この記事のおおすめ度
五段階で★★★★★星5
表題『城郭雑談』 世間虚仮 唯仏是真
副題(彦根犬上坂田)
一般者
長谷川先生!こんな城なんて
チョロイもんです?甘いよな!
雑談者
君の方がチョロイいんじやない?
一般者
チョツト見る甲斐のある城かな?
長谷川
城址って精妙に当時のハイテクで
普請され縄張り縄打ちされてます。
ベテラン様
縄張りはあるが縄打ちはありません。
なかま
ありますよ。しっかりして下さい。
一般者
ぎよえ~っ俺は全然追随出来ません!
ジヤズ、フュージョンで言うならば
マイク、スターンの36音符連発だ!
これがあの!城郭伝説で聞くあの?
長谷川先生の縄張の魔術師なのか?
信じられん!
雑談者
このブログのコメと良いねしてる人
は只者じやないですよ!深いのです。
剣道で言えば吉岡憲法とか宮本武蔵。
項羽か劉邦か、どちらでしょうかな?
雑談者
長谷川先生の言葉
私の城郭の先生は
唯一城郭こそ私の先生
と言われた言葉が最近
非常に私は
重く、深く、
感じてます。
世間虚仮 唯仏是真
せけんこけ ゆいぶつぜしん
先生も此の発想も
この言葉に通じる。
世間とは人を見る目がない。
仮りそめの嘘のようなもの
仏こそが真実という意味?
世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。」
聖徳太子『大日本仏教全書』第112巻P.46
先生の小説『近江商人轟陣兵』も
自分の利益より社会の為必死に働く
涙の中に流れる真心が溢れています。
長谷川
いきなり重い哲学のような事言わずに気楽に!
雑談者
長谷川先生今回は雑談で御願い致します。雑談
とは言え長谷川先生の言及には、含みや、深淵
が含まれており驚くべき事を平気で言われます。
長谷川
今回は固くならず気楽に宜しくお願い致します。
雑談者
さて私としては城郭ブームや明智ブームが到来
すると予測されるが、長谷川先生が講師として
登場されない事に強い不満やストレスを感じて
ます。長谷川先生支持派として「はがゆい」事
解りますか?この気持!それそこに実績がある
のに皆が気付いてくれない。大衆が気付ない事。
長谷川
そうですか?人生は何事も気軽に行きましょう。
ブームは一時的、流行で研究は地味な継続です。
雑談者
最近明智光秀が近江国犬上郡多賀町の佐目に
ゆかりがあると言う説がありますが、これらの
伝説や中世城郭も長谷川先生がもう数十年前
から取り組まれ、その現場を何度も体験した。
長谷川
そんな事もありましたね、研究は今後も続け
ます。研究は一時的ではなく地味な継続です。
有名になりたいとか一躍脚光を浴びたいとか
とは異なるブームや流行と、別の地道な世界。
雑談者
私は彦根犬上郡には優れた築城家や建築家の
集団が昔から、必ず居たと思っております。
私は昔坂本城に行った時に下坂本の東南寺
に坂本城の石碑が存在、ここが古く文人墨客
の訪れた坂本城だと思っているんです。湖畔
じや無く、その中心は今も陸と思っています。
長谷川
しかし石垣が下坂本の湖畔から渇水時に出たり
しました、文献等を読むと坂本城から直接舟に
乗って安土城に信長が帰る記事や軍記ものや
宣教師の記録に明智の坂本城の最期は城内から
琵琶湖へ宝物を投げ捨てたと記録されている事
に影響されたものと思います。また江戸期の
坂本城は近江国明細図にもあたかも坂本城は湖中
にある如く記録されている事も坂本城湖中説に
影響を与えている事でしょう?
長谷川
近江国明細図には歴史的に意味深い地名が頻出
先ず穴太「あのう」石垣職人を表わす地名
比叡辻「ひえの辻」比叡山延暦寺のお膝元
上坂本、下坂本、これは比叡山に登る正面の通路
雲母坂「きららさか」を暗喩する比叡山のへの道
を意味する「さかもと」
文字が切れているが「しなのわたし」は古来有名
唐崎松「からさきの松」半島状に琵琶湖に突き出
ており古来より文人墨客の憧れの名所旧跡
地図の南志賀の文字にも注目滋賀県の起源は
近江国の志賀に由来する。
坂本城近江国明細図
雑談者
私は解せません!なぜ江戸時代の文人墨客らが
下坂本の東南寺付近を目指したのか?坂本城の
石碑は元とは言えばその近辺にあったものです。
長谷川
貴方の力説は解りますよ、江戸時代にも江戸城
に浜御殿と言う江戸湾を望む場所に別亭が存在
した、それをちなみに現代人は江戸の本丸とは
言わない。それは浜御殿でやがて皇室の浜離宮
として活用されている。徳川幕府の雄藩に相当
する彦根城だって琵琶湖畔の松原に彦根藩当主
の別邸、浜の御殿が存在した。しかしだれもが
彦根松原の浜御殿を彦根城の本丸とは言わない
事に貴方は着目している訳ですね?
