令和5年 巨大城郭遺跡 越前金ケ崎城 天筒山城見学会
▼過去の写真です。
◆対談者
いよいよ令和5年7月15日の
金ヶ崎天筒山城の見学会が
迫ってまいりました。その
堅固な臨海要塞は日本屈指
とも言われる史跡名勝です。
◆質問者
南北長期の合戦とは?
ウイッキペデイア引用
南北朝時代[編集]
斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。
で体勢を立て直す。2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援
しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる
。3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる
飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。尊良親王
、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害
、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する。
1338年(延元3年/暦応元年)4月(旧暦)には越前の軍事的
主導権を握った義貞に奪還されるが、その後、足利方の越前
◆長谷川
一の木戸 二の木戸 三の木戸
月見御殿跡などの知名が現地に
残ります。
▼二の木戸 戦国期の大堀切
ウイッキペデイア引用
室町時代[編集]
1459年(長禄3年5月13日)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立
幕命を受けた斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するも
、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗した。この戦いは8代
◆質問者
近江横山城の様な二重堀切の遺構
が現地に残りますか?
◆長谷川
▼圧倒的スゴイ迫力で残ってます。
◆長谷川
連続竪堀も残っています。これも見所
◆長谷川
長い竪堀も現地に残ります。写真ポイント
戦国時代[編集]
朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護
していた。 1570年(元亀元年4月26日)、援軍が遅れたため、郡司
朝倉景恒は織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して
近江海津に進出し挟撃戦になったた
め、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、
近江朽木越えで京に撤退する(金ヶ崎の戦い)。
天筒山城[編集]
天筒山城(てづつやまじょう)は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城である。金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。
元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。
現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。
▼金ケ崎 連続竪堀
▼金ヶ崎 大堀切
▼金ヶ崎 竪堀遺構