城郭 長谷川博美 基本記録

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『後漢書』に石国とある都市の城郭

2022-08-28 23:57:29 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

『後漢書』に石国とある都市城郭

◆質問者

長谷川先生のブログ読者様

は毎日何ぐらいでしょうか?

 

◆長谷川

1日30名様前後の閲覧者様

があり心より感謝致します。

 

 

◆質問者

これだけ城郭の幾何学理論

を述べられる人物は日本国

に皆無です。マスメデイア

から取材依頼インタビュー

も多数あると私は思います。

 

◆長谷川

私は肩書も著書も全くない

アマチュアの平凡な研究家

メデイアや世評とは有名人

を求め学問を求めてません。

 

◆質問者

日本一無名とは言え日東第一

城郭幾何学研究者と思います。

恐れ入りますがシルクロード

に沿線にあるウズベキシタン

のタシケントの古城の城壁

構造を幾何学で解説下さい。

 

◆反論者

そんな外国の城と日本の城

とは関係がありません全く

意味が無いと思いますが?

 

◆長谷川

貴方は織田信長の性格を

理解してないと思います

信長が宣教師に尋問して

いたのは安土城と同じ様

な城が日本国外にも存在

するか?宣教師に質問し

ています。宣教師は様々

な海外の城郭を日本国に

至る過程で見聞していま

す。信長の教養の根底に

あるものは漢学である事

は明白であり永楽帝への

憧憬や美濃斎藤氏と会話

でも中国の故事を引用し

美濃井口を岐阜へと命名

して中国の周公の事績に

あやかる事をしています。

信長自身現代で言う東洋

史学的発想や素養教養を

に着けてていた事は事

は唐人一観を安土に招聘

して瓦を唐様に作るなど

信長の視点は唐土にある

事絵空事ではなく確実で

す。安土の城と大陸の城

を比較研究する事こそが

日本国の城の縄張の本質

を解明する事に繋がりま

す。海外旅行から日本に

帰ると日本文化や文物に

改めて日本人は目覚める。

 

 

◆有識者

日本の城、外国の城と分離

して考える発想は狭視野な

事です。人類が設計する城

と言う本質を考察する上で

また測量術史や幾何学論を

比較研究論として考察実施

する人類史には非常に重要。

 

◆長谷川

上図の様な城郭に如何なる幾何学

を駆使して築城しているのでしよ

うか?岩手盛岡城もウズベキシタ

のタシケントの古城も人類史上

の城郭遺跡である事に異ならない。

この城で注目すべきは「側防塔」

とよばれる隅櫓が発達している

事です。図では円形とD型形状

が認められます。日本の野戦で

は陣幕が張られるケースがあり

ますが英語圏の城では直線塁壁

をカーテンウオール「カテーン

の様な壁」と表現さてまいます。

 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
円形の側防塔

 

▼岩手盛岡城のビイスタ工法

▼タシケントの古城ビイスタ工法

青腺は屈折する城郭腺の中軸重複

測量腺になります。

◆みんな

大変な事になってきました。私達は

ただ風変りな盛岡城や安土城の幾何

学縄張城郭理論として長谷川先生を

見下していたのにこの様なスケール

の大きい『大理論』である事に仰天

▼近江 織田信長 安土城ビイスタ

◆質問者

あまりの展開の壮絶さには寒気

がしてきました。タシケントの

古城に重複型ビイスタあります?

◆長谷川

存在致します。先ずA赤線

       次にB青腺

は典型的な重複ビイスタ工法

みどり色Cは城内側からの扇

型ビイスタです。併せて黄色

の扇型ビイスタも存在します。

◆長谷川

タシケントの古城には様々な

城郭ビイスタ測量腺が読取れ

ます。皆様と勉強しましよう。

 

◆一般者

素晴らしい!希代の城郭理論

の根本出発が『ビイスタ動画 』

だった事に今更気付きました。

でもです。長谷川先生は無名

の先生でウチの町に来てウチ

の町の城の城郭ビイスタ論を

解説される機会が是非欲しい。

 

以下ウイッキペデイアより引用

古代[編集]

タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ

 (c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、

ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、

アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼

ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記

されている。チルチク川の形作るタシュケント・

オアシスの主邑として、またカザフ草原天山

山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフル

のオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市と

して古代から繁栄した。 康居の中心地であった

と推定される。国際交易では中国にまで名を知

られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また

「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)

時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記

では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で

用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を

名乗った。750年にはの将軍高仙芝が石国に侵攻

したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラムの

アッバース朝に支援を求め、タラス河畔の戦い

きっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム

王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民

イスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝

時代にはBinkathとも呼ばれた。


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