長浜 古墳見学 最前線 衝撃!旭山古墳考
NPO法人自然と歴史ロマンの会
※① 参加費500円
※② 誰でも参加できる自由参加
※③ 会への勧誘無し
2019/10/4当日参集された主な講師陣
黒坂秀樹先生 元高月町埋蔵文化財課
丸山竜平先生 元名古屋女子大学教授
藤田守先生 元虎姫町教育委員長
田畑喜久弘先生 元多賀町議員
元滋賀民俗学会員
長谷川博美
元滋賀県中世城郭分布調査現地調査員
その他の方々
▼2019/10/4の古保利古墳 E支群資料
丸山竜平先生作
★旭山古墳全長33mの古墳形状に注目!
▼
▲なんとも魅力的な古墳研究最前線を思
わせる斬新な資料!
▲長浜市高月町周辺の古墳配置図 丸山
竜平先生作
▲姫塚古墳発掘実測図
元高月町文化財課 黒坂秀樹先生の
2019/10/4 解説要点
①発掘により前方後方墳である事が
判明した。
②後方部は正方形に近い墳丘
③古墳の側面に敷設された葺石は
後方部のみ存在。
④葺石の石材は余呉川より運ばれた
ものと判明した。
⑤墳丘は80m滋賀県最大級、周壕を
含めると100m以上。
▲全方後方墳としては
⑥葺石は基底部が人頭大 上層部
で拳こぶし大
⑦発掘時に古墳より東部から漆器
片らしき遺物
⑧周壕の前方部西面に陸橋、土橋」確認
▲姫塚古墳の後方部の前で解説される黒坂
秀樹先生。
▲メモをとられる丸山竜平先生
▲林間をぬって前方後円墳や前方後方墳を
解説される。
▲古保利古墳群のE支群で現地解説される
黒坂先生。
▲林道を草刈りして保全活動に奮闘される
会員さん。
▲林道の樹木にキツツキが穴をあけた枯木。
▲かなぶんが異常発生しており気候変動
の影響か?
▲古保利古墳より、眼下に余呉川と東柳野
を望む。そして遥に元伊香郡高月町東高田
の注目地名!『穴津』を望む。
★衝撃!旭山古墳考
『延喜式神名帳』の近江国浅井郡に片山の
社二座が記載されている。これは長浜市片山
が浅井郡であった事を証明する文献である。
2019/10/4長谷川は黒坂先生から衝撃的な
伝承を聞いた。この旭山「あさひやま」古墳は
延喜式に収録記載された、片山の神社の旧社
「もとみや」がかって古墳上に祀られていた
伝承が残っている事である!小字の旭山は
「浅井」を意味し浅井郡の片山神社が元は
ここに祀られいいた事に対し私は衝撃を受
けた。再度「旭山古墳」の墳丘部の周囲を
観察して見た。予想を覆す周庭なども観察
され「周堤」という意味ではない墓域」と
言う意味で。旭山古墳の領域は従来よりも
特異な形状も、併せて再考する必要もある!
古墳の名称とは小字「旭山」より冠された。
▼『延喜式神名帳』近江国浅井郡に収録記載
されている黒帯が片山の社二座。
これは「かたやま の やしろ ふたはしら」
と読む。
さてさて現在では長浜市片山町であるが
合併前は滋賀県伊香郡高月町片山だった。
寛保 2 年(1742 年)の近江国細見図
では現代のように伊香郡に片山が所属
している。▼
※以上は2019/10/4の記録
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
姫神の伝承と前方後方墳20190703の記録を追加
↓現地案内版より
2003年の調査では、
葺石の状況から周壕がめぐる全長78m~約
80mの滋賀最大級の前方後方墳である事が
確認されました。出土土器から、何と意外
にも、3世紀後半~4世紀前半の築造と推定
されている立派な前方後方墳です。
↓細長く低い前方部が大変に魅力で神秘的。
↓後方部の墳丘の裾部は円墳と間違えやすい
「地表」形状をしています。水田が曲がって
います。
後方部の現況として鋭く盛り上る高塚に
なっています。墳丘上には社殿の址と思
しき痕跡もあります。(旧売比田神社跡)
遠望すると古墳の形状が大変魅力的に見え
ます。如何にも古様の古墳の雰囲気を伝え
て魅力満点です。
平野部に築造された前方後方墳としては
滋賀県下最大の墳丘と言う事になります。
これには意外な驚きです!
