浅井郡の範囲
旧浅井町の人(現長浜市)
先日長浜市の黒山石仏を見に
行きましたが、ここ黒山が長浜
市なんて、とても信じられない
違和感があるのです!浅井って
こんなに遠い所じやないと思う。
長谷川
長浜市黒山は歴然とした浅井
郡ですよ!近年までは西浅井町
でしたからね!それに寛保2年
1742年寛保2年の近江国明細図
には黒山が浅井郡の内と書かれ
ています。
私など歴史を研究している人
にとり現代行政区画ではなくて
黒山や西浅井は歴然たる浅井郡
なので研究を始める前に先ずは
黒山が浅井郡である事を前提、
認識、として歴史調査をする事
にしています。
彦根市の鳥居本も元来は
近江国坂田郡である事を、念頭に
入れて歴史調査や研究を進めない
と現代に作られた国道に近い便利
な古城ですと、時に観光案内同然
の歴史研究内様に陥る危惧もある。
500年前はそこには国道も鉄道も
無かった事を考慮する必要がある。
現代を生きる人々にとり観光とは
非常に大切な地域振興のカギを握る
重要な現代社会の題目でありますが
冷静な歴史研究にとっては300年前
400年500年前に、生きた人々の
交通史や物流史に、よりそった調査
研究を務めないと現代の山奥や山峡
に眠る巨大な城郭遺跡を現代人とは
見逃してしまう可能性が高いのです。
つまり真実の歴史の痕跡城郭遺跡を
見落としてしまう事は往々にある。
そのような山奥に大型城郭遺跡など
あるはずが無いと現代人は現代感覚
の集団錯誤、に陥りやすいのですが
大きな城址が残っている場合は400
年前の徒歩の時代に帰って調査する
事が時に大切な初歩の大切な事です。
そう言う意味で『続日本紀』天平宝字
6年に「大師の藤原恵美朝臣押(ふじ
わらのえみのあそんおし)勝(かつ)が
近江国浅井・高島二郡の 鉄穴を各
1カ所賜る」と言う記述は浅井や高島
にとり意味深い、ものがあります。
下図は浅井郡の東草野村に属した
甲津原、曲谷、吉槻、板並などの
現在の米原市に属する集落ですが
石田佐吉時代の石田三成も甲津原
を浅井郡と表記している事に注意
しなければなりません!
旧浅井町の人(現長浜市)
だって現代生活を営む私達にとり
浅井町とは、浅井町中心の事だと
思い込み、考えてしまいますよ!
長谷川
やはりそこには潜入観や固定概念
や歴史解釈の違いがありましょう。
近年脳神経細胞シナプスの役割が
解明されてきて人間とは学んだ事
が固定し定着すると言われてます。
初めて見た木製の人形を親と思い
着いて行く鴨「カモ」人間は日頃
学習し学んだ事固定概念から脱却
し難いと言われています。初めて
見たものを親と思う刷り込み現象
に気付いて冷静な社会観察が選挙
にしろ歴史調査にせよ必要不可欠
だと思われます。
そう意味において現代人の倫理観
や、道徳観の欠落は、会社や教育や
政治や経済の場において、その歪み
が露呈した現代と言えましょうか?
弱き者イジメて何の益があるのか?
また世界的視点から見て日本人の
真に優れた人がノーベル賞に有名
無名に関係なく顕彰され賞賛され
る事は冷静な社会観察によるもの
と時に私は静かに冷静に思います。
★時代は繰り返す
西浅井は市町村合併により長浜市
へと編入されましたが時代は繰り
返す!再度昔の広域なる浅井郡へ
と再び回帰編入したと考えるべき
でしょうか?人間とは長い歴史の
なかで、絶えず同じ事を繰返して
いるものかもしれません?
