城郭ビイスタ論 上文字クリック
安土城天主台の地下蔵から安土城縄張を解明
◆長谷川
はじめに
安土城の天主台穴蔵「石蔵」の不等辺な形状
や天守台自体の歪な平面楮には不可解な疑義を
持っ人は社会に多い。その形状をいとも簡単に
単なる自然地形に制約された中世城郭の流れや
系譜を汲むものと解釈し城郭縄張を幾何学形状
や学問的研究視座に立脚して深化、進化、進捗
させる事を意図的に拒んで形骸化した概念論を
保持し固執する保守的社会集団も実在する事実
は否めない現実にあるとも言えよう。
さて天下布武を掲げた織田政権の府庁で中核的
シンボル象徴とも言える安土城天主の地蔵が歪
である疑問は私の放射線縄張技巧理論を用いれ
ば簡単にその地下蔵の形状の設計測量の過程や
プロセスデザインやコンポジションや縄張縄打
のグランドプラントは容易に理解できる。しか
し簡単に天主台地下蔵設計の謎をいとも簡単に
解明しても長年の研究過程試行錯誤の末に解明
する事であり安易に肯定という知識吸収するだ
けの暗記型思考法ではなく私の元で城郭を学ぶ
人は常に初心に帰り、謙虚な研究視点と冷静な
学問的原点回帰を志して城郭語彙知識の丸暗記
ではなく城郭遺跡を観察し新しい視点視座で考
察する事に留意を願いたい。つまり丸暗記歴史
学習は学生時代の試験の時に既に人生で終了し
てる。我々平凡な一般社会人は冷静な自我に立
脚した歴史的建造物を観察する必要性を強く感
じる。新見解や未知の城を図書館で検索しても
全く意味がない。それこそは摸倣やコピー文化
の亜流以外の何者でもなく自ら考察する意義を
今一度、各自再認識して頂きたい。城の偉大な
先生とは果して人間なのだろうか?直接真実を
我々純朴な学徒に親切に誠意的に教示してくれ
るのは現地の生々しい現実城郭遺跡こそが真実
を我々に提示する真の城の師は城自体でもある。
◆安土城地下穴蔵の縄張設計を検討し解明する。
▼原図は 安土城図 滋賀県教育委員会測量図
◆以下掛線の挿入は著者ブログ著者の長谷川博美
▼放射状石蔵設計線1を求める。交点1の検証
▼放射状石蔵設計線2を求める。交点2の検証
▼放射状石蔵設計線3を求める。交点3の検証
▼放射状石蔵設計線4を求める。交点4の検証
▼放射状石蔵設計線5を求める。交点5の検証
▼放射状石蔵設計線6を求める。交点6の検証
▼天主石蔵の対角線7を求める。
▼天主石蔵対角線8を求める。石蔵の対角線理論。
▲対角線が交わる交点こそが天主建物の中芯に相当。
◆4交点の重要性を考察する。
4交点は天主の中心と安土城全体の主軸と言える
ポイントBの正中線を見事に浮かび上がらせてい
る。これこそが、安土城設計の中心主軸で正中線
の4AB線とも言える。
この正中線4AB線とは安土城全体の主軸線を
成すもので私が述べる安土城放射線状縄張技巧
城郭ビイスタ論と言える縄張論の扇の要である。
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◆搦め手口直角屈折設計起点を求める。
搦め手口の直角曲折通路の設計起点は何処一体
どこか?交点3からCDと縄張されている事は
決定的であると言え交点3は重要な測量起点だ。
◆交点3の更なる意味と分析をする。
交点3は当時の重要測量起点で二ノ丸の北石垣の
起点ともなる。また天主地下階段J微細石垣配列
のK、天主取り付け台石垣線Lの底辺基線、虎口
Mの石垣石段、同じく虎口OポイントPポイント
をを貫通している事も判明する。また小櫓石垣
Gポイントの測量設定起点である事も判明する。
◆5ポイントの更なる解析
