城郭 長谷川博美 基本記録

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小谷城の秘密 安土城の秘密 永原御殿の秘密

2024-03-17 21:38:46 | 日本各地の城ビイスタ工法

小谷城の秘密 安土城の秘密 永原御殿の秘密

 

◆依頼者様

長谷川先生米原から全国に発信を

するほどの学術的テーマを掲げて

我が米原町の隆盛繁栄をも含めた

歴史城郭講座の講師を依頼いたし

ます。大言壮語をばからず大志を

心内に秘しお願いを申し上げます。

学府米原公民館の行末を頼みます。

 

◆長谷川

私のような者は路傍の捨石また

竹林の中に捨てられた塵芥の類

で絶対に人が集合は致しません

おそらく連続講座は打ち切りに

なると私は悲観し予想してます。

 

◆城郭研究の王道 ビイスタ理論

◆対談者

北陸線 東海道腺 琵琶湖線が

鼎立し集合するの駅米原駅西口

ら徒歩5分の鉄道交通の要衝

米原学びあいステーシヨン存在

致します。ここで長く無名城郭

研究家の長谷川先生が講師とし

て教鞭を執る為に登壇されてた

事は大きな学術的意味を持っ事。

◆達観者

さても長谷川先生の城郭研究家

としての資質看破した指定管理

さん米原学びあいステーシヨン

様でまいはら町民の方々の本物

を看破する慧眼たるや立派な物

米原北村源十郎の魂の様な講座

を続けられる事をお願いします。

 

◆北陸線福井様

いやいや北陸の太守朝倉義景公の

居館一乗谷館の平面形状を扇型に

測量された縄張ビイスタであると

解説されている長谷川先生の達観

には目からウロコが落ちる思いだ。

 

▼越前 一乗谷 朝倉義景館 V

長谷川博美 理論腺

 

◆北陸線木之本様

いやいや天正11年1583年羽柴秀吉

は賤ケ岳の合戦で木之本地蔵院に

本陣を取って柴田勝家に勝利しま

すが木之本神領区に長く住む者で

も木之本地蔵がビイスタ地割屋敷

地になっていた事は考えも及びま

せんでした!目からウロコです!

◆一般男性

覇権の王者/覇者たる有名武将達の

城郭にビイスタ工法が存在する事

を論説されたのは長谷川先生こそ

が本邦最初達観理論を持つ人卓越

理論者で100年に一度の先生!

 

◆木之本住民様 アンチ派

そんな馬鹿な?偶然にも木之本地蔵

の屋敷地が歪だっただけでしょう?

長谷川なんてのは所詮4流学者です!

 

◆北陸線 河毛様

そうかな?朝夕見ている小谷城址

が城郭ビイスタである事を長谷川

先生が解説され講座で聴講客様達

がブッ飛んだと言う有名な伝説だ

椅子から滑り落ちた人もいたとか?

 

◆参加者

ちがうちがうその人夜勤明けで

講座の最中に昼寝していた人!

変な質問される人がこけた事!

 

▼小谷城 クサビ型ビイスタ論 

長谷川解説理論

◆北陸線  長浜様

長浜豊国神社近辺に住まい

する者ですが長浜の街とは

碁盤目の様に出来ているの

に何故長浜城はこんな弓の

様な城址なのサッパリ私は

解らない長浜っ子だった訳

来る日も来る日も同じ長浜

城の話聞いていると長浜の

暫を10個連続で食べた様な

ゲツプ連続状態で満腹状態

満腹感がもうがハンパない

 

◆長谷川

簡単な事です秀吉長浜城は

ビイスタ工法を使って本丸

を設計縄張してる訳です!

◆一般者

良いね!スカッと目が醒める

ような新城郭理論が圧倒的!

 

◆長谷川

米原の鎌刃城もビイスタ工法

ですよ。令和6年6月2日講師

として依頼を受けております。

◆一般者

凄いよな!鎌刃城のこの切口!

我々には全くピント来ないよ!

 

◆長谷川

織田信長は天正4年ビイスタ

工法で安土城を築城してます。

 

◆一般者

これも凄いよな!安土城理論

ビイスタなんて事夢にも考え

つかない見事な論説ですもの!

