第37回は調布市。
調布といえば、すぐに浮かぶのは、
「調布基地を追い越し
山に向かって行けば」
で始まる松任谷由実(ユーミン)の名曲、『中央フリーウェイ』
というわけで、今回は旧調布基地(現在の調布飛行場)にやって来ました↓
ちょうど神津島からの便が到着したところ↓
ここは空港内にあるプロペラ・カフェ↓
検問ゲートを通らないと空港内の敷地に入れないので、お店に行くまでがちょっと面倒ですが、店内はお洒落で、飛行機の離発着も間近に見られる超お勧めスポット。
NYチーズケーキとブレンド・コーヒーのセットを頂きましたが、これがバカ旨!
店内には現在、日本に1台しかないVRフライト・シミュレーターがあります。
5分1000円/15分3000円と少々お高いですが、調布基地を飛び立って新宿まで飛行して来ました(5分コース。15分コースだと羽田空港まで行って着陸までできます)。
ちなみに2回くらい墜落しかけました。
でも、
メッチャ面白かった!
お店の横は機体格納庫になっていて、店内からも出入り可能↓
なんか変なの(ヨーダ?)が乗ってますね。
ユーミン(『中央フリーウェイ』発表当時はまだ荒井由実)が調布飛行場のことを「調布基地」と歌っているのは、この歌が発表される3年前まで、ここが在日アメリカ軍の「調布基地」だったから。
『中央フリーウェイ』が発表されたのは1976年3月14日(TBS系「日曜スペシャル」のスタジオ・ライブ企画「セブンスターショー」)。
中央高速の調布ICと首都高4号線(新宿線)の高井戸ICが完全接続して首都高から中央高速に直接入れるようになったのは約2ヶ月後の5月18日。
つまりユーミンが『中央フリーウェイ』を作った頃は、歌に出てくる恋人たちは新宿か高井戸から調布まで甲州街道(国道20号)をひた走って来て、調布ICでようやく「夜空に続く滑走路」に入っていたわけですな。
調布基地は高井戸方面から調布ICを入るとすぐ右手に現れ、たちまち後方に消えていく。
だから『中央フリーウェイ』はスタートが高井戸でも新宿でもなく、いきなり「調布基地を追い越」すのだ。
ちなみに「セブンスターショー」では、かまやつひろしが『中央フリーウェイ』を歌った(!)
この曲はユーミンがかまやつひろしのために書き下ろしたものだ。
ところで。
アメリカ軍から返還された調布基地の跡地には現在、調布飛行場だけでなく味の素スタジアムなんかも建っている。
味の素スタジアムが有名になったので多くの人に知られるようになったが、スタジアムの脇(甲州街道沿い)には1964年の東京オリンピックのマラソンコース折り返し地点の記念碑と表示がある。
これ↓
1964年といえば私が生まれた年でもある。
この折り返し地点辺りから「裸足の王者」と呼ばれたエチオピアのアベベ・ビキラが独走態勢に入った(※アベベが裸足でマラソンを走ったのは1960年のローマオリンピックの時。東京オリンピックのときはちゃんとシューズを履いていた)。
ゴール後、すぐに整理体操を始めたアベベが、「まだ、あと10kmくらいは走れた」と言ったのは有名だ。
アベベは調布基地が日本に全面返還された1973年の10月に亡くなった。
アベベに遅れて銅メダルとなった日本の円谷幸吉(つむらやこうきち)選手はその後、
「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
と遺書を遺(のこ)して自殺した(1968年1月9日)。
高度経済成長の真っ只中。
日本中が前と上だけを見てガムシャラに走り続けていた時代だった。
円谷選手は、熱病のように浮かれた日本の空気に背中を押され続け、立ち止まることも休むことも許されず、命を擦り減らし、最期はひとりぼっちで逝った。
彼の遺書は、韻律が美しすぎて、慟哭が哀しすぎて、愛情が切なすぎて、何度読んでも涙なくして最後まで読めない。
2020年の東京オリンピック。
「東京は暑過ぎる」ということでマラソンと競歩の会場は札幌に変更された。
選手の身体のことを考えれば当然の措置だ。
そもそも東京にオリンピックを誘致するためIOCに提出された立候補ファイルでは、
「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。」
と明らかに現実と異なる説明がされていた(第1巻テーマ2)。
予算についても「7000億円程度で実施可能」などと荒唐無稽な試算をもとに「コンパクト・オリンピック」をアピールしていた(その後、膨らみに膨らんだ予算は3兆円)。
開催まで1年を切ったこの時期の会場変更には反対意見も多い。
しかし、考えてみれば猪瀬前都知事に率いられた誘致委員会は嘘八百を並べ立てて東京開催をもぎ取って来たのだ。
嘘がばれた今、相応のペナルティを払うのは当然だろう。
当然だとは思うけれど、56年前、日本中で円谷選手を追い詰めてしまった償いのためにも、今度こそ、全ての出場選手たちに楽しく、自由に、東京の街を走ってもらいたかったと思っているのは、たぶん、私だけじゃないだろう。