★発想の転換①!高月大森山の前方後方墳
の紹介。
※大森古墳(山畑1号墳)
また前方後方墳が見学したくなった。旧
滋賀県伊香郡高月町松尾山の丘陵先端「大
森山切通の南」1号墳は尾根上に分布する
古墳群中唯一の前方後方墳で、全長62m、
2002年の調査で後方部から庄内土器が出土
し、三世紀前半の築造と見られ驚く。更に
また三世紀後半に後方部にさらに盛り土を
高くし、方形張り出し部を加え双方中円墳
の様相に作り替えられているらしい事が解
った。まさか?こんな身近な長浜市に卑弥呼
と同時代の特殊な墳丘がある事が驚きで近江
国伊香郡と言う地域の歴史的起源の古さに驚
く。古墳と延喜式神社は違う時代の遺跡な
のだが、往々にして集落においては祖先の塚
として遠い遠祖の神代の旧跡として解釈され
る場合もある。
↓大森古墳遠望 魅力的な古墳のたたずまいだ。
現地見学は城郭と同じ樹木のない冬期が最適!
★発想の転換②!更なる発想の転換。長浜市
高月町の東柳野へ神社探訪。
仕事も仲間もツテもいない私。よるべなき孤独
の身の私は東柳野を一人でに歩いた。神社が見
えてきたが石柱は明確に神社名が読めず見ずら
かった。
社殿に到着すると正確に読めた。売比田神社で
ある。ひめた神社と読むのだ。
売比田と書いて「ヒメタ」と読む事は正しく
古い。何故ならば延喜式の原典にも項註して
解説している。もちろん比売多と書くのも正
しい。現地神社はより古い神社名を用いたも
のだろう?もっとも売比田と書いて「ヒメタ」
と読む事に意味が深ように思われる。
しかし売比田神社の相殿「あいどの」の久留美
弥多神社「クルミタ」の名称には私は仰天して
驚く!
「近江・若狭・越前 寺院神社大事典」には
売比多神社 ヒメタ神社
東柳野「近江国伊香郡/現長浜市」の青柳に
鎮座する。祭神豊玉姫命。相殿に久留弥多神
「くるみたのかみ」を祀る。 「延喜式」神名帳
の伊香郡「比売多神社」
に、相殿「あいどの」は同じく「久留弥多神社」
に比定される。[中略]
相殿の久留弥多神は、唐川「旧近江国伊香郡高
月町」日吉神社境内の観音堂に安置する平安時代
作千手観音と菩薩像の足枘と像底に「久留弥多大
明神」「御本地」と墨書(製作時より後世のもの)
があり、両像が同神の本地仏であったことが知ら
れる。 もとは唐川に鎮座していたが、天正年中
(1573-92)兵乱に罹災し、売比多神社に合祀
されたと伝える。
赤後寺
湧出山の南麓に鎮座する日吉神社の境内にあった
寺で、現在は観音堂が残る。 行基の草創と伝え、
最澄が聖観音像を納めたという。[中略]堂内に
安置する木造千手観音立像・木造菩薩立像は平安時
代の作で、国指定重要文化財。 両像に「久留弥多
大明神」「御本地」の墨書があり、式内社久留弥多
神社の本地仏であったことが知られ、日吉神社
を式内社に比定する説もある。
※さてさてややこしい 「御本地垂迹」ほんちすい
じやく説が登場して頭がシビレルのだが?この久留
弥多大明神が変化してやがて「ころり弥陀」と解釈
されコロリカンノンへと解釈されたのであろうか?