◆長谷川

令和6年3月24日徳川幕藩

体制を構築した徳川家康の

宿城を見学取材に行きます。

この永原御殿もビイスタの

法則により築城されてます。

◆反論者

ふん何が長谷川理論だよ!そんな

偶然に放射状測量した事だろが?

ふん何が城郭ビイスタ大理論だ!

そんなの日本史に何の関係ある?

◆長谷川

歪な田畑を測量する技術が日本国

に定着し始めたのは太閤検地から

です。これにより大名領地の石高

面積検見して徳川幕藩体制の基盤

が石高制度が確立された日本史基礎

◆長谷川

検地の絵図に「見通」とある文言

に我々歴史学者は留意すべき事!

◆長谷川

日本国の城は放射状に測測量を

していた事は記録にも残る事!

私は異端論を論述する意志は

全くないです素朴なる研究家。

◆反論者

何を屁理屈をいってんだよ

何が太閤検地だよ馬鹿か?

そんなら太閤秀吉が文禄

慶長の役に肥前名護屋城

を近江長浜城の様な形式

でビイスタ工法を用いて

築城したのか?▼長浜城 V

◆長谷川

センスの良い質問をされます。

貴方の指摘どうり肥前名護屋

はビイスタ工法を使ってます。

▼太閤秀吉肥前名護屋ビイスタ V

 

◆一般者

どうも長谷川先生の論説は次々

にピタリと適合しているしかし

意図的に長谷川氏の意見を集団

否定しようとする世論の動きも

あるような気がして注意!学問

の進捗の為に公平なるジャッジ

をする審判委員が必要と思う!

▼そう支持者が続々と増えてる

◆反論者

何が長谷川ビイスタ理論だよ!

もし長谷川理論正解ならばだ

虎御前山城の木下藤吉郎陣は

ビイスタ構造だとも言えるか?

 

◆長谷川

ズバリそれはビイスタ工法ですね!

◆反論者

なんで長谷川の理論は十中八九

次次に当たるんだよ!反論にし

ている我々が本来自頭良いハズ!

 

◆地頭の意味と読み方

読み方は「じあたま」です。学校など教育で与えら

れるのではなく、その人にもともと備わっている本来

の頭の良さのこと。博識であることではなく論理的に

考える力

 

◆長谷川

私は地頭が悪るくて人気がない人!

◆対談者

でも安土城の伝羽柴秀吉邸なども

ビイスタ設計されていると長谷川

先生が指摘され私は驚いた人です。

 

◆反論者

もう止めて下さい!まさか秀吉の

鳥取城攻めの為の太閤ケ平城もが

ビイスタではないでしょうね!?

 

◆長谷川

ズバリ重複ビイスタ工法ですよ。

 

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まいはら こしのはら 話題

2024-03-17 15:27:24 | 城址見学会予定 

まいはら こしのはら 話題

米原   小篠原   話題

◆まいはら 米原町民様 

長谷川先生が米原学びあい

ステーシヨンの歴史城郭の

講師に推薦されて登壇され

た事は非常に喜ばしい事!

 

◆参加者

まいはらに住んでいると大津

の坂本城発掘現場まで行く事

は意外にも難しく遠いのです

米原で坂本城の石垣発掘写真

を解説された事は大変な話題

になり教室が盛況の状態です

どんどん人が集合されている

 

◆長谷川

私は米原市民ですから先方様か

ら米原まなびあいステーシヨン

講師一任された以上米原隆盛を

志さなければならない立場です

私なりに必死のパッチ状態です。

 

◆参加者「長谷川講座」参加者

徳川家康が征夷大将軍に就任し

た時に永原に将軍宿城永原御殿

が建設され家康自身も宿泊して

います。今度令和6年3月24日

いよいよ長年竹林覆われた家康

の為の宿城跡一般公開される事

つまり現地発掘説明会が開催を

されます。是非長谷川先生には

長浜米原彦根岐阜愛知方面諸氏

の為にこの見学会現地の様子を

スクープ記録して来る3月28日

の米原学びあいステーシヨンで

是非とも画像解説を願いたい!

講座は28日の御前10時からで

すから24日に永原御殿跡取材

をして頂けませんか?

 

◆長谷川

私のような無名講師如きが家康

の永原御殿城郭を解説する事は

おこがましい浅学の者だと常に

恐縮委縮を致す限りです。

◆参加者

何を無用なる謙遜をされますか?

