★ プログ読者様への御願い
以下の投稿を連続で掲載いたしました。
必読のものは星の数で表現しています。
重要です!是非この機会に一読下さい。
★★★★横山城出丸発見と田畑喜久弘氏
★★★★蒼然!犬上御田鋤!と犬上郡田畑喜久弘氏の活躍!
★★★★★山本山城見学会2020/2/1予定 賎ケ岳城余談
★★★★★平原弥生古墳の謎。安土城天主台の謎。
★★★★膳所、安土、和歌山、大阪、黒井、玄蕃、菅谷各城郭の縄張り
★★★★★丹波黒井城の縄打
明智光秀の身分は高くなかった。随分の意味を解釈する。
◆先ず文献『信長公記』の天正7年の記録には随分の文言
とその意味が判明する文献が存在する。
◆『信長公記』天正7年の記録は
「赤井悪右衛門退参の事
八月九日、赤井悪右衛門楯籠り侯
黒井へ取り懸け、推し詰め侯とこ
ろに、人数を出だし侯。則ち、
焜と付け入るに、外くるはまで
込み入り、随分の者十余人討
ち取るところ、種々降参侯て、
退出。惟任、右の趣、一々
注進申し上げられ、永々、
丹波に在国侯て、粉骨の度々の
高名、名誉も比類なきの旨、忝くも
御感状くだしなされ、都鄙の面目、
これに過ぎず。」
とある。
◆『信長公記』解説者長谷川としての解説
①赤井悪右衛門=(赤井 直正(あかい なおまさ)の事
②退参の事=城から敵が退き逃げる事
③八月九日=天正7年 西暦1574年
④楯籠り侯=籠城による立て籠もり
⑤黒井へ取り懸け=丹波黒井城攻略に着手した事
⑥推し詰め侯とこ=黒井城の包囲戦になった事
⑦数を出だし侯=明智、惟任方が黒井城に出撃した
⑧則ち、焜と付け入るに=時の声を上げて突撃させ城に付け入った
⑨外くるはまで込み入り=黒井城の外曲輪=外郭まで攻め込んだ
⑩随分の者十余人=赤井氏に随う者、家臣10余人
⑪討ち取るところ、=打ち取ったところ
⑫種々降参侯て、退出=籠城中の様々な人が降参し退城した
⑬惟任、右の趣、=惟任光秀、明智光秀右の様子を
⑭一々 注進申し上げられ、=ヶ条書きにし織田信長に戦況報告した
⑮永々、丹波に在国侯て、=光秀は長期的に丹波の国に滞在して
⑯粉骨の度々の高名、=身を粉にして戦い数々の功名を立てた
⑰名誉も比類なきの旨、=その名誉は他と比べようもない様子だった
⑱忝くも御感状くだしなされ=主君信長んら光秀に忝けない感謝状がだされた
⑯都鄙の面目、これに過ぎず。=都も田舎も日本全国に明智の面目に過ぎたものがない
◆随分の意味と解釈がこの文面では違い
「随分の者」の意味が明確に記録されて
いる。つまり
丹波黒井城の城主で地方領主たる
赤井悪右衛門(赤井 直正(あかい なおまさ)
はこの文面からは丹波黒井城の領主や
城主で殿とよばれる当時の社会階層である。
随分の者とは当時明智方に
打ち取られた、領主赤井氏に従属する
す立場の赤井氏の家臣10余名である事
が上記の文面からは明らかである事が
判明する。
すなわち信長と同じ時代を生きた
太田牛一の言う随分の者の意味は
領主赤井氏ではなく赤井氏に従属
者の家臣の10余名である事がこの
文面からは明白に解明できる。
◆『太田牛一旧記』
同じく太田牛一の著述『太田牛一旧記』では、
朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」
とある。
つまり明智光秀は越前朝倉氏に仕官奉公していた
時期においても光秀自自身が一人の従者を従える
程度のの軽輩であったと書き記している。
◆『立入左京亮入道隆佐記』
また同時代を生きた近江国の住人
立入左京亮入道隆佐による日記には
『立入左京亮入道隆佐記
(たていりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』には
明智光秀の事を「美濃国住人ときの随分衆也」と記述
しており、太田牛一『信長公記』や同じく同氏の記し
はた『太田牛一旧記』の記述に従う限り明智光秀の元来
の身分は美濃土岐一族の随分の衆と言う事になり、領主
、殿様階層の個人ではなく、衆つまり領主に随う集団の
一員と言う事になり「随分」つまり美濃土岐氏に随行す
る身分の低い明智光秀と言う従者つまり随分の衆であっ
た事が判明するのである。立入や太田の言う隋とは、
つまり高い身分が高い意味ではなく美濃土岐の随員や
随行者「おつき」随伴者と言う意味で使われいると私
長谷川は解釈する。大名家に出仕する御伽衆や同朋衆
や馬廻衆の意味は決して大名家や領主階級でなく従者
である事を認識しておきたい。
これは貴人や当時の殿階級の従者であると
考えるべきと思われる。おつきの者とは
即ち従者随員で室町時代の中間に相当する
ものであろう。また光秀と同時に記された
一級史料『多門院日記』に明智光秀が細川
氏の「中間(ちゅうげん)」と記している。
以下の投稿を連続で掲載いたしました。
必読のものは星の数で表現しています。
重要です!是非この機会に一読下さい。
★★★★横山城出丸発見と田畑喜久弘氏
★★★★蒼然!犬上御田鋤!と犬上郡田畑喜久弘氏の活躍!
