滋賀県米原市清滝山 登山日記
2020年令和2年某日
滋賀県米原市清滝にある標高438.9mの
「清滝山」に田畑先生と登山する事にした。
ここは鈴鹿山脈の北、東海道本線と国道
21号線に囲まれた独立峰です。
田畑喜久弘先生は現在
NPO法人自然と歴史ロマンの会の理事
余呉城郭研究会の理事を兼任されてます。
ちなみに私長谷川博美は両会には所属を
しておりません。誤解のないようお願い
を申上げます。両会へ講師として行く事
は時にあります。
▼清滝山山頂NHKの中継アンテナ前の田畑氏
※お腹が空いて何故か?NHKのロゴマークが
おにぎりに見えます!?
※この先生は城址見学その他において
数々の登山救助活動をされてその数50
以上になりますが、それを他人に誇り
自慢する事は絶対されまません。自分
の失敗談はユーモアを交えて話されま
すが、自分のなした美談や影の功績は
絶対一切しない男気の人。大河ドラマ
麒麟が来るで言えば菊丸のような謎の
人助けをする景の活躍する人と言って
良いでしょうか?(微笑)特に政治経済
歴史自然など社会観察には優れた観察
眼を持っ人と言える。と私は思います。
清滝山から西北を望むと湖北の戦国絵巻
とも言える古戦場名所旧跡の展望に優れ
ております。この清滝は一時北近江守護
職京極氏の本拠が構えられた場所であり
また江戸時代には坂田郡各所に散在して
いた京極氏の歴代当主の宝篋印塔を清滝
寺の京極氏墓所に整理集合させたと言わ
れております。
▼清滝山より望む湖北の景観素晴らしいです。
眺めを東に転じると!
関ヶ原方面や尾濃の遠望これまた絶景です。
眼下に柏原宿野瀬山こと長比山も見えます。
永禄のその昔、浅井の重臣、遠藤喜右衛門
柏原の成菩提院に宿泊する織田信長を打た
と画策したところ浅井備前守長政是を制止
したとも言われています。もし浅井が信長
を闇討ちにすれば日本史の流れも変わって
いた事でしよう。
また長比城には
元亀元年1570年
織田信長も宿泊しています。
文献『信長公記』に
「たけくらべ・かりやす取出の事
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、
さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、
たけくらべ・かりやす、両所に要害
を構へ侯。信長公御調略を以つて、
を構へ侯。信長公御調略を以つて、
堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日信長公御馬を出だされ、
堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ、か
りやす、取る物も取り敢えず退散なり。
りやす、取る物も取り敢えず退散なり。
たけくらべに一両日御逗留なさる。」と
信長のたけくらべ砦
逗留を記録してます。
なお長比砦の図面は『滋賀県中世城郭分布
調査』坂田郡を参照にしてください。
遠喜こと
遠藤喜右衛門文武に優れた元亀の騒乱
の勇将にして彼の城塞須川山城も非常
に優れた城郭遺跡とも言えましよう?
また多賀大社には遠藤喜右衛門尉直経
の三十六六歌仙絵巻が奉納されてます。
▼須川山城 長谷川博美 鳥瞰図
さても文武に優れ、織田信長を打つ事
に執念を燃やした、猛将、元亀の兵乱
を代表する荒武者、遠藤喜右衛門です
が元亀元年の姉川合戦で信長の眼前ま
で肉薄するも打ち取られると言う武人
として無念の最期を向かえております。
文献『信長公記』らよる遠藤の最期!
「六月廿八日卯刻、巳寅へむかつて
御一戦に及ぽる。御敵もあね川へ懸かり合
ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、
ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、
黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、
爰かしこにて、思ひ貼の働きあり。終に
爰かしこにて、思ひ貼の働きあり。終に
追ひ崩し、手前に於いて討ち取る頸の注
文、真柄十郎左衛門、此の頸、青木所左
文、真柄十郎左衛門、此の頸、青木所左
衛門是れを討ちとる。前波新八、前波新
太郎、小林端周軒、魚住龍文寺、黒坂備中、
太郎、小林端周軒、魚住龍文寺、黒坂備中、
弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門、
此の頸、竹中久作是れを討ちとる。
兼ねて此の首を取るべしと高言あり。」
と我らの遠藤!無念の打ち死にを伝えます。
またみなみな様と、いずれ清滝山に登山
できる機会を私は楽しみにしております。
応援に
感謝致します。