長谷川先生の御指摘どおり坂本

城にビイスタ工法に従った石垣

が出土した訳ですよ!先生提唱

の城郭ビイスタ論は東洋史学の

視点からみても卓越理論学者だ

専門家筋から高い評価を得て

おります。長谷川先生が陰に隠

れた城郭講師のままで終わる事

は民衆の民衆為からなる優れた

民間学門の損失に繋がると常々

思案しているところであります。

 

◆反長谷川派

ふん何が長谷川じや素人学者の

くせしやがってナンボのモンや!

 

◆参加者

それ学問する向学の志ある人の

紳士的で善良ではない言葉です。

 

◆まいはら 米原町民様 

長谷川先生是非とも湖東

米原学びあいステーシヨン

の為にも永原御殿の発掘

説明会のレポート4/28に

に是非お願いをします。

◆長谷川

私は素朴純朴な学者研究者

を目指しております。徳川

永原御殿にも城郭ビイスタ

工法は使われておりますよ

心を空にし城を見ましょう

 

◆一般者

そうです!素朴/純朴/素直な

精神性の下こそ学問的な審判

下されると思います。永原

御殿とは正方四辺形でないと

言う素朴で単純な事に気

いた人々達の民の声が長谷川

先生の講義の素朴なる根幹を

なしている事に気付く事です。

 

◆反 長谷川派 アンチ

ふん何が長谷川先生なんだ

勝竜寺城行ったけど正方形

の城だった事は明白確実だ

 

◆城郭 鈴鹿会 会員様

そうかな感情に任せた理論

は、もうそろそろ終わりに

して勝竜寺城を深く見る心

精神性の時代到来してます。

◆長谷川

勝竜寺城たしかに直角正方形

の本丸ではなくビイスタ工法

の城だと言う事は図面を見た

だけですなおな心の人は解る

私は重複型ビイスタと呼ぶ例

です。

◆一般様

すごいな長谷川先生という人!

こんな事日本中の誰も気づき

はしない希代の研究家さんだ!

◆長谷川

徳川時代の淀城もビイスタです。

 

令和5年度 史跡永原御殿跡の発掘調査現地説明会(3/24)

令和5年度は、徳川家光の宿泊中の寝所にあたる本丸「御休息所(ごきゅうそくじょ)」を調査しました。

史跡永原御殿跡は、江戸時代初期に徳川家康から徳川家光までの三代の将軍が、上洛のときに宿泊した徳川将軍家専用の城郭です。

野洲市では、永原御殿跡を史跡公園として整備するため、毎年発掘調査を実施しています。令和5年度は、第三代将軍徳川家光が宿泊中に寝所(しんじょ)として利用した本丸「御休息所(ごきゅうそくじょ)」跡を発掘調査しています。この程、その成果が明らかとなりましたので、調査担当者がご説明して現地を公開します。

日 時・・・令和6年3月24日(日曜日) 午後1時30分~午後3時

場 所・・・国史跡永原御殿跡発掘調査区(野洲市永原1031番地)

対 象・・・どなたでも(事前申し込み不要)

参加費・・・無料

※駐車場や一度に見学できる人数に限りがあります。現地係員の指示に従ってください。
※できるだけ徒歩・自転車でお越しください。
※この説明会は、妓王まちづくり推進協議会のご協力を得て実施します。

※永原御殿跡は令和5年度から整備工事を実施しています。現地説明会など市主催の催し物開催日以外は本丸の内側は立ち入りできません。

現地説明会ポスター

夏休み!永原御殿跡の発掘調査体験教室の画像

↑今年度も、夏休みには一般参加を募って発掘調査体験教室を開催しました。合計4日間の日程で。合計47名の方々にご参加いただきました。

夏休み

↑発掘体験の初日から建物の礎石とみられる石材を発見しました。寛永11年(1634)の7月8日に、徳川家光が上洛の途中に一泊だけ利用したご寝所です。その建物の柱を支えていた石材です。

永原御殿跡の整備イメージ

←史跡永原御殿跡の第1期の整備イメージです。

公園整備では、本丸西側に残る土塁を保護し、かつて存在した本丸東側の土塁を復元整備します。本丸内部は、発掘調査成果を元に、江戸時代の平面図「中井家指図」を等大で表示して、御殿の規模を体感できるように整備します。

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衝撃隘路要衝の地 ! 山崎合戦 賤ケ岳合戦 関ケ原合戦 大小2城理論!