★★★★★山本山城見学会2020/2/1予定 賎ケ岳城余談
★★★★★平原弥生古墳の謎。安土城天主台の謎。
★★★★膳所、安土、和歌山、大阪、黒井、玄蕃、菅谷各城郭の縄張り
★★★★★丹波黒井城の縄打
明智光秀の身分は高くなかった。随分の意味を解釈する。
◆先ず文献『信長公記』の天正7年の記録には随分の文言
とその意味が判明する文献が存在する。
◆『信長公記』天正7年の記録は
「赤井悪右衛門退参の事
八月九日、赤井悪右衛門楯籠り侯
黒井へ取り懸け、推し詰め侯とこ
ろに、人数を出だし侯。則ち、
焜と付け入るに、外くるはまで
込み入り、随分の者十余人討
ち取るところ、種々降参侯て、
退出。惟任、右の趣、一々
注進申し上げられ、永々、
丹波に在国侯て、粉骨の度々の
高名、名誉も比類なきの旨、忝くも
御感状くだしなされ、都鄙の面目、
これに過ぎず。」
とある。
◆『信長公記』解説者長谷川としての解説
①赤井悪右衛門=(赤井 直正(あかい なおまさ)の事
②退参の事=城から敵が退き逃げる事
③八月九日=天正7年 西暦1574年
④楯籠り侯=籠城による立て籠もり
⑤黒井へ取り懸け=丹波黒井城攻略に着手した事
⑥推し詰め侯とこ=黒井城の包囲戦になった事
⑦数を出だし侯=明智、惟任方が黒井城に出撃した
⑧則ち、焜と付け入るに=時の声を上げて突撃させ城に付け入った
⑨外くるはまで込み入り=黒井城の外曲輪=外郭まで攻め込んだ
⑩随分の者十余人=赤井氏に随う者、家臣10余人
⑪討ち取るところ、=打ち取ったところ
⑫種々降参侯て、退出=籠城中の様々な人が降参し退城した
⑬惟任、右の趣、=惟任光秀、明智光秀右の様子を
⑭一々 注進申し上げられ、=ヶ条書きにし織田信長に戦況報告した
⑮永々、丹波に在国侯て、=光秀は長期的に丹波の国に滞在して
⑯粉骨の度々の高名、=身を粉にして戦い数々の功名を立てた
⑰名誉も比類なきの旨、=その名誉は他と比べようもない様子だった
⑱忝くも御感状くだしなされ=主君信長んら光秀に忝けない感謝状がだされた
⑯都鄙の面目、これに過ぎず。=都も田舎も日本全国に明智の面目に過ぎたものがない
◆随分の意味と解釈がこの文面では違い
「随分の者」の意味が明確に記録されて
いる。つまり
丹波黒井城の城主で地方領主たる
赤井悪右衛門(赤井 直正(あかい なおまさ)
はこの文面からは丹波黒井城の領主や
城主で殿とよばれる当時の社会階層である。
随分の者とは当時明智方に
打ち取られた、領主赤井氏に従属する
す立場の赤井氏の家臣10余名である事
が上記の文面からは明らかである事が
判明する。
すなわち信長と同じ時代を生きた
太田牛一の言う随分の者の意味は
領主赤井氏ではなく赤井氏に従属
者の家臣の10余名である事がこの
文面からは明白に解明できる。
◆『太田牛一旧記』
同じく太田牛一の著述『太田牛一旧記』では、
朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」
とある。
つまり明智光秀は越前朝倉氏に仕官奉公していた
時期においても光秀自自身が一人の従者を従える
程度のの軽輩であったと書き記している。
◆『立入左京亮入道隆佐記』
また同時代を生きた近江国の住人
立入左京亮入道隆佐による日記には
『立入左京亮入道隆佐記
(たていりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』には
明智光秀の事を「美濃国住人ときの随分衆也」と記述
しており、太田牛一『信長公記』や同じく同氏の記し
はた『太田牛一旧記』の記述に従う限り明智光秀の元来
の身分は美濃土岐一族の随分の衆と言う事になり、領主
、殿様階層の個人ではなく、衆つまり領主に随う集団の
一員と言う事になり「随分」つまり美濃土岐氏に随行す
る身分の低い明智光秀と言う従者つまり随分の衆であっ
た事が判明するのである。立入や太田の言う隋とは、
つまり高い身分が高い意味ではなく美濃土岐の随員や
随行者「おつき」随伴者と言う意味で使われいると私
長谷川は解釈する。大名家に出仕する御伽衆や同朋衆
や馬廻衆の意味は決して大名家や領主階級でなく従者
である事を認識しておきたい。
これは貴人や当時の殿階級の従者であると
考えるべきと思われる。おつきの者とは
即ち従者随員で室町時代の中間に相当する
ものであろう。また光秀と同時に記された
一級史料『多門院日記』に明智光秀が細川
氏の「中間(ちゅうげん)」と記している。
良いね一名様
真にありがとう
ございます。
一名様
ありがとう
ございます。
グッド
ありがとう
ござます。
感謝します。