つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

怒りの根源

2020-09-27 18:40:00 | としまえん問題

としまえん問題はまだ続いている。というか続けている。

としまえん閉園からそろそろ1か月。

「もう、いいじゃないですか」という声が届くようになった。

「諦めることも大事ですよ」という意見も届くようになった。

優しく私を諭(さと)そうとしてくれる皆さん、ありがとうございます。

でも、まだ私は「いい」とも「諦めるとき」とも思っていないのです。ごめんなさい。

 

なんで、こんなに腹が立つのか。

東京都さんなのか、練馬区さんなのか、西武さんなのか、伊藤忠さんなのか、ワーナーさんなのか。

誰だかはまだわからないけれど、なんでこんなに許しがたいのか。

自分でもよくわからなかったのだが、先日、秘書から、

「先生って、だいたい10年周期でお金度外視で突き進んじゃいますよね(笑)」

と指摘されてようやく気付いた。

今まであまり人には言わなかったけれど、そろそろ打ち明けてもいいように思うのでこの機会にブログに残しておこうと思う。

 

今から約10年前の2011(平成23)3月11日。

2万人以上の人たちの命を一瞬で奪った東日本大震災のあった日だ。

3月11日の地震からしばらくは「なんだか大変なことになっちゃったなぁ」程度の気持ちだった。

東北で亡くなった人のニュースを見たり聞いたり読んだりするたび、「気の毒だなぁ」とは思ったけど、だから「何かをしよう」というわけでもなかった。

いや、むしろ自分や自分の家族がかすり傷一つ負わずに元気に暮らせていることに心のどこかで喜びを感じてた。

度し難いクソ野郎だ。私は。

そんな私を、ある新聞記事が変えてしまった。

これ↓

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103220552.html

3月24日の朝日新聞夕刊の記事だ。

リンク先のサイトがなくなってしまうかもしれないので、以下に記事の一部を引用しておく。

『津波に襲われた同県南三陸町。30代の母親ががれきの中でうずくまり、泣いていた。「なんにも悪いことしてないのに。どうして……」

あの日、2歳の娘を寝かしつけ、山向こうの町に買い物に出て地震に遭った。山を越えて轟音(ごうおん)が響いてきたが車は動かず、坂道を走った。そこから先の記憶はない。

娘は翌日、自宅があった場所から400メートルほど離れたがれきの下で見つかった。消防団員が顔を拭いてくれていた。いつもの歯磨きのように、口を大きく開けて指で泥をかきだしてあげた。

震災3日後、がれきの中から、やっとアルバムを掘り出した。砂ぼこりが巻きあがる中、泥だらけのアルバムを胸に母親は泣き続けた。』

 

この記事を帰宅途中の地下鉄の中で読んで、私は人目を憚らずに泣いた。

地下鉄の車内で新聞を読みながら泣く40過ぎのオヤジ。

傍(はた)から見ればかなり異様な光景だったと思うけれど、今読んでも、涙が止まらなくなる。

当時、私の次男はまだ1歳半。

早めに帰宅できた時は、ようやく生えてきた小さな歯を食後に磨いてやるのは私の役目だった。

私の股の間に頭を埋めて、嬉しそうな顔で口をあーんしている次男。

虫歯にならないように、丁寧に丁寧に、小さな、数えるほどしかない次男の歯を磨いた。

同じ時に同じ国の違う場所で。

私の次男と年も変わらないわが子の亡骸の口から、泣きながら泥をかき出している母親がいる。

 

なんだ、これ?

なんでこんなことになってんだ?