2024-03-17 14:42:51 | 比較研究論

衝撃隘路要衝の地 ! 山崎合戦 賤ケ岳合戦  関ケ原合戦 大小2城理論!

◆ウイッキペデイア引用

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、

天正10年(1582年6月2日本能寺の

を受け、6月13日(西暦7月2日)に

摂津国山城国の境に位置する山崎

京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城

京都府長岡京市)一帯で、備中高松城

の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉

軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が

激突した戦い。古来天王山の戦いと呼ばれ

てきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも

呼ばれる。

 

◆質問者

石清水八幡宮には男山城が築か

れた事がピントと来ないです?

 

◆長谷川

大変良い質問をされますよね?

今回の投稿の重要ポイトです!

 

◆ウイッキベデイア引用

光秀は10日に秀吉接近の報を受け、

急いで淀城勝龍寺城の修築に取り

掛かり、男山に布陣していた兵を

撤収させた。しかし、光秀は予想

を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分

に整えられず、2倍から3倍とされる

兵力差のまま決戦に臨むこととなる。

◆長谷川

戦略街道を大小2城一組の城で

要衝を確保する為大小の2

一組説を今回解説をしますね。

 

◆質問者

山崎合戦で智将明智光秀は

天王山と男山と言う2カ所

要地を秀吉方より早く確保

したのに此れを放棄した事

は明智光秀の愚策だと思う?

この2城確保は戦略上重要!

 

◆長谷川

確かに光秀は戦略の要衝たる

天王山と男山を2カ所を捨て

勝竜寺城や淀古城を修築して

自身は御坊塚/恵解山古墳へ

布陣した事はある意味山崎

の隘路を順次侵犯侵入して

来る秀吉軍を順次鉄砲射撃

で迎撃させようとさせる為

の正論と言えるが要するに

水道栓が破損し水漏れした

場合その水量が膨大な量の

場合は防ぎ切れずに防衛腺

が破綻する事は必定ですよ

 

◆質問者

石清水男山城つて大事なの?

 

◆長谷川

明智と筒井が連携協力して

小城の男山に伏兵をおいて

秀吉方がこれを兵法の常識

「弱く小さい城」を攻めた

場合明智と筒井グループは

必ずは緒戦で一旦勝利可能

な地勢が石水男山の地理的

な立地条件だと言えますが

筒井は明智を見限って本国

大和に帰り籠城の準備始め

た光秀は筒井と自軍合流を

して緒戦勝利を制する構想

が破綻した事を意味します

 

◆質問者

山崎合戦勝利後羽柴秀吉は

天王山山崎の地をどうした?

 

◆長谷川

西国街道の山崎宿を掌握して

天王山山頂に山崎合戦戦勝の

PRモニユメントである山崎城

の建築を始めたと言う事です

つまり畿内と天下を掌握した

印象を世に喧伝する為の城で

早く作る必要にせまられた城

だから山中に転用財が多い!

華々しい秀吉政権発足記念の

山崎合戦勝利の トロフイー

の役目を担った象徴の城です。

清水男山は小城ですから是は

普請はしない訳です弱いママ

にしておかないと小城の意味

が消失してしまいますからね!

◆反論者

長谷川氏の大城小城の理論は

1583年天正11年の賤ケ岳合戦

には全く当てはまらないです!

 

◆長谷川

そうでしょうか?秀吉は北国

街道の木之本宿の田上山城を

大規模な大城として普請した

小城の賤ケ岳城の2城を合戦

初期段階の3月には2城を普請

をしています。これは天下の

要衝大山崎の天王山城男山城

の2城図式と全くおなじです。

田上山と賤ケ岳は『信長公記』

の天正元年に既に記録に登場

していて既にその原型履歴が

つまり戦略城郭の履歴がある。

 

◆対談者

さすが文献をよく読んでる人

名古屋で『信長公記』解説し

た優れた文献解説家と言える。

 

◆長谷川

方や京都と摂津西国の要衝地

方や北陸と近畿の要衝の関門

たる木之本宿を秀吉は大小2城

田上山と賤ケ岳に築城をします

田上山城が大城で賤ケ岳が小城

◆質問者

何故?佐久間玄番は賤ケ岳

に向けて柴田軍前線将兵を

集中させたのですか?

