丸 信之 様
前略
突然、お手紙を差し上げて申し訳ありません。
インターネットで検索していたところ、丸さんのお名前を見つけ、懐かしくて堪らなくなり、手紙を書いてみることにしました。
丸さんは、もしかして、今から40年近く前、名東区のNハイツに住んでおられた丸信之さんではないでしょうか?(もし、人違いであれば、以下の内容は無視して、この手紙は破棄してください。)
システムブレーン・マーケットのHPに載っていた丸さんの出身校に「名古屋市立猪高小学校」と記載されていたので、たぶん、間違いないと思うのですが。
私は、両親の別居に伴い、小学校4年の途中から小学校5年まで、Nハイツの南側にあったボロアパートに母親と2人で住んでいた平岩利文です。覚えておられるでしょうか?
丸さんにはとても仲良くしてもらい、猪高小学校では一緒にバレーボール部に入っていました。
丸さんと同じくNハイツに住んでいたO君や、医者の息子のM君、お父上が大韓航空のパイロットだった韓国人のS君ともよく遊びました。猪高小学校5年の時の担任は中根敦先生でした。
私の両親の別居は私が小学校6年生になるときに解消し、私はもとの家(尾張旭市)に戻りました。その後、丸さんやO君と連絡を取り合い、1~2度、会ったような気もするのですが、そのあたりは記憶がはっきりしません。
私の両親は、結局、私が35歳の時に離婚し、名古屋市内の老人ホームに入っていた母親は先月22日に80歳で他界しました。
現在、私は東京で弁護士をしています。
母親が他界した先月22日。諸手続のために名古屋に戻った折、懐かしさも手伝って数十年振りに母親と二人で住んでいたボロアパートを訪ねてみましたが、既にアパートは取り壊されており、立派なマンションが建てられていました。
ただ、丸さんが住んでおられたNハイツは昔のままでした。
両親の不仲~別居、母親との慣れないアパート生活、母親が看護婦をしていたために鍵っ子だった寂しさ、そんな中で丸さんやO君、M君、S君たちが何一つ色眼鏡で私を見ることなくずっと仲良くしてくれたこと(あの頃は現在と違って、「片親の子」というのは子どもにとっては色んな意味で大変な時代でした)、夜遅くまでバレーボール部の練習をしたこと、小学校までの長い道のり…。私が母親と一社で暮らした期間はたった1年半でしたが、あの頃の記憶は今でも鮮烈に残っています。
母親の他界をきっかけに久し振りに一社の街を訪ね、丸さんのことを思い出し、ダメもとでインターネットで検索してみたところ、丸さんの会社に辿り着きました。
丸さんが私の知っている、幼なじみの、やせっぽちの、ひょうきん者で、スポーツ万能で、優しかった、猪高小学校に通っていた「丸信之」さんであれば、一言、あの頃のお礼をお伝えしたくてお手紙を書かせて頂きました。
40年近く前ですが、あの頃は本当に有り難うございました。
丸さん、O君、M君、S君たちがいてくれたお陰で、みんなの笑顔に支えられたお陰で、みんなが私と友だちでいてくれたお陰で、私は母親との寂しい二人暮らしを乗り切ることができました。道を踏み外すことなく、どうにかこうにか、人並みに大人になることもできました。
私は二人の息子を授かりましたが、今年、長男は中学校に、次男は小学校に、それぞれ入学します。奇しくも、私の両親がお互いを蛇蝎の如く嫌いあっていた頃、私が丸さんたちに会った頃の年齢です。
丸さんたちのことを思い出すたび、一社のボロアパートでの母親との生活を思い出すたび、丸さんとバレーボールの練習をした小学校の夜の体育館の灯りを思い出すたび、一社の空き地の枯れ草の匂いを思い出すたび、二人の息子にも丸さんたちのような友人ができればいいなぁ、と思ったりします。
突然のお手紙、失礼しました。
もし、私のことを思い出して頂いたら、お手すきの時にご連絡を頂ければ嬉しいです。
メールでもけっこうです。私の事務所のメールアドレスが記載してある私の名刺も同封しておきます。
草々
追伸:もし、まだO君やM君たちと連絡を取り合っておられるなら、彼らにも宜しくお伝えください。