5ポイトから曲折階段RとSに縄張され5から
多角天主台の底辺隅石垣TをへてGに至る測量
計測の経緯が判明する。Sの左歪石垣も5から
測量設定したものと思われる。
▲3交点8線6交点の対角線状の延長6の下方
には本丸主殿と天主を結ぶ渡り廊下を支え
る礎石も現場ま発掘で既に検出されている。
◆複数のビイスタ展望の存在
安土城の表の空間つまり「安土御構」呼ばれ
る殷賑ほ究めた安土城城下方面からの城郭の
見栄え光背効果に熟慮された安土城には複数
の放射状縄張設計ビイスタ工法を見出す事が
出来る。
特に、この放射状縄張線は不整形かつ歪な石垣
櫓台として下図AとBの櫓に平面構造上の形状
形成において強く影響を及ぼしている。つまり
AとBの櫓台にはビイスタ工法を基盤を置いた
設計がなされた事を検証し理解が可能であろう。
◆石垣と建物の両者設計の矛盾を補完するもの
上図の櫓台は不整形で江戸期城郭建築の天守閣
や均整のとれた四隅直角90度の櫓台を見慣れた
多くの人々には肯定できない形状であり、一種
の天正文化とも言える茶器の「ひょうげ」ひし
やけた「傾斜した菱形」の形状とも言える異形
の形状をなしている。さて一体Bの櫓台やCの
門口「城門」Cの手前の石段そしてDの石垣上
に存在した織田信長存命期の安土城ま様子景観
を示す資料がユンゲの安土城模写版画に残って
いて興味深い。絵画には石垣天端と楼閣建築の
齟齬や不一致を解消して楼閣や石垣を雨水から
保護すべく「腰板」で物々しくも保護している。
◆更なる放射線ビイスタ線の潜在
大手黒金門方面から登城してくる諸侯や家臣に安土城
のダイナミックな威容を誇示する事により天下鎮撫の
楼閣政庁とせんとした織田信長の目的は下図ビイスタ
線でも読み取る事が可能である。また前述した天守と
櫓B櫓Aが雁行形に配列されている縄張の妙実がある。
◆更なるビイスタ縄張線の潜在
伝名坂邸の形状を形成している放射線状ピイスタ
の潜在にも驚く坂虎口の門の歪な櫓台構成の縄張
線や横矢線ウイアの雁行状石垣配置も見事である
遠く台所口に存在る喰い違い虎口にまで縄張設計
線が及んでいて今更ながら驚く。
◆見方を変えれば別の城
織田信長と安土城に憧れて千度安土城を探訪
しても散策してもハイキングしても織田信長
や普請奉行の丹羽長秀が何を考え安土城設計
に関わったのかは永遠に読み解く事は出来な
い時に発想を転換した別角度から安土城検討
も時に重要である。
◆天主地下蔵5番交点から読み解く驚愕縄張り
さて偶然にも天主地下蔵構造から5番交点を導
く事になったが、この5番交点の測量基準点は
数多くの城郭設定線の基準である事に驚愕する。
それは伝黒金門の斜行石段や黒金門曲折経路
の曲折部にまで縄張構想に強く影響を及ぼし
ている。また八角平の石垣構成も台所口喰い
違い虎口門の石垣構成にまでも影響している。
◆天守地下蔵と須田内湖側「琵琶湖側」設計
上記方面からの城郭眺望「見栄ビイスタ」は
全く無いかと言えば緻密な縄張により左手の
八角平や天守地下蔵も含めた緻密な放射測量
痕跡をうかがい知る事が可能である。
◆結論
安土城天主石蔵は上記1~8の過程を経て縄張
設計されている。また検索した起点は搦め手
口や各主要城郭部位の設計線の基本をなして
いる。天主閣の縄張自体には、楼閣建築を全
く第一に考慮せず歪な幾何学的縄張術に支配
されている。当時の信長の発令する権力なら
ば整然とした90度直角を伴う近世的天守閣の
石垣が誕生した事であろう。これは安土城が
未だ完全に近世城郭へとその縄張設計術が到
達せずその様式が近世と中世の経過点を示唆