★人間の集団帰属本能の現実
ある米国の真理学者が2つの大学
のアメリカンフットボールの選手
のユニホームをそれぞれ交換して
試合をする心理実験を実施しまし
た。A大学の応援団や学生はA大
学の選手を必死に応援しましたB
大学の学生や応援団はB大学を
必死になり懸命になり白熱して
応援しました。勝利したのはA大
学でした。しかし勝利したA大学
のアメリカンフッボール選手が、
ヘルメットを取り去るとその顔は
全てB大の選手でした。この実験
は人間が自分の所属する帰属する
集団の人間自体を応援したのでは
なくユニホームに描かれた大学名
の幻想を必死になって応援してい
た事になります。さて人間の本心
とはその大学の選手を応援してい
たのでは無く、自分達の所属する
大学のイメージの世界を、必死に
熱狂し応援していた事になります。
ある人が長寿を保ち、久しぶりに
故郷を訪ねると自分の知った人が
全くいなくて、これは私の故郷で
は無いと落胆されました。人間と
は本当に、摩訶不思議な心理を持
つ全く不思議な生き物なのです。
旧浅井町の人(現長浜市)
先日長浜市の黒山石仏を見に
行きましたが、ここ黒山が長浜
市なんて、とても信じられない
違和感があるのです!浅井って
こんなに遠い所じやないと思う。
長谷川
長浜市黒山は歴然とした浅井
郡ですよ!近年までは西浅井町
でしたからね!それに寛保2年
1742年寛保2年の近江国明細図
には黒山が浅井郡の内と書かれ
ています。
私など歴史を研究している人
にとり現代行政区画ではなくて
黒山や西浅井は歴然たる浅井郡
なので研究を始める前に先ずは
黒山が浅井郡である事を前提、
認識、として歴史調査をする事
にしています。
彦根市の鳥居本も元来は
近江国坂田郡である事を、念頭に
入れて歴史調査や研究を進めない
と現代に作られた国道に近い便利
な古城ですと、時に観光案内同然
の歴史研究内様に陥る危惧もある。
500年前はそこには国道も鉄道も
無かった事を考慮する必要がある。
現代を生きる人々にとり観光とは
非常に大切な地域振興のカギを握る
重要な現代社会の題目でありますが
冷静な歴史研究にとっては300年前
400年500年前に、生きた人々の
交通史や物流史に、よりそった調査
研究を務めないと現代の山奥や山峡
に眠る巨大な城郭遺跡を現代人とは
見逃してしまう可能性が高いのです。
つまり真実の歴史の痕跡城郭遺跡を
見落としてしまう事は往々にある。
そのような山奥に大型城郭遺跡など
あるはずが無いと現代人は現代感覚
の集団錯誤、に陥りやすいのですが
大きな城址が残っている場合は400
年前の徒歩の時代に帰って調査する
事が時に大切な初歩の大切な事です。
そう言う意味で『続日本紀』天平宝字
6年に「大師の藤原恵美朝臣押(ふじ
わらのえみのあそんおし)勝(かつ)が
近江国浅井・高島二郡の 鉄穴を各
1カ所賜る」と言う記述は浅井や高島
にとり意味深い、ものがあります。
下図は浅井郡の東草野村に属した
甲津原、曲谷、吉槻、板並などの
現在の米原市に属する集落ですが
石田佐吉時代の石田三成も甲津原
を浅井郡と表記している事に注意
しなければなりません!
旧浅井町の人(現長浜市)
だって現代生活を営む私達にとり
浅井町とは、浅井町中心の事だと
思い込み、考えてしまいますよ!
長谷川
やはりそこには潜入観や固定概念
や歴史解釈の違いがありましょう。
近年脳神経細胞シナプスの役割が
解明されてきて人間とは学んだ事
が固定し定着すると言われてます。
初めて見た木製の人形を親と思い
着いて行く鴨「カモ」人間は日頃
学習し学んだ事固定概念から脱却
し難いと言われています。初めて
見たものを親と思う刷り込み現象
に気付いて冷静な社会観察が選挙
にしろ歴史調査にせよ必要不可欠
だと思われます。
そう意味において現代人の倫理観
や、道徳観の欠落は、会社や教育や
政治や経済の場において、その歪み
が露呈した現代と言えましょうか?
弱き者イジメて何の益があるのか?
また世界的視点から見て日本人の
真に優れた人がノーベル賞に有名
無名に関係なく顕彰され賞賛され
る事は冷静な社会観察によるもの
と時に私は静かに冷静に思います。
★時代は繰り返す
西浅井は市町村合併により長浜市
へと編入されましたが時代は繰り
返す!再度昔の広域なる浅井郡へ
と再び回帰編入したと考えるべき
でしょうか?人間とは長い歴史の
なかで、絶えず同じ事を繰返して
いるものかもしれません?
★人間の集団帰属本能の現実
ある米国の真理学者が2つの大学
のアメリカンフットボールの選手
のユニホームをそれぞれ交換して
試合をする心理実験を実施しまし
た。A大学の応援団や学生はA大
学の選手を必死に応援しましたB
大学の学生や応援団はB大学を
必死になり懸命になり白熱して
応援しました。勝利したのはA大
学でした。しかし勝利したA大学
のアメリカンフッボール選手が、
ヘルメットを取り去るとその顔は
全てB大の選手でした。この実験
は人間が自分の所属する帰属する
集団の人間自体を応援したのでは
なくユニホームに描かれた大学名
の幻想を必死になって応援してい
た事になります。さて人間の本心
とはその大学の選手を応援してい
たのでは無く、自分達の所属する
大学のイメージの世界を、必死に
熱狂し応援していた事になります。
ある人が長寿を保ち、久しぶりに
故郷を訪ねると自分の知った人が
全くいなくて、これは私の故郷で
は無いと落胆されました。人間と
は本当に、摩訶不思議な心理を持
つ全く不思議な生き物なのです。