東京埼玉の名城 革新的新研究論で解説
◆質問者
この投稿の趣旨や目的とは一体何でしょうか?
◆長谷川
学術研究を旨とする事を主体においています。
従って全く、営利や利益を目的にしてません
また私は著書や書籍を一切販売していません。
今回埼玉東京の古城を中心とした観光や産業
なども含めた文化文教活動が益々隆盛し社会
が発展する事を慎んで、心より祈念致します。
◆質問者
関東には素晴らしい幾何学的に優秀な縄張
を持つ中世城郭が数多く残ると聞いてます。
優れた縄張を持つ埼玉県、狭山市、柏原の
柏原城に城郭ビイスタ工法が存在しますか?
◆長谷川
卓越した城郭幾何学を持つ城が柏原城と
言えると思われます。先ず赤青緑の3か所
の城郭ビイスタ腺が読み取れると思います。
◆質問者
埼玉柏原城見事な縄張の城ですね!私は
今回城郭ビイスタ論を初めて知り衝撃!
◆長谷川
柏原城他の部位も多数の集束点つまりは
扇の要に相当するビイスタが存在します。
関東東国の中世城郭の平面構造、縄張が
如何に卓抜した幾何学を用いて築城され
ているのかず確実にビイスタで解ります。
◆長谷川
何れにしても比企柏原城は日本全国的視点
から見ても非常に見事にデザイン縄張され
た城郭で横矢や虎口の配置も含め実に巧妙
な高度な幾何学設計の縄張の城と言えます。
【歴史】 天文六年(1537年)七月に北条氏康
の手に落ちた河越城を奪還すべく、天文十四年(15
45年)九月から半年位、山内上杉憲政が陣を敷いた
といわれる。天文十五年(1546年)四月、山内・
扇谷上杉・古河公方の三連合軍が北条氏に敗れた
「河越城の戦い」の後は、おそらく北条方に移ったと
思われる。『狭山市教育委員会説明板』より。
以下ウイッキペデイアより引用
上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から
関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督
相続をめぐり争われた御館の乱で戦死した。
◆質問者
埼玉 滝の城にも城郭ビイスタは存在しますか?
◆長谷川
やはりビイスタ工法を採用した素晴らしい城で
1~6点は素晴らしいビイスタ工法と思います。
様々なビイスタ工法の要素を巧みに採用した城。
▼滝の城 ビイスタ工法 壮大な縄張構想です。
▼ウイッキペデイア滝の城より引用
配下となり北条氏照の支城になった。 氏照は本
拠の滝山から北関東に度々出陣しており、その
直線上にあたる滝の城は軍勢集結の拠点になった
遠征の際にはこの城で陣揃(じんぞろえ)が行
われたことが記録されている。その後1590年
、浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面
の関東入国の領内整備の頃には廃城となったと
推測されている。
◆質問者
比企松山城にもビイスタ工法は存在しますか?
◆長谷川
先ず中央放射型ビイスタが比企松山城に存在します。
山城の縄張りとはアバウトな縄張であると言う認識
は改め非常に幾何学理論を駆使した土木構造物だと
再認識する必要があろうと思います。山城=人口
土木工学の測量技術の粋を結集した都市計画構造
◆余談者
『吾妻鑑』に登場する「鎌倉城」とは巨視的「マクロ」
な視点で考察すれば関東武者の府都とも言える鎌倉の
是単体像はビイスタ工法や弧度法を応用した都市計画
を施工していますか?
◆長谷川
鎌倉七口をはじめ若宮王子は鎌倉城の広義で言う
都市の中軸腺にした見事なランドスケープ計画!
さて武蔵比企松山城も城郭中央にビイスタ起点が
◆長谷川
重複型ビイスタ工法も比企松山城には存在します。
◆質問者
重複型ビイスタ工法や関東の城郭の縄張系譜を
ひく日本を代表する天下の城はあるのですか?
まあ江戸期には重複型ビイスタで城測量して
ましたからこの測量法は極めて根源的と言う
か城郭研究の根源的本道や正当だと私は最近
長谷川先生のブログを見ると強く思ういます。
◆質問者
武蔵川越城にビイスタ工法は使われていますか?
◆長谷川
川越市の益々の観光の隆盛を願って書きますが
川越城の登城の主軸を基本においた「城道」に
関わるビイスタ工法は下図の如くになります。
また稲荷郭を中芯としたビイスタ工法も読み取れます。
更に黄色の腺で表したビイスタ工法腺も読み取れます。
◆ウッイキペデイアより川越城の戦いを引用
河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、
の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の
当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配
(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。
「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局
を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年
戦)の一つ「河越夜戦」[注釈 1]である。ただし、
この河越夜戦の実態は史料が少なく不明瞭であり、
その存在自体を否定する説もある(#河越夜戦に
関する議論)。本稿では河越夜戦について詳述する。
収めた戦いである。
◆質問者
太田道灌の築城逸話また後北条氏が獲得し更に
関東に入部した徳川将軍の江戸城にもビイスタ
工法は使われていまいすか?
◆長谷川
関東の城の系譜を江戸城が脈々と継承し
受け継ぎながらも、三河徳川の城の系譜
も織り交ぜて築城をしていると思います。
▼重複型ビイスタ工法 江戸城
▼扇型ビイスタ工法 江戸城
▼重複型ビイスタ工法 江戸城
◆対談者
長谷川さんの城郭ビイスタ論とは異質で特異な
城郭学問体系でない事は近畿や九州の城を見て
も充分に納得肯定が出来得る学説だと思います。
少しオバーな表現かもしれませんが、令和城郭
研究の地平線と言うか新しい画期的な城郭研究
の萌芽または日本の城郭の糸口が見えてきたと。
▼織田信長 安土城 扇型城郭ビイスタ論
肥前名護屋城 太閤豊臣秀吉の城 ビイスタ工法
◆質問者
同じく埼玉の杉山城にもビイスタ工法存在
致しますか?杉山城は関東最高峰の技巧の
縄張と言われており長谷川先生の解説希望!
◆長谷川
複数のビイスタ工法が存在すると思います。
▼放射状扇型ビイスタ「杉山城」
▼中央放射型ビイスタ工法「杉山城」
以下杉山城ウイッキペデイアより引用
築城の主や年代についてはほとんど分か
れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧
妙なため、後北条氏の時代に造築された
ものではないかとの見方が有力であった
からは、山内上杉氏時代の城である可能性
が強くなっている。この縄張りを主とする
城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違
を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に
史学的観点を含めた見解の相違へと深化し
ている。