◆老婦人
孫の太郎ちやんが連休で遊び
に来てくれました私達老夫婦
は太郎が来たので大喜びです
彼は幼児なので画用紙にクレ
ヨンで絵を書いていました
でも画用紙からはみ出して
襖「ふすま」にまでクレヨン
の線を書いたので厳しく注意
をしましたシツケが大事よね!
◆老紳士「祖父」
太郎を叱ってはならない!未だ
幼児過ぎるんだ画用紙からハミ
だして線を引いているのは彼の
脳を発達させている自由発想の
段階だ!天から来た天使の衣に
は縫い目がないんだよ。これを
てんい-むほう【天衣無縫】と言
太郎の幼児脳に注意する事自体
太郎の才能や人間性を委縮させ
る今回は孫の気持ちを大切にし
て太郎の才能が将来に花開く様
に配慮すべきだとワシは思うよ!
◆対談者
人間は大人になるに従い社会
生活に適合する様にワク決め
をする様になり形にハマル!
井戸のソコに住むイモリとは
井戸外の世界を見てはいない。
◆質問者
長谷川先生、米子市の尾高城
には城郭ビイスタありますか?
◆反論者
そんなものあろうはずが無い!
城郭ビイスタなど絶対に無い!
◆達観者/慧眼者
幼児は時に画用紙の外にまで
線を引いて自由に絵を描いて
いるコレは固定概念や枠組の
中に縛られている大人社会の
視点とは全く異なる自由発想
の世界で発想の転換のカギ握る
寓話や逸話として理解する事
大人は米子の尾高城を画像に
写った場所しか考察見てない。
◆質問者
長谷川先生、米子市の尾高城
には城郭ビイスタありますか?
僕はマトマリなき群郭城郭に
見えてしまう。統一され整合
性ある縄張の城に思へない!
◆反論者
そうだ若いの!尾高城に絶対
に城郭ビイスタなど存在せん。
◆対談者
反論者さんには否定脳拒絶脳
的電気信号が脳内に流れてい
るだけの事ではないしょうか?
◆長谷川
C点からビイスタが読み取れます。
◆長谷川
D点からも重複ビイスタが読み
取れるので人間は意外に思う
のです、もしこれが日本の城
の基本的測量設計法だと解っ
たら素直な人理解出来ますが
しかし保守派や石頭には全く
理解不能と思われれるのです。
◆反論者
日本の城の伝統文化に長谷川
ビイスタ論のような伝統全く
存在しない。
◆長谷川
本当に日本の城測量文化には
放射線測方法「ビイスタ」が
存在しなかったと言えますか?
享保18年「1677年」には城の
測量指南図にビイスタが存在
◆長谷川
この理論を知らないと日本の城
の設計や縄張は永遠に解らない
例えば日本の城の代表格の看板
とも言える江戸城本丸西の丸の
図面を何百年見続けてビイスタ
に気付けない城郭学者は大多数
◆対談者
少しでも日本の城郭愛好家様達
が長谷川先生の城郭ビイスタ論
に気付いて下さる事を願います。
◆長谷川
米子の尾高城にはA地点から
扇型のビイスタを用いた城
◆長谷川
米子尾高城 重複ビイスタ 2案
◆長谷川
一見まとまりなき城に見える
浪岡城もビイスタ読み取れる
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◆米子 尾高城履歴 ウイツキペデイアより
- 弘安年間 - 発掘調査等でこの時代の居館跡や建物跡が発見されており、鎌倉時代後期には在地の領主の居館であったと推定されている
- 大永4年(1524年)4月5日 - 大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。城主行松正盛は流浪し、尼子方の吉田光倫が城主となる(『伯耆民談記』)
- 永禄5年(1562年) - 毛利氏の尼子氏攻略に伴い、行松正盛が再び城主となる
- 永禄6年(1563年) - 行松正盛が病死し、毛利家臣の杉原盛重が城主となる
- 永禄12年(1569年)6月 - 尼子氏再興軍山中幸盛らにより、一時城を奪われる(『陰徳太平記』)
- 天正9年(1581年)12月25日 - 杉原盛重、八橋城において没す(家督は嫡男元盛)(『伯耆民談記』)
- 天正10年(1582年) - 伯耆国佐陀(現在の米子市淀江町佐陀)に在る杉原景盛、兄の元盛を謀殺する
- 天正10年(1582年)8月16日 - 杉原景盛、毛利氏に攻められ戦死。吉田元重、尾高城在番となる
- 慶長6年(1601年) - 伯耆国領主中村一忠、一時尾高城に入るが、米子城へ移り、廃城となる