城郭 長谷川博美 基本記録

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岡崎城と浜松城天守曲輪のビイスタ工法

2022-12-23 05:17:29 | 東海の城 ビイスタ工法

浜松城天守曲輪のビイスタ工法

◆対談者

長谷川先生の城郭ビイスタ論はおそらく戦前

戦後の城郭研究論中でも傑出した理論です!

丸岡城にも「ビイスタ工法」が潜在してます。

なんと言ってもビイスタ線の中軸線センター

インが天守を突き抜けて計画されている事!

◆長谷川

江戸期の享保18年までは放射線城測量方法が

日本国に伝承されていたのですが現代城郭論

としは語られる事がなくなった消滅文化また

は日本の土木建築史に潜む、潜在文化です。

◆長谷川

日本語を深く、あらためて再考致しましょう。

「みため」は見た目=外観を意味する日本語

「かなめ」は集約点=放射線が一点に集まる。

「ながめ」は遠くを長い目で見晴らす事です。

「ななめ」は斜行線の事を言う日本語ですね。

旧来の和語の先祖「ながめ」は本来「長目」

つまり遠い所を目測する見晴を意味する言葉

で「ながめ」を漢字転換する時に眺めの文字

を用いて日本に存在した「見た目」の文化論

を考察する事が大切です。日本の庭園を鑑賞

する場合は「要石」「かなめいし」が大切!

◆長谷川

安土城の石垣墨書に惟住内九

と言う文字が残っていますが

これは放射線測量をした

惟住=丹羽長秀

内 =内衆=内部担当者

九 =九番目の測量線の意味

◆長谷川

なががめが長目か!?江戸の測量方法図では遠距離

の測量視点が必要であり存在したと言う「長目」!

 

▼竹生島宝厳寺の堂塔伽藍配置

 

 

▼竹生島宝厳寺のビイスタ工法「見放ち工法」

◆対談者

いやいや琵琶湖の竹生嶋宝厳寺の極楽橋や堂宇

配置構造にビイスタ工法が駆使されている事を

御教示されて私は衝撃を受けています。私達が

気が付かない視点なんですよ!普段土木建造物

何故?力強い迫力をともなって我々城址を見学

する者を圧倒するのか?戦国時代の変わり兜も

異形を放ち変形した異形の形状は何故均整の取

れた形状とは異なる異常な迫力を放つのかと!?

あの織田信長の安土城天守の異形の天主台石垣

の異様な形状はただ単に自然地形に石垣補強を

しただけの未発達な縄張りと戦前戦後解釈され

て来た訳ですが、長谷川先生の安土城ビイスタ

論の動画を何度、見て衝撃を禁じ得ないのです。

これってスゴイ!日本史の新規観察点の大発見!

と言うか?日本の歴史学者が見落としていた事!

これを発見再考するのは民主主義の善なる民衆!

▼米原学びステーションでの安土城ビイスタ工法

◆みんな

これはスゴイ!まさに青天のへきれき衝撃!

▼安土城 天主台のビイスタ工法

たしかに元の地形は自然なのですが当時の権力

者や土木建築者は自然地形を如何に見栄え良く

強烈な異形の形や光背効果を含めて家臣領民

そして隣国大名間に己の拠点城郭を城示すか?

力強く物々しい迫力こそ戦国城郭の見せ方!

▼丹波 亀岡城のビイスタ工法

◆対談者

長谷川先生と浜松城を見学した際にも浜松城

の天守曲輪の石垣の歪「いびつ」異常な迫力

を感じました。まさか?浜松城天守曲輪にも

ビイスタ工法を密かに採用して築城されてる

可能性はないのでしょうか?私達、日本人の

思考方法は前例の踏襲に固執する模倣型思考

戦前戦後の城郭研究ではビイスタ工法の存在

を顧みない!否定の学問!否定する事により

学問の保守が図られ出版物が販売されて来た

と最近感じます。さあ!あの歪「いびつ」な

浜松城天守曲輪にビイスタ工法があるのか?