「微笑」
★発想の転換③!ころり転んで振りの出しの姫塚へ
戻る滋賀県神社庁の資料によると※は長谷川解説
【延喜式神名帳】比売多神社 近江国 伊香郡鎮座
(旧地)売比多神社旧地
(合祀)久留弥多神社 ※A合祀とは併せて祀ると
言う意味。
【現社名】売比多神社
【住所】滋賀県長浜市高月町東柳野1192
北緯35度28分17秒,東経136度12分50秒
【祭神】莵上壬命 (合祀)豊玉姫命 久留彌多神
【例祭】4月2日 例祭
【社格】旧村社
【由緒】由緒不詳
もとは姫塚古墳の地に鎮座※B比売多神社は
元来姫塚古墳に鎮座していた。
応永年中現地へ遷
明治9年2月村社
【関係氏族】比売陀君
【鎮座地】当初鎮座の地は姫塚古墳(前方後円墳)
が応永年中に現在の地に
【祭祀対象】氏祖
【祭祀】
【社殿】本殿銅板葺仏堂形式
拝殿・鐘楼
【境内社】
現社地の東南方に「へい塚」とも云う姫塚古墳が
あり、ここが旧社地であったとされる。
相殿に久留彌多神を祀る。※C 姫塚古墳は
「へい塚」とも呼ばれていたこれは御幣の事であろう。
賣比多神社
伝によれば古事記に記すところの比売多君の氏族の
本源の地でその祖神を祀り且つその墳塋を遺した
ものであると伝える。延喜式内社。
滋賀県神社庁
芭蕉句碑
正風宗師
八九間そらて雨ふる柳かな
『続猿蓑』(沾圃編)巻頭の句である。
正風宗師とは松尾芭蕉のことで、この句は元禄7年
(1694年)芭蕉最晩年の春の句といわれる。
芭蕉は同年10月12日大阪で没した。
この句は柳が春雨に煙る情景を見て詠んだ句と言わ
れている。
しとしと降る春雨が八九間の空から柳の糸を伝わっ
てしたたるその雫を「空で雨ふる」と表現している。
八九間は陶淵明の漢詩から引用したもので、八間ない
し九間の意味である。(一間は六尺=1.8m)
社頭掲示板より
NPO法人自然と歴史ロマンの会
※① 参加費500円
※② 誰でも参加できる自由参加
※③ 会への勧誘無し
2019/10/4当日参集された主な講師陣
黒坂秀樹先生 元高月町埋蔵文化財課
丸山竜平先生 元名古屋女子大学教授
藤田守先生 元虎姫町教育委員長
田畑喜久弘先生 元多賀町議員
元滋賀民俗学会員
長谷川博美
元滋賀県中世城郭分布調査現地調査員
その他の方々
▼2019/10/4の古保利古墳 E支群資料
丸山竜平先生作
★旭山古墳全長33mの古墳形状に注目!
▼
▲なんとも魅力的な古墳研究最前線を思
わせる斬新な資料!
▲長浜市高月町周辺の古墳配置図 丸山
竜平先生作
▲姫塚古墳発掘実測図
元高月町文化財課 黒坂秀樹先生の
2019/10/4 解説要点
①発掘により前方後方墳である事が
判明した。
②後方部は正方形に近い墳丘
③古墳の側面に敷設された葺石は
後方部のみ存在。
④葺石の石材は余呉川より運ばれた
ものと判明した。
⑤墳丘は80m滋賀県最大級、周壕を
含めると100m以上。
▲全方後方墳としては
⑥葺石は基底部が人頭大 上層部
で拳こぶし大
⑦発掘時に古墳より東部から漆器
片らしき遺物
⑧周壕の前方部西面に陸橋、土橋」確認
▲姫塚古墳の後方部の前で解説される黒坂
秀樹先生。
▲メモをとられる丸山竜平先生
▲林間をぬって前方後円墳や前方後方墳を
解説される。
▲古保利古墳群のE支群で現地解説される
黒坂先生。
▲林道を草刈りして保全活動に奮闘される
会員さん。
▲林道の樹木にキツツキが穴をあけた枯木。
▲かなぶんが異常発生しており気候変動
の影響か?