 

母親が言ったように、彼女が誰を責めることもできず嗚咽の中で振り絞るようにそう言うしかなかったように。

「なんにも悪いことしてないのに、どうして」

 

その翌日から、私は被災地に送るための生活再建情報をまとめた手作りの冊子を作り始めた。

最初は一人で。

途中から、当時、私のまわりにいた司法修習生の有志数人が手弁当で情報収集・記事作成を手伝ってくれた。

タイトルは「復興のための暮らしの手引き~ここから/KOKO‐KARA~」

どんなに辛くても、苦しくても、同じ国の別の場所にあなたたちのことを考えている人間がいる。

だから、どんなに辛くて苦しくて逃げ出したくなるような場所でも、「ここから」立ち直ってほしい、という願いを込めた。

先般、日本における災害対策法務の第一人者の一人、関西のT先生から、

「平岩先生が作っていた暮らしの手引き。まだ、PDFであればネットで見れるんですよ!」

と教えて頂いた。

これ↓

http://www.ichiben.or.jp/shinsai/data/kokokara.pdf

https://hinansyameibo.blog.fc2.com/blog-entry-345.html

私と司法修習生たちが作った「ここから」はたくさんの方が被災地に持って行って避難所などで配ってくださった。多くの仮設住宅などにも置いてもらえたと聞いた。

最初は印刷から発送まで全部手弁当だったので、その当時の事務所の台所は火の車になった。

仕事そっちのけで冊子づくりに没頭する私を顧問先の社長さんたちは笑って応援してくれた。

秘書は「仕方ないですねぇ」と笑いながら発送作業を手伝ってくれた。

感謝してもしきれない。

「ここから」は多分、何万部も被災地に届けられたが、私は、あのわが子をなくした若い母親にこそ、届けたかった。

彼女は、ちゃんと悲しみを乗り越えて立ち直っただろうか。

新しい子どもを授かることはできただろうか。

 

今、安穏と毎日を生きている僕らは、あの日、命を落とした2万人以上の人たちに、わずか2歳で「なんにも悪いことしてないのに」天に召されたあの女の子に、そして、泣きながら娘の口から泥をかき出してやっていたあのお母さんに、一生かけて答えるべき責任を負ったのだと思う。

なんにも悪いことをしてなくても命を奪われるのが震災。それはどうしようもないことだ。

でも、震災で奪われる命を一人でも減らす努力をしなかったら、震災で人が亡くなるのは人災だ。

普段からの防災教育。

避難場所の整備。

広域防災拠点の整備。

何にもまして優先すべき課題だ。

将来助かる命と、あの日死んでいった命に対して、僕らが一生かけて果たすべき義務だ。

 

としまえんは広域防災拠点となる練馬城址公園に生まれ変わるはずだった。

そう説明されてきた。10年前から。

ところが、としまえんの跡地にはその半分近くの敷地を使って東京ドーム級のハリーポッター・スタジオツアーの建物が建つという。地上19mの巨大な箱。期間は30年間。

それが広域防災拠点としてどのような機能を果たすのか、誰も何も説明しないまま、今もとしまえんの解体作業は続いている。

練馬城址公園の広域防災拠点機能はハリポタ施設に敷地の約半分を譲ってしまったことで、どう考えても半減、あるいは事実上、骨抜きにされた。

「そうではない」という反論や具体的な説明さえ東京都も練馬区もしない。

あたりまえだ。

練馬城址公園に関するパブリック・コメントは来年1月。

東京都の公園審議会が答申を出すのは来年5月。

それまでは説明しようにも何も決まっていないはずだからだ。

だったら、なぜ、としまえんは着々と解体され、ハリーポッター・スタジオツアーの建物が建てられようとしているのだ。

 

としまえんを避難場所に指定されていた6万4000人の近隣住民の方は今、大地震が来ても(練馬区の用意した避難拠点以外に)逃げ込む場所はない。

としまえん全体がバリケードで囲われてしまっているからだ。中は解体途中のがれきや重機。

どう考えても安全な避難場所ではない。

しかし、東京都は代わりの避難場所を6万4000人に通知することも、それ以前に指定することさえしていない。

「今すぐ、大地震なんて来るわけないだろう。強迫神経症かよ。」

でも、1995年(平成7年)1月17日の阪神淡路大震災も、2011(平成23)3月11日の東日本大震災も、みんながそう言ってるときにやって来た。そして、2つの震災で3万人近い方々が亡くなった。

わずか四半世紀のうちに2度の大地震で、3万人近くの方々が亡くなっている。

「今すぐ、大地震なんて来るわけないだろう。強迫神経症かよ。」

というすべての方へ。

「大地震が来ないわけないだろう。重度の健忘症かよ。」

 

