城郭 長谷川博美 基本記録

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余呉 丹波 天神 消えた謎の集落 丹波

2019-10-22 15:26:33 | 民俗学
余呉 丹波 天神 消えた謎の集落 丹波
この記事のおおすめ度
五段階で★★★★★星5

私は滋賀県伊香郡余呉町「現長浜市」
の産である。昔より余呉に丹波と言う
幻の集落が存在した事は現在の余呉で
は、もう既に忘れられた事であろう。

私は、ことある事に丹波なる幻の集落
の事を考えている、風変りな人間でも
ある。人とは時に、遠い故郷や、遠い
祖先の地やその世界を思うものである。

歴史探偵が、幻想に浸っている、場合
ではない。早速『角川地名辞典』25の
滋賀県を紐解いて丹波地名を検索して
みる事にする。

やった!早速、上記書物の川並と八戸
の小字地名の中央に川並の小字「里の
内」の孫字地名に「丹波」が登場して
ドキドキ、として来るのである。しか
しこの小字、孫字名だけでは心持たな
ない、幻想ではなく現実の証拠の一端
を発見したいと長年苦労に苦労を重ね
た。歴史探偵研究家とは10年20年30年
と物事にこだわり究明して行く地道さ
が要求される。誰かが記した書物を丸
写して公衆の面前で会話するなら今朝
来た新聞や図書館の本を丸写して話せ
ばそれでよい事、それまでの事だろう。


さて余呉に何故?丹波地名が存在した
のか?全く良質の文献資料に恵まれな
い場合には、伝説や伝承を参考に類推
するしかない場合もある。余呉町内に
は川並や、中之郷や、文室やに天神社
かぜ存在し国安に天神前なる小字があ
る事に留意したい。所謂、近江天満宮
に代表される余呉庄の天神伝承つまり
菅原道真伝承に因む起因するものと私
は、推定している。

私は余呉町でも片岡学区に生れたので
国安の草岡神社がなっかしく感じる。

天神山「天正11年1583年当時」
草岡神社裏山が天神山。道を挟んで東側
が茶臼山で共に賎ヶ岳合戦当時秀吉が
山路正国らに命じ砦を築かせたが、
目前の行市山に佐久間盛政が陣を築
いたので山路正国らは堂木山の線まで
砦を退いた。

『平成祭データ』に収録された
草岡神社『社前案内板』には以下の
如く記録されている。
由緒
 天照大御神の御旨のまにまに、神籬
の神勅、天壌の神勅を相議りて御授け
になり、すべて生命ある万有を生成化
育することを御導きになりました。また
、むすび(産霊)の御霊力を祟びまつり
、背後の山を産霊山と申し、あまつかみ
(天神)と申し上げた。つぎに、国造
本紀に「淡海の国造は日子坐王命」とあり
、姓民録には「開化天皇第三王子彦坐王命」
とあり、丹波国より淡海国造となられ
余呉の庄の荒廃したるを御覧になり、
当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり
御神徳を讃え、当社に奉祀御祖神として
あまねく祟敬せらる。

今に尚五ケ郷の一宮的存在であるのも
故あることなり。住昔、神功皇后敦賀街道
御通行の御時、武内宿禰御参詣奉尊され、
それよりますます北国街道御通過の折には
官民祈願多くなれり。又今から千余年前、
村上天皇天暦元年御神威御真徳のあやかり、
浦安の国(郷)でありますよう菅原道真公
を奉齊することになって、「天満天神」と
よび祟拝されるようになれり。明治三年五月
、旧領主飯野藩の命で昔の通り「草岡神社」
とよぶようになり今市(村)に遥拝地として
弐畝拾七歩賜わる。明治九年(一八七六年)
十月村社、同十七年(一九〇八年)四月
二十九日郷社、並幣帛供進社として指定される。

とあるのだ。
この伝説の中で私が着目した部分は
姓民録には「開化天皇第三王子彦坐王命」
とあり、丹波国より淡海国造となられ
余呉の庄の荒廃したるを御覧になり、
当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり」
とある事だ。これは伝承とは言え余呉の丹波
地名を考える上で重要な事ではないだろうか?

さらに謎と幻に満ちた余呉庄の丹波の集落は
時代を限定できる資料の中に登場しないだろ
か?もし登場したならぱ絵空事ではない現実
で丹波が余呉に存在した証明になろう!そう
すれば余呉の丹波研究も進捗をみるというも
のではないだろうか?歴史探偵の推理如何に、
進展進捗するのであろうか?では近江の国の
文献資料とも言える
『近江国細見図』を検討したい。



この資料は寛保2年9月に製作されたも
のだ。つまり1742年(寛保2年)の資料
である。現在2019年だから単純計算して
277年前に丹波と言う集落が余呉に存在し



た事になる?伝説や幻から、姿を表わす
丹波の姿を見れば、歴史フアンはぞくぞく
する事であろう。では早速寛保2年1749年
の『近江国細見図』の丹波を紹介しよう。


あるある丹波が記入されている。それも余呉
湖畔に川並の近くに明確に「丹波」が記され
ている。間違いない。幻の余呉の集落丹波は
今から277年前には実在していたのだ。余呉
湖の北岸には天神社と記さている、これも謎
の神社が書き込まれている。

私はこの天神社の伝説を余呉中之郷で聞いた
事がある、現在中之郷西部の山麓に鎮座する
遠い大昔には、西天神神社が余呉湖畔に存在
したと聞いた事があるのだ。私はこの西天神
を奉斎していた坂本西三郎の外孫に相当する。
毎日自宅神棚に、西天神の御神体である菅原
道真の写真を神棚に安置して、軽く礼拝する
習慣が私にはある。とにもかくにも、西天神
御神体の尊像がこれである。願わくば官公、
右大臣菅原道真公、私に学運隆昌の御加護
を、垂れたまえと、謹んで祈念しています。

追記
古来の地名考では余呉町の丹生地名などは
珠丹を、採掘した場所と解説される場合も
ある、また丹波地名も珠丹採取した場所と
解説される場合がある。丹波は「たには」
と解説されている。余呉には菊石姫伝説、
夜泣き石伝説、新羅崎地名、アメノヒボコ
伝説など製鉄関連の地名と関連があろうと
思われる伝説が多い。余呉町中之郷に所在
する、延喜式神社『鉛練彦神社』なども
エレヒコや「エレノミヤ」などと昔呼ばれ
たも伝わっている。

与胡郷 伊香郡 8C 古老伝曰、
近江国伊香郡与胡郷、伊香小江在郷南也。
天之八女、倶為白鳥、自天而降。
近江国風土記逸文
岩波『風土記』
コメント (1)
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