城郭 長谷川博美 基本記録

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浅井郡の範囲

2019-10-10 11:14:03 | 比較研究論
浅井郡の範囲

旧浅井町の人(現長浜市)
 先日長浜市の黒山石仏を見に
行きましたが、ここ黒山が長浜
市なんて、とても信じられない
違和感があるのです!浅井って
こんなに遠い所じやないと思う。


長谷川
 長浜市黒山は歴然とした浅井
郡ですよ!近年までは西浅井町
でしたからね!それに寛保2年
1742年寛保2年の近江国明細図
には黒山が浅井郡の内と書かれ
ています。

 私など歴史を研究している人
にとり現代行政区画ではなくて
黒山や西浅井は歴然たる浅井郡
なので研究を始める前に先ずは
黒山が浅井郡である事を前提、
認識、として歴史調査をする事
にしています。
    彦根市の鳥居本も元来は
近江国坂田郡である事を、念頭に
入れて歴史調査や研究を進めない
と現代に作られた国道に近い便利
な古城ですと、時に観光案内同然
の歴史研究内様に陥る危惧もある。
500年前はそこには国道も鉄道も
無かった事を考慮する必要がある。

現代を生きる人々にとり観光とは
非常に大切な地域振興のカギを握る
重要な現代社会の題目でありますが
冷静な歴史研究にとっては300年前
400年500年前に、生きた人々の
交通史や物流史に、よりそった調査
研究を務めないと現代の山奥や山峡
に眠る巨大な城郭遺跡を現代人とは
見逃してしまう可能性が高いのです。
つまり真実の歴史の痕跡城郭遺跡を
見落としてしまう事は往々にある。

そのような山奥に大型城郭遺跡など
あるはずが無いと現代人は現代感覚
の集団錯誤、に陥りやすいのですが
大きな城址が残っている場合は400
年前の徒歩の時代に帰って調査する
事が時に大切な初歩の大切な事です。

そう言う意味で『続日本紀』天平宝字
6年に「大師の藤原恵美朝臣押(ふじ
わらのえみのあそんおし)勝(かつ)が
近江国浅井・高島二郡の 鉄穴を各
1カ所賜る」と言う記述は浅井や高島
にとり意味深い、ものがあります。

下図は浅井郡の東草野村に属した
甲津原、曲谷、吉槻、板並などの
現在の米原市に属する集落ですが
石田佐吉時代の石田三成も甲津原
を浅井郡と表記している事に注意
しなければなりません!


旧浅井町の人(現長浜市)
だって現代生活を営む私達にとり
浅井町とは、浅井町中心の事だと
思い込み、考えてしまいますよ!

長谷川
やはりそこには潜入観や固定概念
や歴史解釈の違いがありましょう。
近年脳神経細胞シナプスの役割が
解明されてきて人間とは学んだ事
が固定し定着すると言われてます。
初めて見た木製の人形を親と思い
着いて行く鴨「カモ」人間は日頃
学習し学んだ事固定概念から脱却
し難いと言われています。初めて
見たものを親と思う刷り込み現象
に気付いて冷静な社会観察が選挙
にしろ歴史調査にせよ必要不可欠
だと思われます。

そう意味において現代人の倫理観
や、道徳観の欠落は、会社や教育や
政治や経済の場において、その歪み
が露呈した現代と言えましょうか?
弱き者イジメて何の益があるのか?

また世界的視点から見て日本人の
真に優れた人がノーベル賞に有名
無名に関係なく顕彰され賞賛され
る事は冷静な社会観察によるもの
と時に私は静かに冷静に思います。

★時代は繰り返す
西浅井は市町村合併により長浜市
へと編入されましたが時代は繰り
返す!再度昔の広域なる浅井郡へ
と再び回帰編入したと考えるべき
でしょうか?人間とは長い歴史の
なかで、絶えず同じ事を繰返して
いるものかもしれません?

★人間の集団帰属本能の現実
ある米国の真理学者が2つの大学
のアメリカンフットボールの選手
のユニホームをそれぞれ交換して
試合をする心理実験を実施しまし
た。A大学の応援団や学生はA大
学の選手を必死に応援しましたB
大学の学生や応援団はB大学を
必死になり懸命になり白熱して
応援しました。勝利したのはA大
学でした。しかし勝利したA大学
のアメリカンフッボール選手が、
ヘルメットを取り去るとその顔は
全てB大の選手でした。この実験
は人間が自分の所属する帰属する
集団の人間自体を応援したのでは
なくユニホームに描かれた大学名
の幻想を必死になって応援してい
た事になります。さて人間の本心
とはその大学の選手を応援してい
たのでは無く、自分達の所属する
大学のイメージの世界を、必死に
熱狂し応援していた事になります。
ある人が長寿を保ち、久しぶりに
故郷を訪ねると自分の知った人が
全くいなくて、これは私の故郷で
は無いと落胆されました。人間と
は本当に、摩訶不思議な心理を持
つ全く不思議な生き物なのです。



 
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おうみ古城図

2019-10-10 04:52:05 | 城郭
 
寛保2年1742年寛保2年に作成された
近江国明細図には既に古城と庶民に認識
された古城が記さている。これは当時を
生きた人々の古城の概念や古城に対する
認識を知る為の貴重な絵画資料であろう。
是を順次楽しく紹介してみる事にしたい。


▲坂本城
明智光秀の創建による。琵琶湖の湖水を
利用した坂本城はなんと、琵琶湖の中に
古城と表記されていて、水城を忍ばせて
感慨深いものがある。坂本や比叡辻そし
て穴太「あのう」の文字が見えて、この
表記が坂本城である事を物語っている。