 

◆長谷川

簡単な事ですよ。北国軍柴田軍

は小城の賤ケ岳城を先ずは奪取

して秀吉との合戦有利を全国に

宣伝する目的と必要があった訳

柴田は老獪堅実だと言う印象を!

勝家方には浅見道西という湖北

山本山系に精通した武将が存在

し賤ケ岳を取れば秀吉方の長浜

城の攻略の安全で堅実ルートの

奪取確保になる訳で将棋飛車道

秀吉は山本山城攻撃した経歴が

元亀年間に存在して柴田軍進軍

シュミレートは事前想定してた

柴田方を賤ケ岳に引き付ける事

そして美濃大返しをして田上山

城の木之本宿軍と合流して湖西

丹羽長秀とも賤ケ岳上で合流し

柴田を包囲殲滅する構想をして

た上手く大城と小城を使い分け

た構たえを見せている訳ですね!

 

◆長谷川

大城とは陥落させてはならない

鉄壁の城の構造にして然るべき

秀吉の弟秀長に此れ田上山城を

守らせています。小城賤ケ岳城

は敵が攻めてくること予想した

誘い水の役目の城として築城!

◆長谷川

山崎合戦でも光秀は筒井を催促

しています。小城の石清水男山

へと秀吉を誘い小城で明智筒井

連合合策を構想したのだが筒井

に振られたと言う事ですね最も

秀吉方の方が合戦の現場の読み

シュミレートがなされて男山に

は手を出さなかった1枚上手だ。

明智見事に筒井に見捨てられた。

細川にも瀬田の山岡も見捨てら

れ組下の高山や中川にも離反を

されボコボコにやられた訳だ!

さも信長存命の虚説を巷間に

流布させた藤吉郎羽柴筑前守

の心理戦略の狡猾さ天下逸品!

 

◆批判者

長谷川さんは幻想論者です。山

崎に2城あった事など記録にない

 

◆長谷川

ふふふふそうでしょうかね?

ウイッキペデイア引用です。

秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った

一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
インド管区長 パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに贈りし書翰」(『イエズス会日本年報』)と記している。ここに記している八幡というのは、石清水八幡宮のことで男山頂に築かれた男山城を指している。『豊鑑』の「はかばかしく構にもし給ざりけり」と『イエズス会日本年報』の「甚だ堅固な城」との間にはへだたりがある。清洲会議がどのよう協定だったか日本側の史料には記載がなく、イエズス会日本年報に城郭に関する取り決めらしきものが窺い知れる。

また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。

「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」

大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正10年(1582年)7月17日には普請が開始されている。

最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。

 

◆北近江人

近江浅井氏の小谷城に大城

小城は存在したのですか?

◆長谷川

簡単じやないですか?北国道

を挟んで浅井氏は虎御前山城

も元来保持して街道を確保し

管理してきた戦国大名ですね。

 

◆北近江人

大城が小谷城で小城が虎御前山

城とすると虎御前山城に手を出

した武将とは誰ですか?信長?

 

◆長谷川

小城に手を出して小谷城攻め城

として拡張したのは織田信長!

 

◆対談者

当たってますね!長谷川先生の

大小2城理論が適格に該当する!

 

◆美濃人

織田信長は何故鷺山城の斎藤

道三と盟約を交わしたのか?

◆長谷川

岐阜稲葉山城は一大物流大河

長良川に面す斎藤義龍の大城

ですね。ならば信長は小城の

鷺山政権と外交関係を先ずは

締結しておくべき事です信長

の正室は鷺山殿「濃姫」です。

 

◆美濃人

そんな視点で稲葉山や岐阜の

歴史を僕は認識してなかつた。

 

◆南近江人

織田信長とは何故?佐々木六角

の本城でなく箕作城を攻めたの?

◆長谷川

上街道「中山道相当」の両側には

大城の観音寺山城がある一方小城

は箕作山城と言う事になる従って

信長は、小/子城の箕作山城を織田

主力柴田/丹羽/佐久間/羽柴を差し

向けて先ず先勝しようと小城へと

と照準を彼は合わせていますよ!