するとものと言えよう。
◆地下石蔵の方位方角の想定線について
◆はじめに
織田信長が天正4年に築城した安土城の不可解
な天主台の形状とその地下蔵(石蔵)の形状そし
て東西南北に正確に測定した地下蔵の礎石の
両者の齟齬つまり地下蔵礎石は方位学建築学
的には適正なのに石垣は全く歪な不等辺をし
めしているその両者の齟齬とは建築つまりは
作事方(建築担当者/岡部又衛門)と総普請奉行
(丹羽長秀/縄張普請)建物を建設する人と城の
土台を普請(土木作業)の分業のなせる業と私
は判断したが安土城天主の謎はそれだけでは
ないだろう。
四神相応の風方位学や故事来歴に因む要素が
潜在したのではないだろうか?先ず織田信長
なる人物は父信秀により尾張那古野の天王坊
なる学院に入学さされ武人としての基礎教養
を幼少期に学んだ事が容易に類推ができよう。
信長が漢学の四書五経を学んだ事や中国史記
の記述に影響を受けたり儒者孔子に代表される
儒家達が国家古代中国の国家を周の国としてい
る事はよく知られている。周国は文王、武王、
周公、太公望など聖王名君名宰相が排出して
商(殷)国を天命に従い討伐し新しい理想国家
周を打ち立てた歴史経緯が語られ場合が多い
周王朝は岐山から勃興した所謂殷周革命の枠
で語られる場合も多い。岐阜地名一説に信長
が美濃を統治する以前から某寺院に使われて
いたとする説もあるが美濃斉藤氏の稲葉山城
や井口地名を大々的に周が興った岐山に因み
その居城を岐阜と改めた事や周王の如く天下
を平定すべくまた周の武王の如く天下を平定
する事に因み『天下布武』の印判を用い始め
た事も衆知の事であろう。少し話題から逸脱
するが中国の古代思想では地上を統治する人
を王と称し天上に存在する神的存在を上帝や
天帝と呼称していた。明智光秀が丹波に巨大
な周山城を築いている現実や明智秀満の甲冑
の胴に天帝の象徴『天』が用いられている事
にも留意したい。当該甲冑の秀逸さも当世の
具足として群を抜いた秀作であるとも言える。
中国の天命思想とは地上の王が臣民を苦し
める悪政を行った場合空の上の天帝が新し
い地上の王を選定すると言う天命思想だ。
◆安土城天主内装の中国文化
『信長公記』の伝える安土城天主障壁画
では先ず特筆されるべき事は信長が中国の
理想の皇帝三皇五帝を始めとする中国思想
を中心とする障壁画を描かせている事にあ
る。足利義輝、織田信長も中国に聖王つま
り国民を大切にする王が地上に現れた時に
霊獣麒麟が世の中を疾駆すると言う伝承を
元に自らの政治の理想理念を象徴す麒麟の
花押を使っている事にある。私は信長も幼
少期より四書五経を勉学として漢学として
学んだ事であろう。人間の学習や大脳生理
は最初に学んだ記憶が、つまり脳内の記憶
伝達物質シナプスに支配された固定概念や
価値観が形成されて行く信長は漢学により
唐様の文化を志向した人間と類推されよう。
◆周礼、周書、四書五経からの影響
安土城天主閣の方位の設定
正確な方位を設定するには
太陽を利用する方法がある
地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を
描く(全周させなくてよい)午前と午後の
2回、棒の影の先端が円周上にくるとき、
その2点をぶと正確に真東西となる。」
「古くから『周礼しゅらい』を始め中国の
書物に記され簡単で精度も良い事が実験で
も確かめられいます。日本へ中国から書物
が朝鮮半島からの渡来人を通し伝承された」
「東西線を決め直角に振り出すことで南北線
を定める」「3:4:5の直角三角形西洋
