省電力で、どの工場も稼働率を下げて運転しました。
従って休日返上で働かざるを得なかったそうです。
東京では、電車が間引運転でどの電車も満員でした。
横浜の事務所では、3時に社員全員が集まり家族の無事を確認しました。
原発の被害とこれからの対策のための話し合いが行われました。
サブのサーバーを置くために、大阪に急遽事務所を借りました。
4階建てのビルを3階分で借りる契約が成立しました。
大慌てで、引っ越し計画が練られました。
そして4時には、全員が帰宅しました。
毎日出される汚染度の報道に、ヨーロッパ人は大使館の命令で帰国しました。
その後、高地にあるオーストリアの自然の汚染度より低いことが解り、
続々と日本へ帰って来ました。
スイスの原発依存度は40%です。
ライン川のすぐ近くに原発があります。
事故があれば、福島と比較にならない甚大な被害となることでしょう。
あの時、管首相は、「ベント」(昇圧する水蒸気を一時的に放出)をするよう
東京電力に迫ったそうです。
事故の対応に奔走していた人たちはどうなっていたでしょう。
結果的には、爆発しました。放射能はまき散らされました。
想定外の事故に対する決定と決定方法が話されていなかったのです。
その後、安全基準が厳しくなり、全原発が停止しました。
被災地には、国だけでなく多くのボランティアが入りました。
復興の手助けをしました。私の友人も何としても行きたいと言っておりました。
多くの外国人が、仙台側から福島に潜入し金品を盗んだとか聞きました。
日本人は、暴動を起こしませんでした。今回のネパールでも同様でした。
事故への備えは充分でしょうか。
不測の事態への対応はされているのでしょうか。
私達は多くのことを学びました。そして実践しました。
福島が元気にならない限り日本は再生できないと知りました。
福島県だけ封鎖は出来ないのです。
私の故郷広島には、原子爆弾が投下されました。
被爆二世の子供達は、差別されました。
私達のことです。私は差別を感じたことはありませんでした。
しかし、広島は特別な地域だったのです。
当時、ビッグデータ(ナビ情報、携帯電話)が活かされていれば、
多くの二次災害は防止できたそうです。
我々は、まだまだ多くのことを覚悟し考えていかなければなりません。
これまでもできました。これからもきっと出来るはずです。
湧き水の 洗いし水を 鯉清め
2015年8月3日