城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

どうする家康 水野信元 刈谷城

2023-01-31 21:30:24 | 東海の城 ビイスタ工法

どうする家康 水野信元 刈谷城

◆質問者

長谷川先生の城郭解説を聞いてる

ものです。三河刈谷城を見ている

と1の城塀が切れています。

 2の城塀が切れています。

 3の枡形虎口があります。

 4の枡形虎口があります。

 5の食違虎口があります。

 この12345は何なんです?

◆反論者

 そんな阿呆な質問何の意味

 がある長谷川風情が何だ!

◆長谷川

その通りですね!私は著書0

肩書0ブログ読者も0に近い

日本一無名城郭研究家です。

1日の読者様が20名様を超え

る事はブログ開設以来ありま

せんブログ上手く使えない。

 

◆質問者

12345は何なのですか?是非

解答をお願いしたいのです!

 

◆長谷川

ああ城やってる人ならば誰も

が知っている城郭ビイスタの

基本線この基本線を基順に城

とはビイスタ縄張されてます。

◆対談者

この様に扇型にビイスタ縄張

知ってる事は城をやってる人

は誰でも知っている事ですよ

この質問に答えられない人は

城郭案内や城郭解講師は無理!

▼刈谷城 ビイスタ工法

◆長谷川

ハイこの様に刈谷城はビイスタ

工法で縄張された城なのです。

質問者された方は初心者様な

のです。ここが一番重要な事

 

◆一般者

大河ドラマ どうする家康では

では水野信元の家康に対した時

態度がデカイように感じました。

 

◆対談者

松平元康「家康」の叔父に相当

する大名級の武将だからですよ。

 

◆名古屋人

私はNHk名古屋文化センターで

長谷川先生の『信長公記』長く

学びました先生の様々な雑学と

有職故実の豊富な知識で素晴ら

しい連続講座だったのですよ!

 

◆滋賀近江人

近江公民館で開催された講座

『城歩会』開催『信長公記』

講座大好評で講座満員でした。

◆名古屋人

長谷川先生から学んだ『信長公記』

では天正八年1585年8月20日の条に

「小河かり屋」として登場した

城は現在一般には刈谷城とに認識

されていますね?

 

◆対談者

刈谷市の刈谷城の解説する為に

長谷川先生に簡単解説を願い。

▼三河刈谷城簡略解説図

◆長谷川

私は普段古城を見学される人々

にはこの様な城郭の細部を見学

される様に常に推進させて頂い

て県外遠方から御参集の皆様に

深く感謝を改めて申し述べます。

令和2年1月21日佐和山城見学会

◆対談者

時代は動いています。時間は

むなしく流れさりて昭和平成

は遠い昔の過去になってます

先ず先生から北近江浅井備前

守長政小谷城に城郭ビイスタ

工法が存在すると長谷川先生

の講座で説明を受けて電撃的

なカルチヤーショツクを私は

受けました令和の城郭世界に!

◆愛知人

私も行き慣れた犬山城に城郭

ビイスタがある事をブログで

初めて知り城の見方考え方が

大きく昭和平成との流れとは

異なってきてる令和の城郭観

と言えるかなと私は思います!

◆対談者

その新しい時代に相応しい令和

城郭理論として長谷川先生動画

『城郭ビイスタ』動画が着実に

動画視聴数が何と5000回突破!

◆反論者

イカン、イカン令和のビイスタ

動画など絶対見てはならん正当

城郭学ぶ者はワシに付いて来い!

第一愛知県刈谷の城にビイスタ

工法など絶対に存在する訳無い!

 

◆刈谷市民様

長谷川先生!ウチの町の城跡の

刈谷城は一流の城なのですか?

 

◆長谷川

刈谷城見事なクサビ型ビイスタ

工法を基調にして本城、二ノ郭

そして馬出を配置しております。

典型的なビイスタ工法の城です。

刈谷城一流の城と言える城郭!

◆みんな

すげえ!城郭ビイスタ論って

令和の城郭大理論なんだよ!

私達長谷川先生を発見した人

◆対談者

さてさて刈谷城の水野信元

信長に属した人物ですよね。

▼近江安土城ビイスタ

◆長谷川

信長の安土城にも太閤秀吉と

なった肥前名護屋城も扇型の

ビイスタで設計されています。

肥前名護屋城ビイスタ

 

◆愛知人

愛知刈谷城に扇型ビイスタ工法

が存在するのでしょうか?何か

ワクワクする歴史探偵物物読ん

でいるようで長谷川先生は城郭

金田一耕助先生と言う人もいる。

 

◆長谷川

クサビ型を拡張して扇型ビイスタ

へと進展した様子が読み取れます。

◆長谷川

この青腺の扇型ビイスタを観察

して下さい。城郭の各要所通過

しています。縄張の事を経始と

言うのですが正に扇型縄張です。

 

 

◆対談者

松平徳川系の城にはWビイスタ

の存在を指摘されてますが存在

致しますか?

 

◆長谷川

解説が解りにくくなるので赤腺

で扇型ビイスタを図示致します。

従い青腺と赤線が重複形態する

Wビイスタ工法と言えましょう。

▼刈谷城 Wビイスタ工法 複合型にも近い

◆みんな

これだ!これこそが!

令和の新城郭研究論だ!

城郭ビイスタ論知らず

して今後城郭語れない!