▲古保利古墳より、眼下に余呉川と東柳野
を望む。そして遥に元伊香郡高月町東高田
の注目地名!『穴津』を望む。
★衝撃!旭山古墳考
『延喜式神名帳』の近江国浅井郡に片山の
社二座が記載されている。これは長浜市片山
が浅井郡であった事を証明する文献である。
2019/10/4長谷川は黒坂先生から衝撃的な
伝承を聞いた。この旭山「あさひやま」古墳は
延喜式に収録記載された、片山の神社の旧社
「もとみや」がかって古墳上に祀られていた
伝承が残っている事である!小字の旭山は
「浅井」を意味し浅井郡の片山神社が元は
ここに祀られいいた事に対し私は衝撃を受
けた。再度「旭山古墳」の墳丘部の周囲を
観察して見た。予想を覆す周庭なども観察
され「周堤」という意味ではない墓域」と
言う意味で。旭山古墳の領域は従来よりも
特異な形状も、併せて再考する必要もある!
古墳の名称とは小字「旭山」より冠された。
▼『延喜式神名帳』近江国浅井郡に収録記載
されている黒帯が片山の社二座。
これは「かたやま の やしろ ふたはしら」
と読む。
さてさて現在では長浜市片山町であるが
合併前は滋賀県伊香郡高月町片山だった。
寛保 2 年(1742 年)の近江国細見図
では現代のように伊香郡に片山が所属
している。▼
※以上は2019/10/4の記録
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姫神の伝承と前方後方墳20190703の記録を追加
↓現地案内版より
2003年の調査では、
葺石の状況から周壕がめぐる全長78m~約
80mの滋賀最大級の前方後方墳である事が
確認されました。出土土器から、何と意外
にも、3世紀後半~4世紀前半の築造と推定
されている立派な前方後方墳です。
↓細長く低い前方部が大変に魅力で神秘的。
↓後方部の墳丘の裾部は円墳と間違えやすい
「地表」形状をしています。水田が曲がって
います。
後方部の現況として鋭く盛り上る高塚に
なっています。墳丘上には社殿の址と思
しき痕跡もあります。(旧売比田神社跡)
遠望すると古墳の形状が大変魅力的に見え
ます。如何にも古様の古墳の雰囲気を伝え
て魅力満点です。
平野部に築造された前方後方墳としては
滋賀県下最大の墳丘と言う事になります。
これには意外な驚きです!
★発想の転換①!高月大森山の前方後方墳
の紹介。
※大森古墳(山畑1号墳)
また前方後方墳が見学したくなった。旧
滋賀県伊香郡高月町松尾山の丘陵先端「大
森山切通の南」1号墳は尾根上に分布する
古墳群中唯一の前方後方墳で、全長62m、
2002年の調査で後方部から庄内土器が出土
し、三世紀前半の築造と見られ驚く。更に
また三世紀後半に後方部にさらに盛り土を
高くし、方形張り出し部を加え双方中円墳
の様相に作り替えられているらしい事が解
った。まさか?こんな身近な長浜市に卑弥呼
と同時代の特殊な墳丘がある事が驚きで近江
国伊香郡と言う地域の歴史的起源の古さに驚
く。古墳と延喜式神社は違う時代の遺跡な
のだが、往々にして集落においては祖先の塚
として遠い遠祖の神代の旧跡として解釈され
る場合もある。
↓大森古墳遠望 魅力的な古墳のたたずまいだ。
現地見学は城郭と同じ樹木のない冬期が最適!
★発想の転換②!更なる発想の転換。長浜市
高月町の東柳野へ神社探訪。
仕事も仲間もツテもいない私。よるべなき孤独
の身の私は東柳野を一人でに歩いた。神社が見
えてきたが石柱は明確に神社名が読めず見ずら
かった。
社殿に到着すると正確に読めた。売比田神社で
ある。ひめた神社と読むのだ。
売比田と書いて「ヒメタ」と読む事は正しく
古い。何故ならば延喜式の原典にも項註して
解説している。もちろん比売多と書くのも正
しい。現地神社はより古い神社名を用いたも
のだろう?もっとも売比田と書いて「ヒメタ」
と読む事に意味が深ように思われる。
しかし売比田神社の相殿「あいどの」の久留美
弥多神社「クルミタ」の名称には私は仰天して
驚く!