これが正攻法の正論です。弱い城

を攻める事『孫子兵法』のあると

おりです。

▼続々集まる米原長谷川歴史講座

◆長谷川

また信長は下街道を整備して

安土城を居城として近江衆の

観音寺城の屋敷は残して置い

た可能性も出て来ます。

◆反論者

四流の無名学者長谷川氏の講座

講演が思わぬ人気を得ている事

はアンチ長谷川派としては気に

食わない!我らがこそが正統の

主流である事は絶対に確固たる

盤石の自信がある。長谷川氏の

2城論は天下の街道を扼する関

2城を築く事で合戦の帰趨が

決定されると言うものだろうが

それは日本最大の合戦関ケ原の

合戦では全く適合しませんよ!

 

◆反論者

そうだよ!長谷川如き4流の学者

が生意気に関ケ原合戦を語るな!

◆素朴城址見学派「長谷川派」

そうですかねえ?石田三成普請

し伊藤氏にその管理を任せて

いた不破郡松尾山城は複数曲輪

が存在する『大城』と言う事は

長谷川先生の現地見学会に参加

をした人なら明白に解る事です

小早川秀秋松尾山城13曲輪構成

毛利秀元の南宮山山城3曲輪構成

これどう見たって天下関門関ケ原

の主導権を握っている「天王山」

とは不破郡の松尾山城と言う事は

長谷川先生要衝合戦2城論が正論

で冷静な歴史城郭学者という事が

明白でしょう!いやいや関ケ原の

キーマンは小早川秀秋と言う事だ。

 

関ケ原合戦2城論

大城 小早川秀秋

松尾山城凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸

 

小城 毛利秀元

南宮山城凸凸凸

 

◆反論者

しまった!長谷川ごとき4流学者に

山崎合戦

賤ケ岳合戦

関ケ原合戦

の2城理論を指摘看破されるとは

我々大手の主流学派の名折れだ!

◆多賀町民様

ふふふふ我ら多賀住民は抜け目

がおまへんで!4月13日長谷川

先生を迎えての民衆の為の民衆

による歴史城郭大講演開催する

これが犬上郡多賀の誇りです!

 

◆質問者

羽柴秀吉は大小2城を巧みに交通

の要衝に配置してた長谷川理論

は卓越理論だと思います。学問

は先学の理論を模倣踏襲すだけ

のフオロアー学問に終始しては

学問の進捗は望めません。それは

我々大衆や民衆が認識をしておく

べき事ではないでしょうか?氏を

押す人々は純心で向学心ある方々

だと思います。私が秀吉の桃山城

を考えるに長谷川理論は適応相応

伏見城には真に的中しています!

 

◆長谷川

私の様に路傍に捨てられた捨石

の様な人物にエールを賜り感謝

を申し上げます。たしかに伏見

城とは大城の「伏見城」小城の

「向井島城」この2城の並立さ

て成立する城郭であった事は

確実と言えます。2城制度は

秀吉の城郭構想の特徴を端的

に表していると私は思います。

ウイッキペデイアより引用

向島城は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉によって伏見城支城として宇治川を隔てた南側に築城された。 元来、観月橋の地名が残るなど、月見の名所でもあり、月見用の城として築かれた城郭だったが、慶長元年(1596年)に起こった大地震(慶長伏見大地震)により、伏見城指月城)が崩壊すると、秀吉は一時居所を向島城へ移し、 慶長2年(1597年)に木幡山の新しい伏見城が完成するまで、仮の居城とした。

秀吉の没後は、徳川家康石田三成が対立することとなり、豊臣政権の分裂による衰退を危惧した五大老前田利家からの提言で、伏見城下の上屋敷で政務と執っていた家康は、三成の襲撃に備えて、向島城へ居所を移して修築を行ったとされる。

慶長4年(1599年)、利家が死去すると、朝鮮出兵以降三成に不満を持っていた加藤清正福島正則黒田長政池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明の武断派七将が三成を襲撃する事件が起きた(石田三成襲撃事件)。

この時に三成は、向島城で家康により保護されたとされる。

◆支援者

素晴らしい長谷川先生の解説

解釈は模倣型学者問ではなく

比較研究論を用いた気付学問

つまり米原でしか講義してい

ないメイドイン米原学だと言

う事が解ります。

◆長谷川

3月28日木曜午前10時開催です

宜し御参加をお願い致します。

 

 

 

 

 

コメント (2)
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