滋賀県多賀町佐目 洗谷の城 調査会記録
▼過去写真
◆長谷川
令和5年10月29日上記自治会主催
の城郭調査会の講師として参加を
させて頂きました。全長約100m
に及ぶ砦の跡の調査会です。用意
された測量杭は250本で幹事の方
が事前に持って上がられていまし
た大変に御苦労様です。当時用い
られた杭は約240本と記憶してい
ます。大変急峻な砦の跡ですから
城跡ハイキングに向いていない砦
と思います、人を寄せ付けない要
害性の高い集落背後に位置する砦
であったと思われます。この地は
真宗の布教拠点「左目道場」と
『天文日記』に記録されている所
なので真宗寺院に関係する詰め城
緊急時に集落の人々が避難する砦
であったと私は推測しております。
◆長谷川
左目道場は石山本願寺と密接な
関係を持っていた真宗在家寺院
で反織田信長勢力の拠点として
考慮すべきでしょう。洗谷の砦
も放射状測量縄張ビイスタ工法
遺構は明瞭ではないが読み取れ
ると思われます。▼佐目洗谷砦
◆長谷川
佐目の小字「腰越」の城もビイスタ
測量を用いた可能性がありましよう。
『フロイス日本史』中に明智光秀は
- 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
- 「裏切りや密会を好む」
- 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
◆長谷川
伝説の範疇に過ぎませんが一説に
津田信澄こと織田信澄は近江高島大溝
城を築城して天守台も構築しています
信澄の妻は明智光秀の妻とされていて
光秀と信澄は縁故縁戚の関係にあった
と言われます。近江大溝城天守台も
正方形でない事に気付いて下さい。
また織田信澄は天正10年本能寺の変
の時大坂城にいた所を丹羽長秀に
明智方として殺害をされています。
▼城歩会 下見会 大溝城天守台
◆長谷川
長島一向一揆に関わる伊勢柚井城
の縄張も放射状をしており本願寺
系列の築城技術の一端かとも思わ
ますが後続する研究を待ちたいと
思います。
◆長谷川
石山本願寺顕如上人の石山本願寺
城を改造して天正羽柴秀吉大坂城
が築城されましたが真宗教団の城
作りの影響を大坂城は受けていた
可能性も考慮しましよう。
三河一向一揆本證寺ビイスタ