天王山 山崎山城見学会
▼米原学びあいステーシヨン▲
長谷川木曜城郭講座好評を
継続中宜しくお願いします。
令和6年3月9日 土曜日
◆質問者
長谷川氏の見学会に参加
をされる理由とは何です。
◆解答者
①歴史城郭に対し誠実で素朴
②見落とした石垣を見学可能
③スペシヤリスト専門の見解
④10年来の安心感と信用実績
⑤遺構写真撮影出来る時間有
➅登り土塁を是非見てみたい
⑦織豊期天守台を詳しく解説
⑧他の見学会にはない特化性
◆質問者
長谷川氏の性格の欠点とは?
◆支持者
自虐的ブログ表現され困惑?
でも本当は超一流の先生だ!
見学会は極めて良質で誠実
そこにストア派の城哲学も
見え隠れして極めて向学的
現地遺跡解説のキレは最高!
竹中半兵衛/諸葛孔明級の人
隠れた才能隠士かつ慧眼の仁
◆長谷川
米原駅東口午前8時出発
1長谷川 車
2依頼人様
3ジンさん
〇空席アリ
名神高速道から山崎へ行く
JR山崎駅前に集合
午前9時30分から10時頃
4カラス様 個人で車 高速
5U年様 山崎駅へ電車で
6のび様 山崎駅へ電車で
7マミ様 山崎駅へ電車で
山崎山城
以下ウイキペデイアより引用
天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。
秀吉は大坂城に移るまで、山麓にある宝積寺も含めて城郭として利用したと考えられている。
清洲会議で長浜城を柴田勝家へ譲り、秀吉の城は姫路城のみとなっていた。秀吉は「山城・丹波両国のどこかに城を築きたい」とし、更に「いずれ勝家と雌雄を決するときがくるはず」と考える秀吉にとって、京都に近く、しかも小谷城に匹敵する山城の候補地を物色するうち、天王山の場所に目をつけるようになったものと思われる」と推察されている[3]。小谷城は秀吉が元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)に攻め続けた城で、山城の優位性があったためではないかとしている。
秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った
- 一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。
「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」
大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正10年(1582年)7月17日には普請が開始されている。
最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。
城郭[編集]
現在の城郭は、最後の城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。山崎城の最大幅は、東西約250メートル、南北約200メートルで本丸北側には東西35メートル、南北20メートルの小曲輪があり天守台と考えられている。本丸を中心に、東側、南側、南西側に曲輪を配置し、北側は断崖の要害となっている。
縄張りの基本は四角形で築城されており、「倭城の長大な登り石垣と空堀と第一戦に捉えた天守台のパターンに近いものが萌芽しており、織田・豊臣系の築城パターンの中でも、秀吉の個性が強く出たものと考えられる」とし、山崎城の築城パターンはその後の倭城に多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとされている[4]。豊臣秀吉が山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御はそれほど重要でなく、「山頂のこの城郭は、全体の詰の城といった存在であったと考えられ」、山頂部分の縄張りは最後の砦として機能したといえる[5]。
また山頂の城郭(詰の城)は本丸に向かうまで、虎口、枡形、土塁、堀、土橋と連続した防御システムがある。これについて「山麓の宝積寺より山頂の詰の城を一体とするパターンと、詰の城の細かい防御施設に後の秀吉系の城郭パターンの原型と言える二大要素を持った縄張の城郭である」と指摘されている[5]。
遺構としては、本丸の礎石跡、石垣、井戸、門柱礎石が散見できる。歴史がある山崎城だが、発掘調査は進展していない模様である。