摂子は戸籍上は私の実妹ということになっているが、実は私とは血がつながっていない。
私の最初の妹(知子)は生まれて2ヶ月で死んでしまった(1967年5月18日生まれ、7月25日没)。
親父に聞いた話では知子はダウン症だったらしい。
分娩室前の廊下で知子が生まれるのを待っていた親父が最初に聞いた声は、知子を取り上げた医者の、
「ダウンだ!」という声だったという。
知子の出産はかなりの難産だったらしく、知子が死んだ後なのか死ぬ前なのかはわからないが(たぶん、知子が死ぬ前だろう)、私の父方の祖母(つまり、お袋から見れば姑)が不妊手術を受けるようお袋に勧め、お袋も姑の言に従った。
祖母からすれば、
「利文という平岩家の跡取りを産んでくれたんだし、これ以上、嫁の身体に無理をさせられない。
無理に子どもなんか作らなくてもいい。」
という愛情からお袋の身体を気遣ったのだろう。
今から考えれば無茶苦茶な理屈だが、昭和40年代という時代はそういう時代だった。
ところが知子は生後2か月で逝った。
自分はもう子供を産めない体になっている。
私のお袋の狂気は、たぶん、この頃から始まった。
祖母が残した「思ふ事ども」と題名がつけられた日記(らしき備忘録)を読むと、当時のお袋と祖母の絵に描いたような確執、憎悪の応酬がよくわかる。
「思ふ事ども」の書き出しはこうだ。少し長くなるが紹介する。
『昭和四十二年秋起
利文の事を思うと、気も狂いそうになる。
逢いたい、見たい、遊びたい、片言で話がしたい
利文の事を思うとぢっとしてゐられない。
ぼんやり考へ込んでゐると、ひとりでに泣けて来る。情けない。仕方がないからめちゃくちゃに働き廻る。やらでもよい仕事まであれこれとやると、つかれて朝は体が痛くて起きられない程になる。何か本を夢中になって読みたいけど、新聞よむだけでも目の悪い自分にはつかれて肩がこって来る。ほんとうに情けない。
死にたくなって来る。自分は今ならいつ死んでもかまわない。が、どうかして主人を先に死なせてから死にたい。自殺は出来ない。この世から逃亡する事だから。
うき事のなおこの上につもれかし 限りある身の力ためさん
若い時から座右の銘にして来たこの歌の心も、もうそんな気力はなくなってしまっている。
限り少ない身に何故にうき事を望もう。
日曜には仕方がないから大てい午后からは何処か出かける。大曽根をふらつき、デパートへ行き、目につくものは子供のものばかり。おもちゃ売場へ行って、利文に買ってやりたいものがあっても、届けるすべがない。可愛らしい女の子のものからは目をそらさずにはゐられない。
行きたい。利文を見に-----。けれ共まだ行けない。私の心にはまだ不発弾を抱いてゐる様なものだ。一時休止の活火山である。完全に死火山になるか、又はこの不発弾を誰かが取り除いて呉れない限り、彼等に逢へば何時爆発するか解らないからまだ行けない。この不発弾を取り除く事の出来るのは彼等より外にはないし、どうしようもない事だ。
過去六年間、信じ切ってきただけに今度のショックは大きい。
やっぱりうちの子だけはと親馬鹿の見本みたいに宏志を信じて来たのがいけなかった。あの結婚の時に一言の聞き合わせも一度の調査もしないで宏志の云ふままに信じて来たのが私達の馬鹿さ、不明(?)さ、今更、何をいっても追付かないけど------。
でもあの時、宏志に言った筈だ。お前は一人前の男になってゐるつもりだけど、まだ若い。女の廿七八才は男の三十才以上の精神年令だからと、一人前のつもりでゐる宏志はまだゝ社会ではかけ出しの筈だが女の子が家をはなれて、親の元をはなれて、働いて、二十七八にもなってゐるのは、もうほんとうに世なれたもので、彼女から見れば宏志等、子供の様に見えた筈である。』
嫁と姑のどす黒い戦いの狭間に立たされて親父も苦しんだろう。
あ、話が逸れた。
摂子のことだった。