で言うピタゴラスの定理、中国では「勾股弦」
こうこげん法として広く知られる)も応用し
安土城天主も設計設定されたと私は類推しま
すが周礼、礼記には、冬至や夏至の測定観測
についても記録されており安土城石蔵の歪な
形状とくに戌亥から辰の方向の斜線とは天主
に差し込む朝日や日没を計測する為の観測点
として西国の暦より東国の三島暦の方がより
いっそう正確であったとされ信長はこの暦を
朝廷に採用または申請あるいは半強要した説
もあります。また天正10年6月1日には日食が
実際に観測され太陽が隠れる現象が起きてい
ます。安土城天主石蔵の菱形は大変不気味で
すが、日食あけて天正10年6月2日に日向守の
ひゆうがのかみ、ひむかしの、日向の官途を
持つ惟任日向守こと明智光秀が突如豹変して
本能寺の織田信長を身体共に灰塵に帰す事を
実施します。言うまでなく本能寺の変です。
安土の菱形の設計の地下室も不気味で謎で
すが明智光秀の使った黒印の菱形印伴も真に
不気味または悪魔的と感じるのは私だけで
しょうか?伝明智秀満甲冑の胸には天道思想
の天の紋様が打ち抜かれ、胴の右にはなんと
「どくろ」の采配を差す為の穴が開いている
事も再度見ておいて下さい。秀満は左馬之助
と言われた人物。江戸時代には「さまのすけ」
と発音したが室町期には「さめのすけ」と
発音した事犬上郡佐目には最古の明智十兵衛
伝承がある事や田畑氏と私はもう既に昔に
佐目の「馬城」なる場所を測量しております。
さて明智秀満の兜を再度見て下さい。ウサギ
の耳ではありませんよ。さてさて『信長公記」
に明智光秀が京都の織田全軍の馬揃えの行事
を織田信長からこの馬揃の奉行に任命されて
います。何も明智に馬揃をさせなくても畿内
には有職故実の智識に長けた武将はいたはず?
また二次史料明智軍記では安土城天主の助言
をするのは荒唐無稽にも明智光秀となってま
す。麒麟の花押を用いる足利義輝の最初の名
は義藤だった。家臣の三淵 藤英(みつぶち
ふじひで)は、戦国時代の武将、室町幕府末
期の幕臣(奉公衆)。異母弟には細川藤孝が
初名は藤之、のち藤英。「藤」の字は将軍・
足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったもの。
と藤だらけ滋賀県犬上郡佐目も室町幕府へと
葛籠を納品していた犬上郡葛籠町の葛籠座で
使う藤は佐目の藤に限定していた事が不思議
です。まあこのお話はこれぐらいで終りです。
▼明智光秀書黒印 菱形の対角線を用いてる。
安土城の地下蔵の形状は四神相応の方位学をも
採用しなが放射線状測量に従った縄張を施工だ。
◆質問者
信長の覇業を継承した羽柴秀吉、豊臣秀吉の天正
大坂城にも放射線状縄張は施工されたのですか?
◆長谷川
勿論言うまでない事、縄張線は天正大坂城でも
ビイスタ工法放射状縄張を駆使して掛線を経由
する城郭の角や隅や要点を貫く縄張をしてます。
▼掛線挿入は長谷川博美
▼〇印が城郭の角や隅や要点を貫く縄張。
◆長谷川
秀吉は関白職を得て関八州の覇者小田原後北条氏
の小田原攻めにおいても石垣山一夜城でビイスタ
工法を駆使して築城をしています。
秀吉は複数の方向から放射線状縄張を実施している。
◆質問者
関白から太閤となった太閤豊臣秀吉は文禄慶長の
役に於いてもビイスタ線を駆使した放射線測量に
基づく縄張を展開していますか?
◆長谷川
勿論ビイスタ工法を天下人豊臣秀吉は駆使します。
▼掛線挿入は長谷川博美
ありがとう
ございます。
今後とも
宜しく。
一名様
ありがとう
ございます。