▼浜松城のビイスタ工法

▼徳川家康 初期江戸城 タブルビイスタ工法

▼徳川家 江戸城 タブルビイスタ工法

 

▼徳川家康 鳥羽山城重複ビイスタ

 

 

 

 

以下ウイッキペデイアより引用参照

刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷、現在の

愛知県刈谷市にあった日本の城。正しくは「刈屋城」で

あるが、刈谷市が1950年昭和25年)4月以降に市制

施行してから「刈谷」と表記されるようになった。

刈谷城[編集]

現在の刈谷市城町1丁目にあった城。別名「亀城」と呼

ばれる。以下は、この「刈谷城」に関する記述である。

城の構造[編集]

衣ヶ浦(ころもがうら、三河知多半島の間に位置する

入江)の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸

帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて

二の丸三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれて

いた。天守はなかったが、北西と南東に隅櫓があり、

周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には

内堀馬出しが設けられていた。

歴史[編集]

天文2年(1533年水野忠政により築城。築城後忠政は

本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康の生母

於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。於大は

父忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田氏につい

た(織水同盟)ため松平氏を離縁された後も刈谷城近く

椎の木屋敷久松氏に再嫁するまでの日を過ごしている。

三河物語』によると、桶狭間の合戦の項目で「

小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助

(道忠)ヲ使にコサせラレテ」との記述があり、桶狭間

の合戦当時、水野信元は緒川城もしくはその周辺を守備

していたか、あるいは日和見をしていたものと考えられる。

また、『三河物語』の三河一向一揆の項目では、水野下野守

(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に

御越有。」と記述がある。なお、刈谷は、当初は「谷」では

なく「屋」を当てられていた。『三河物語』においても「屋」

を当てられている。また、『信長公記』の天正8年(1580年

8月20日の項目においても「小河かり屋」と「屋」が当てられ

ている。その他にも、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信

今川氏真判物に「苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、

数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられ

ている。従来、鳴海城から引き上げる途中の岡部元信により城主

水野信近は討ち取られ、城は落城したと解釈されてきたが、

この判物には城に火を放ったとは書かれているものの攻め落とし

たとは書かれていないため、岡部隊は味方の支援を得られなかっ

たために落城させられずに駿河に戻ったとするのが近年の説である[1][2]

水野信元は天正3年(1575年佐久間信盛の讒にあい、信長から

武田方への内通を疑われ、命を受けた家康に殺害されるという

非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の領有となる。後に信盛

は信長に追放され、信元の末弟忠重が城主となって水野氏の領有

に復した。忠重、勝成忠清と5代百年の水野氏の居城を経て、

寛永9年(1632年)に深溝松平家入城、その後久松松平家

1649年)、稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、

本多氏(忠勝系、1710年)、三浦氏3代(1712年)と頻繁に

城主の交代があった(城主の詳細については刈谷藩を参照)。

永享4年(1747年)より土井氏が入封し9代の支配の後、

明治4年(1871年)の廃藩を迎え、城は破却された。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まいはら ながはま おうみ 『歩記』あるき

2023-01-31 18:38:18 | 日記

まいはら ながはま おうみ 『歩記』あるき

◆おうみ

米原市立近江図書館に行

ました。非常にポップで

色鮮やかなカンカン蒐集

展示を見られ感激でした。

カンカンにはビートルズやジミ

ヘンドリクスも登場し遠い昭和

の昔が偲ばれ懐古的な気分です。

何かAМラジオから流れる音楽。

 

◆まいはら

滋賀県東近江市では零下12.3度

を記録したと聞き及びましたが

これは滋賀県の冬の気温でなく

シベリアの気温かと思いました

まいはらを散歩していると氷が

長くぶら下がっていて驚きです。

しかし特に例年より寒いと私は

個人的に感じておりませんが?

◆おうみ

近江図書館で横尾忠則氏の

画集を鑑賞致しました。Y

字路と言う作品に深く感銘

と哀愁を強く受けました。

◆ながはま

私は意味も無く長浜を歩いて

いました。突然 私の眼前に

Y路路が現れて初めて通る道

なのにもう何百年も昔に通過

したような一種のデイジャブ

感覚を味わいました。右に行

こうか左に行こうか、分岐点

からは右の町も左の町も望ま

る。何とも不思議な景観です

なんかとても不思議な気分

分岐点に私は到着して何やら

不思議な道標が残されていた

はいこれは北国街道の道標

だったのです。私は左に道

を取り下坂田氏「下坂館」

の方に向いました。土塁が

見えて来ました下坂屋敷は

交通の要衝に城館が営まれ

た地理的要因が解りました。

◆対談者

安土城伝前田利家邸宅跡もビイスタ

佐和山城の二の丸城もビイスタ

長浜の三田村城もビイスタ

◆対談者

菅浦には現在惣村を護る為

の要害の門として西門と東

門が残されておりますさて

菅浦に『菅浦文書』が残り

戦いも存在いたしました。

また舟入跡も二か所存在

したので菅浦には湖から

攻撃されても応戦出来る

戦う惣村しての陣形と

とてのビイスタ工法施さ

れた可能性はゼロですか?

 

◆長谷川

菅浦は明治六年の地図では

2カ所の舟入が確認できます

舟入とは菅浦の湖の玄関に

も相当致します。赤い色の

集落域や二か所の舟入また

東西の要害門を考え併せる

菅浦もビイスタ工法の集落

と言う事になると思います。

▼近江菅浦のビイスタ

◆長谷川

菅の人々の信仰の中枢となって

いる湖ビイスタは黄色腺だと思

ます。

▼日本最大の惣村にして貿易港の堺の海ビイスタ

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする