つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

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摂ちゃんのこと(4)

2018-02-23 12:17:58 | 摂子の乳がん

お袋は、

『心配だった運動しょうがいもなく良かった。』

と母子手帳に書いたが、実際には摂子は脳機能に障害を負っていた。

 

親父が残した「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」の控えは、年月日が1年ずれている(間違っている)ものの、その内容は母子手帳より詳細だ。

何より、お袋が母子手帳への記載を止めてしまった後の摂子の様子は、「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」からしか知ることができない。

以下、「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」の記載からの抜粋(※年月日は正確な日付に修正した。)

 

発病日 昭和44年12月31日

発病したときの状態 風邪ぎみでけいれんが来た。

発病から初診までの状態 1月1日に瀬戸市の浅井病院受診。直ちに入院。酸素吸入を行った。

昭和45年1月1日から1月7日まで 浅井病院に入院したが、最初、内科医不在。外科医診察。

                酸素吸入、意識なしの状態が続く。

昭和45年1月7日から3月まで   名古屋市立大学附属病院。

                意識なしの状態が続き、名市大病院へ転院した。

                脳血管撮影の結果、左上部に出血あり。

                外科医と小児科医協議の結果、手術せず様子を見ることに決定。

                退院后も1年ほど通院。

昭和45年4月から昭和47年まで  愛知県総合保健センター。

                知能発達・言語発達の遅れが見られた。

                県総合保健センターへ通い言語訓練を受けたが好転しなかった。

昭和52年頃から現在まで     春日井コロニー中央病院。

                てんかん発作が見られるため通院中。

 

こうしてみると、昭和45年の正月から春先までの我が家は大騒ぎだったはずなのだが、5歳当時のこの部分は私の記憶からすっぽり抜け落ちている。

「お袋と一緒に風呂場で、お父さんが貰って来る赤ん坊の名前を考えた」記憶が残っているのに、その赤ん坊の身に翌年正月早々に降りかかった災難についての記憶がまるでない。

幼いながらに記憶を封じ込めてしまったのかもしれぬ。

結局、摂子には知的障害という大きな後遺症が残された。

正式な診断名は、「髄膜炎後遺症」とされた。