 

◆長谷川

困りましたね。浜松城天守曲輪にはビイスタ

構造が絶対ないと否定論を述べる事は子供で

も「イヤ」と簡単に否定論を口先で否定可能

しかしビイスタ工法の存在を発見検証する事

の方が何百倍も難しいと私は考えています。

しかし貴方は浜松城天守曲輪のビイスタ工法

はどうなんだと質問をされたら私は積極的に

検討を試みる事に致します。検討しましょう。

先ず

A赤線の起点から放射状に縄張

B薄緑色起点から放射状に縄張

C青色の起点から放射状に縄張

D赤線の起点から放射状に縄張

以上浜松城天守曲輪はビイスタ工法で縄張された

可能性と天守台が何故?直角を用いた正方形でな

く歪いびつな天守台なのかを検討いたしましょう。

◆一般者

すごいですね!?何故?浜松城の天守台が正方形

でないのか?即刻素人でも解りました納得です!

 

◆城郭研究者

そんなの絶対認めんよ!ふんそんな空論などを?

 

◆一般者

何処かの国の独裁者じやなくて素晴らしい事には

民衆とは率直に純粋に耳傾けるものよ!研究とは

権力や独裁や高慢な精神を行使しようとする人達

の特許や独占じやない訳でしょう?みんなの学問!

▼武田徳川の諏訪原城のビイスタ工法

岡崎城にはビイスタ工法があるのか?

◆質問者

岡崎城にもビイスタ工法が存在しますか検討を!

◆長谷川

いやはや更に難題の質問をされると私は困る!

◆質問者

保守的で消極的な事で日本国の城郭ビイスタ

論は発展進捗しませんでした。長谷川先生の

ような彗星の如く登場した謎の城郭研究家が

是を鮮やかに解明する事を否定されたら学問

本当の進歩はないのですよ!城郭の深淵さえ

解らなくなってしまう!幕末の吉田松陰さえ

日本の城郭には規矩そなわりと城郭幾何学を

佐久間象山のへの書簡で述べてます。規矩は

現代日本語に直すと「幾何学」の事です!

日本男児が日本の城郭の幾何学を解明出来て

いない事自体が日本国の保守性や閉鎖性を

また日本国民の頭脳の硬化を感じさせます。

長谷川先生ならば岡崎城の城郭ビイスタを

解明できるだけの研究家として資質がある!

◆長谷川

そんなもの絶対ないと考えてしまうと人類

とは脳内に強烈な否定の論理や概念が固定

されてしまいます。岡崎城にも三角デルタ

の理想的根本形状を形成する「赤線」また

「青線」の縄張設計基盤を読み取る事可能!

◆みんな

すげえ!やはり長谷川先生はだれも気付か

ない特殊な能力を持っておられる事に驚く!

 

ウイッキペデイアより引用

概要[編集]

浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、

築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏

支配下の飯尾氏が城主を務めていた。この頃の曳馬

城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記さ

れた部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたる。

徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、

浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町

の形成を進めた。徳川家康在城時における浜松城の

具体像は不明確であるが、古文書や出土遺物から現在

の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺える

。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城

であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を

通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から

豊臣色は失われる。江戸時代の浜松城主は九家二十二代

に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変

・改修が進められた。堀尾氏在城期に創建された天守

は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わ

る。以降、天守門が浜松城の最高所に位置する建造物と

いえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であった

ことが窺える[2]

 


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2 コメント

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Unknown (草津宿)
2022-03-27 12:19:10
僕らは上から見た縄張り図を当たり前のように見てるけど、当時の人は上空から城を見ることなど不可能だった。上空から見た曲輪が歪な形になったとしても、誰にも見られない。地上の特定の地点からの見栄えの方がむしろ重要だったんだろう。
そういえば長谷川先生の図面には鳥観図が多い。
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Unknown (匿名)
2022-03-27 08:26:10
すごい!長谷川先生のスゴサよりも長谷川先生の潜在能力を洞察できる優れてた人々が存在する事に大きな意味と驚きがある。誰かが図書館に収蔵された書籍を誰かが丸写し一般人に講義したとて、それは所詮受け売りのコピー学問としか言えません。令和の時代は物真似のコピー学問ではなく気付きの学問を希強く望致します。人が気付かない事に気付ける事が大切です。
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