「近江・若狭・越前 寺院神社大事典」には
売比多神社 ヒメタ神社
東柳野「近江国伊香郡/現長浜市」の青柳に
鎮座する。祭神豊玉姫命。相殿に久留弥多神
「くるみたのかみ」を祀る。 「延喜式」神名帳
の伊香郡「比売多神社」
に、相殿「あいどの」は同じく「久留弥多神社」
に比定される。[中略]
相殿の久留弥多神は、唐川「旧近江国伊香郡高
月町」日吉神社境内の観音堂に安置する平安時代
作千手観音と菩薩像の足枘と像底に「久留弥多大
明神」「御本地」と墨書(製作時より後世のもの)
があり、両像が同神の本地仏であったことが知ら
れる。 もとは唐川に鎮座していたが、天正年中
(1573-92)兵乱に罹災し、売比多神社に合祀
されたと伝える。
赤後寺
湧出山の南麓に鎮座する日吉神社の境内にあった
寺で、現在は観音堂が残る。 行基の草創と伝え、
最澄が聖観音像を納めたという。[中略]堂内に
安置する木造千手観音立像・木造菩薩立像は平安時
代の作で、国指定重要文化財。 両像に「久留弥多
大明神」「御本地」の墨書があり、式内社久留弥多
神社の本地仏であったことが知られ、日吉神社
を式内社に比定する説もある。
※さてさてややこしい 「御本地垂迹」ほんちすい
じやく説が登場して頭がシビレルのだが?この久留
弥多大明神が変化してやがて「ころり弥陀」と解釈
されコロリカンノンへと解釈されたのであろうか?
「微笑」
★発想の転換③!ころり転んで振りの出しの姫塚へ
戻る滋賀県神社庁の資料によると※は長谷川解説
【延喜式神名帳】比売多神社 近江国 伊香郡鎮座
(旧地)売比多神社旧地
(合祀)久留弥多神社 ※A合祀とは併せて祀ると
言う意味。
【現社名】売比多神社
【住所】滋賀県長浜市高月町東柳野1192
北緯35度28分17秒,東経136度12分50秒
【祭神】莵上壬命 (合祀)豊玉姫命 久留彌多神
【例祭】4月2日 例祭
【社格】旧村社
【由緒】由緒不詳
もとは姫塚古墳の地に鎮座※B比売多神社は
元来姫塚古墳に鎮座していた。
応永年中現地へ遷
明治9年2月村社
【関係氏族】比売陀君
【鎮座地】当初鎮座の地は姫塚古墳(前方後円墳)
が応永年中に現在の地に
【祭祀対象】氏祖
【祭祀】
【社殿】本殿銅板葺仏堂形式
拝殿・鐘楼
【境内社】
現社地の東南方に「へい塚」とも云う姫塚古墳が
あり、ここが旧社地であったとされる。
相殿に久留彌多神を祀る。※C 姫塚古墳は
「へい塚」とも呼ばれていたこれは御幣の事であろう。
賣比多神社
伝によれば古事記に記すところの比売多君の氏族の
本源の地でその祖神を祀り且つその墳塋を遺した
ものであると伝える。延喜式内社。
滋賀県神社庁
芭蕉句碑
正風宗師
八九間そらて雨ふる柳かな
『続猿蓑』(沾圃編)巻頭の句である。
正風宗師とは松尾芭蕉のことで、この句は元禄7年
(1694年)芭蕉最晩年の春の句といわれる。
芭蕉は同年10月12日大阪で没した。
この句は柳が春雨に煙る情景を見て詠んだ句と言わ
れている。
しとしと降る春雨が八九間の空から柳の糸を伝わっ
てしたたるその雫を「空で雨ふる」と表現している。
八九間は陶淵明の漢詩から引用したもので、八間ない
し九間の意味である。(一間は六尺=1.8m)
社頭掲示板より