▲音羽城
蒲生太郎こと蒲生氏累代の居城であり
佐々木六角に攻められ破城「城わり」
された最も古い文献記録も残っている。
鎌掛城や日野城とはまた別の所に古城
山の表記がある事に注目したい。音羽
城の明確な築城年代は不明である。
応仁年間~文明年間に蒲生貞秀により
築かれたと考えられる。音羽城の戦は
三度あったと伝えられ、明応5年美濃の
斎藤利国が京極氏とともに佐々木六角
高頼を攻め時。文亀2年(1502年)佐々
木六角氏の家臣伊庭貞隆が主家に背き、
六角高頼は音羽へ逃げ、貞隆がこれを
追って音羽城を攻めたとき。 そして、
大永2年(1522年)宗家争いで貞秀の孫
秀紀と叔父の高郷が争い、高郷は佐々
木六角氏の援軍を得て秀紀を音羽城に
攻め、3年の籠城を経て降伏した時だ。

▲観音寺城と箕作山城
図には佐々木六角の有名な観音寺古城
と箕作山とはずれた場所に古城表記が
あり東老蘇「ひがしおいそ」の東部に
古城と表記されておりこの古城が箕作
城なのか?石垣の残る小脇山「おわき」
山城なのか課題が残る古城表記である。
古図には「岩戸山」と、あるのだが?
『信長公記』永禄11年8月の条には
「佐々木父子三人楯籠られ侯観音寺、
並びに箕作山へ同十二日に、かけ上
させられ、佐久間右衛門、木下藤吉郎、
丹羽五郎左衛門、浅井新八に仰せ付け
られ、箕作山の城攻めさせられ」と
記されている。

▲佐和山城
図では当時現役の彦根城を赤く表現し
左に松原内湖が満々と湖水をたたえて
いる様子が描かれている。彦根から
鳥居本に至る佐和山切通し道も赤く
表現されている。そのかすか右に
小さく「古城」と表記されるのが
有名な佐和山城址である。湖水の便
は大洞弁済天が示す如く水陸の交通
の要である。信長が松原内湖で大船
を建造し長期間佐和山に滞在した事
も歴史上事実として、看過する事は
できない。まして彦根は徳川幕府の
政局の如何により大老職を出す徳川
最有力の譜代大名であった事である。

▲長浜城
琵琶湖の東北部の水辺に描かれた長浜
と古城の文字、これは間違いなく秀吉
由縁の長浜城の事であろう。着目すべ
き所は今津、西近江路や大津、京畿へ
の利便を計る寛保2年1742年当時の
物流や船旅の要所が長浜である事が
解る。これは明治においても東海道線
が米原に向かう事なく長浜港の船便と
結節していた事にも通相する。秀吉
さりとては者だ。この、湖畔の要衝に
築城し商邑を営み織田信長を補佐せん
と懸命に励んだ、太閤秀吉夢の跡だ。

▲小谷城
図には、赤線で当時の北国脇往還が
表現されて、小谷城は小谷山古城と
表記されている。小谷城は京極氏に
代り近江北部にその威を張った城だ。
浅井三代や浅井三姉妹の故郷であり
浅井氏の血流は現代の皇室にも継承
されており、大坂城の女主、淀殿や
江戸城の御台様の小江など歴史に名
を馳せてた数奇な運命を持つ家系だ。
今でも小谷全山に残るその物々しい
要害の痕跡は訪れる人を遥か元亀の
昔へと誘う名所旧跡となっている。

柴田勝家取手山とは?
▲玄蕃尾城「げんばお城」の事。
浅井長政と小谷城落城により離別
した織田信長の妹、お市はその顔色
容貌無双と謳われた美女だったと巷
では言われているが、彼女が三姉妹
を伴って再婚したのが、織田軍北国
方面総指揮官に相当する柴田勝家で
ある織田信長本能寺に倒れて秀吉と
勝家は、天下の覇権をかけて両者が
賎ケ岳に戦った事は、良く知られて
いる。しかし玄蕃尾歴史名称は内中
尾山城であり、古図では柴田勝家
取手山と表現されている。この城の
巨大さ勇壮さ壮観さは戦艦にたとえ
るなら戦艦大和。車に例えるならば
ロールスロイスに相当する超ド級の
城郭遺跡である。
▼長谷川博美 玄蕃尾城イラスト

この城にも放射状のビスタ線が
あった事でしよう。柴田勝家も
当然天下を意識してますから!




この城址を見て驚かない人
はいない!野球で160㌔の豪速球を
投げる人を見て側頭するような豪胆
さ緻密で高度な設計を用いて巧みに
築かれた、織豊系陣城遺跡としては
秀吉の石垣山城、秀吉の肥前名護屋
城など歴史的城郭遺跡に決して劣ら
ない堂々たる古城と言っても過言で
はないだろう!それにしても柴田
勝家!あの鋭敏な織田信長の筆頭
的な家臣として仕えていた人物で、
ただの豪胆だけでない非常に優秀
な頭脳の傑出した戦国武将と私は
感じるのだ!玄蕃尾城を訪れた人
はみな口々に言われる。柴田勝家
たいした人物だ!これだけの規模
の城郭を構えて賎ヶ岳の合戦に敗
るとは信じられない!その陣営の
跡は羽柴秀吉を遥かにしのぐ物だ
▼長谷川博美 早くから活躍する

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