旧石器文化発見と城郭幾何学論発見の社会学
◆対談者
私は長谷川先生を個人的には
尊崇をしてはいません、むしろ
一般社会生活されている平凡
な一般人として認識してます。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論と
は図書館に行っても発見出来
ません。その段階で私は先生の
城郭幾何学理論、ビイスタ理論
は全く登場しておらず。失礼で
すが私長谷川先生を幻想家や
フアンタジストやドリマー夢想家
のレッテルを貼り付けてました。
でも天下人信長、秀吉、家康
の居城を幾何学的考察すると
の城郭ビイスタ論は正論である
しかも正論を補足するビイスタ
工法の城郭が日本の各地から
次次に登場し正直私は驚いた!
▼織田信長 近江安土城
▼豊臣秀吉 肥前名護屋城ビイスタ
▼徳川家康 武蔵江戸城 ビイスタ
◆対談者
世の中「出るクギは打たれる」の諺
どうりです。先生の講演や見学会を
妨害阻止する人が後を絶ちません!
それは被害妄想ではなく現実です!
①同調圧力に注意する。
同調圧力(どうちょうあつりょく 英: Peer
pressure、ピア・プレッシャー)とは
を行う際に、少数意見を有する者に対して、
暗黙のうちに多数意見に合わせるように
誘導することを指す[要出典]。
②集団心理の発生の場に注意する。
人間は集団になると冷静さを失ったり、
罪悪感が薄れてしまうことでイジメや
嫌がらせのような道徳的に許されない
行為を平気行ってしまうことがあります。
③牽制発言に注意する。
相手の注意を自分の方に引きつけ
自由に行動できないようにす発言。
④勧誘行動や言葉には注意する。
勧誘や導員は常に行われている。
⑤自己価値観の再認識
自分とは何をしたい人間なのか?
絶えず冷静に自己を見つめ直す。
◆助言者
長谷川さんの城郭ビイスタ論とは
類稀な卓越論です。城に関する
書籍は多数巷間で販売されてお
り著書や理解者や支持者を全く
持たない長谷川さんは言われなき
集団心理を持っ人々の誤解によ
れ被害者になる事もあり社会的
な問題も内包している重大事項
です。どうか民間レベルにおいて
自由で創造的な学問的新分野が
進捗する事を祈ります。有志の方
が長谷川さんの学問の重さに気が
つかれ建設的で前向きな学術が
発展顕彰される事を慎んみ祈念
いたします。
▼讃岐高松城ビイスタ工法
▼近江小谷城ビイスタ工法
◆助言者
長谷川先生の講演や見学会への
妨害行為を本人をカメラで撮影し
ブログで顔を晒せば迷惑防止に!
◆一般者
かって日本には旧石器文化など
存在しないと考えられていました
が納豆を行商する相沢忠洋さん
が旧石器を発見し大変話題に!
しかし民間研究家の功績を妬む
人々は必ず社会に存在します!
◆ウイッキペデイアより
相沢忠洋さんを引用すると
しかし、当時この重大な発見に
ついて、学界や報道では相沢の
存在はほとんど無視された。
相沢に対して学界の一部や地元住民
から売名・詐欺師など、事実に反する
誹謗・中傷が加えられた。この頃の
郷土史界は地元の富裕層(大地主、
大商人、庄屋などいわゆる旦那衆)
や知識層(教員、医師、役人など)
などで構成されており、岩宿遺跡の
存在する北関東も例外ではなかった。
このため、これといった学歴も財産も
有しない相沢の功績をねたみ、
「行商人風情が」などと蔑視し、
彼の功績を否定する向きもあったという。
◆社会学者
そりや既得学術研究家つまりは
既存研究研究家は自らの学究
研究家立場を守る為には無視
する事「シカト」する事が人間の
集団心理の根本心理と言える。
◆一般者
城郭ビイスタ論動画とはそんな
にスゴイ内容を含む重要動画?
◆反論者
動画を絶対に見ないで下さい!
私は50年も城を研究して来たの
に城郭測量の基礎の基本だとも
言える城郭ビイスタ論を知らなか
つたと事になる。つまり私は学術
家とは名ばかり、凡人先生だった
事になってしまう。その様な自らの
凡庸さを世間一般には認知しては
もらいたくはない。どうぞお願いで
すから城郭ビイスタ動画見ないで!
◆長谷川
さて大変に困った社会問題です!
私は先人を批判する気は全くない
▼大友宗麟の臼杵城もビイスタ工法
◆長谷川
日本の城の測量の基本はこれです。
▼天正大坂城もビイスタ工法
▼秀吉の小田原の役の石垣山城もビイスタ
▼柴田勝家の玄番尾城もビイスタ
▼土佐の高知城もビイスタ
▼福井城もビイスタ
▼福岡城もビイスタ
▼備前岡山城もビイスタ
▼丹波亀岡城もビイスタ
ウイッキペデイアより引用
相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、相澤 忠洋、1926年
〈大正15年〉6月21日 - 1989年〈平成元年〉5月22日)
の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、
それまで否定されてきた日本列島の旧石器時代の
存在を証明した[1]。
1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は
縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定
されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代
は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなか
ったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見
が報告されることはあったが、激しい批判にさらされて
いた[† 1]。
そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、
岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)
に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでに
は至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での
発掘を独自に続けていった。
1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から
を発見した。相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器
や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からも石器が出土
する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいな
かった。この説明のために相沢は桐生から東京までの長距離
を自転車で行き来した[2]。
同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学学部生
し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。
赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日
- 13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で
小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、11日、
降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形
の旧石器が発掘された。後に刃部磨製石斧と名付けられる。
9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に
発表した。その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、
杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡
の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、
縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実
な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。
また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられ
る更新世に遡らせた[3]。
しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の
存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、
相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、
代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原
荘介の功績として発表した。さらには、相沢に対して学界の一部
や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が
加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人、
庄屋などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)
などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外では
なかった。このため、これといった学歴も財産も有しない相沢
の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を
否定する向きもあったという。だが、相沢の考古学への情熱は
冷めることはなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡
を発見した。次第に相沢への不当な批判は消えていき、日本の
旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がよう
やくなされ、1967年(昭和42年)には第1回吉川英治文化賞を
受賞した。岩宿の発見から18年後のことである。晩年は、
最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡(桐生市)の発掘に精魂を
傾けた。