結局、としまえんは、広域防災拠点になるはずの練馬城址公園の敷地の約半分をハリーポッター・スタジオツアーに30年間にわたって明け渡すことになり、この先、約2年以上、6万4000人の避難場所を奪っただけで閉園した。

しかも、「ハリーポッター・スタジオツアー」の建物は海外も含めて多くのマスコミで「テーマパーク」と報道されている通り(なによりワーナーさん自身がこれを認めている)、どう見ても遊園地あるいはこれに類するものだ。

Twitterでは詳しく説明したけれど、としまえん跡地は第2種住居地域に指定されているので、いったん、としまえんを解体してしまったら、もう、新しい遊園地は作れない。

だから、「ハリーポッター・スタジオツアー」は「博物館それに類するもの」として建築申請が出されようとしている。

マスコミが、いや、ワーナーさん自身が「テーマパーク」と認めている施設なのにだ。

 

Twitterでもはっきり宣言したが、私はハリーポッターの大ファンだ。

でも、これは違う。

こんな施設はいらない。

その手続きの姑息さ。

広域防災拠点化という、譲ってはならない大義名分をいとも簡単に金で売り渡した関係者の卑劣さ。

命にかかわることじゃないか。

9年前のあの日。

2万人を超える人たちが、2歳の女の子が、「なんにも悪いことしてないのに」と泣いていた母親が、僕らに教えてくれたことじゃないか。

 

としまえんは僕らの学校であり、先生だった。

としまえんで僕は子育ての仕方を教えてもらった。

古かろうが、客が少なかろうが、ぎりぎりの経営だろうが、スタッフがみんな一生懸命働いている遊園地で、みんなに愛されている遊園地で、子どもがどんな笑顔で笑うのかを教えてもらった。

子どもの相手に疲れ切った暑い夏の日は、子どもを見守りながら木陰のベンチで休んだっていいんだよと、大きな大きなクロガネモチの木から教えてもらった。

親がベンチで見守っているだけで、子どもはどれほど安心した顔で遊びまわるのかを教えてもらった。



学校であり先生であるなら、いつかは卒業だ。

それはいい。

でも、卒業する僕らに、としまえんはこう言って手を振って笑っていた(と思う)。

「私は役目を終えていなくなるけど、私の跡地がみんなの命を助ける場所に生まれ変わるんだから。

こんな本望なことはありません。

ありがとう」

としまえんの気持ちを、僕らの気持ちを、あの日亡くなったすべての人たちがくれた教訓を、まるであざ笑うかのようにとしまえんのアトラクションは次々に解体され、樹木は切り倒され、プールは潰されようとしている。

もしかしたら、私の活動の根本にあるものは他の方々とは違うかもしれない。

もちろん、どこかに移設して残せるアトラクションは残したい。

接ぎ木や挿し木や移植で命をつなげる木々は助けてやりたい。

広域防災拠点として役に立つならプールも残すべきだと思う。

しかし、本当にとしまえん跡地をみんなの命を救うための広域防災拠点として生まれ変わらせるなら、そしてそのためにどうしても必要なら、私はプールがなくなるのも、アトラクションがなくなるのも、何本かの木々が切られるのも仕方ないとも思っている。

私の中では、あの日、泣きながらわが子の口から泥をかき出し続けていた母親の涙の方が、アトラクションより、プールより、木々より、重いからだ。

まだ諦めるときじゃないと、私の心が言う。

あの日死んだ女の子のために戦いなさいと、としまえんが言う。

だから、なんど無視されようが、なんど否決されようが、手続きが許す限り、私は意見書を書き続けるし、陳情書を出し続ける。

人間だから、時には辛くなることもあるし、疲れて動けなくなる時もある。

でも、いつも思うのだ。

あの日、津波と泥に飲み込まれて命を落とした女の子の苦しさは私の比ではないと。

あの日、動かなくなった車を乗り捨てて走って山を越えようとした母親の疲れは私の比なんかじゃないと。