雑談者
長谷川先生!ズハリ、坂本城には浜御殿の様な
本丸とは異なる、別郭があったと思いますが?
長谷川
あなたの論説はボケた様でスルドイと言えます!
何故ならば山科言継らの、日記には坂本城には
「浜の座敷」と言うものがあり、そこで宴会が
実施されたと記録しています。つまり坂本の浜
は本丸とは別に浜の座敷があった事が判ります。
雑談者
それに明智光秀は織田信長の安土城より早くも
天正2年か3年頃に天主閣を築いた事が記録に
あると言います。この坂本城は江戸城や彦根城
のルーツや先祖と言える近世城郭の祖先だった
と思うのですが?
長谷川
そうです『兼見卿記』には既に天正の早い段階に
で天主や小天主を明智光秀が坂本城に上げた記録
が残っていますので、この坂本城は安土城よりも
早い近世城郭の先祖と言う事がいえましょうか?
とにかく天正の早い段階で大小天主を城内に上げ
た明智の先進性には日本城郭史上着目すべき記録
です。この明智の大小天守の発想がどこから来た
もののか考察する事も重要な城郭史かと思います。
足利義満の北山第にあった金閣と見鏡閣なのか?
長谷川
さて『信長公記』でも信長の在佐和山を記して
おり佐和山城が信長の居城であった時期を歴史
家は見逃されていると思います。有名な信長の
大船も尾張の宮大工岡部又衛門のプロジェクト
で推進されている事にも着目したい。もっとも
この大船の材木を、多賀方面から芹川を流して
松原で組み立てた事も犬上郡を考える上で重要。
雑談者
近江国犬上郡藤堂村から出た藤堂高虎が最初は
浅井長政の小姓として小谷城で仕えた事は重要
かと思いますが?
長谷川
そうですね!この小谷城とは驚くべき巨大城郭
で鐘の丸こと小谷城本丸は天主郭とも言っても
過言ではない、非常に先駆的な城郭や殿舎群を
備えた城郭だったと私は調査を踏まえて推定を
しておます。少年期の高虎に与えた城郭普請の
基礎を形成したのが小谷城だった可能性もある。
小谷城推定復元図
雑談者
藤堂高虎は浅井氏小谷城、阿閉氏、山本山城、
木の目城要塞郡、織田信澄の近江高溝城の
検分をしていると思います。そして羽柴秀長
に属して三重県の赤木城を普請したり和歌山
城などの普請なども検分した事でしょう。
また自らの城としては、今治城も伊賀上野城、
津城なども築城に次々と手掛けた人ですよね?
私は高虎が犬上郡出身である事に注目します。
やがて徳川家康の築城ブレーンとして採用され
て行く驚くべき過程を見逃してならないと思う。
高虎の令和創作能
長谷川
そもそも藤堂高虎の築城術の根底を支えていた
職能集団は近江犬上郡に、築城ルーツを持って
たと私は思います。まず犬上の巨大城郭として
一時近江守護職に室町幕府から任命された京極
政経の500メールにも及ぶ巨大土塁と角馬だしの
原型と思われる遺構のある多賀山中の桃原城や
犬上郡甲良の京極氏に関係する多賀京極系の城
勝楽寺の後世石垣も見落としたくはありません。
▼勝楽寺城
▼勝楽寺
雑談者
明智光秀と藤堂高虎の接点は全くゼロですか?
琵琶湖の湖東と湖西は全く無関係世界ですか?
長谷川
奇妙な視点だが考えさされる視点です。近年明智
光秀の永禄9年頃湖西の田中の城にいた事が話題
になってます。『信長公記』には信長は彦根松原
で建造した大船で高島郡を攻略し、明智光秀には
志賀の木戸城や高島の田中城を下賜されています。
何故明智光秀が高島田中の城を与えられたのか?
天正元年には一旦浅井方であり佐和山城主だった
磯野丹波守を信長は一度高島郡を与えますが磯野
丹波守の養子として津田七朗兵衛信澄に与え大溝
城を作らせ是を与えます。これ織田信澄の事です
が、彼は元は信長の実弟で彼の父は有名な末森城
城主で一時織田弾正とも名乗っていた人物で文献
等では織田信勝とされる勘十郎信行の事ですが、
彼の息子が柴田勝家の元で養育され近江大溝城主
織田信澄となります。一説に信澄の妻は明智光秀
の息女であり伝説では石垣天守台の残る大溝城は
明智光秀の縄張りと言われております。藤堂高虎
が大溝城の普請に関わった記録はありませんが
藤堂高虎は織田信澄に使えていた事は確かでしよう。
藤堂は明智との交流や明智の築城技術を吸収する
だけの技量は持っていた可能性があります。それと
もう一つ犬上郡の後三条町は、つまり彦根後三条町
は高島郡の飛び地であると『淡海温故禄』に記録さ
れてます。また鈴鹿山系八風峠で織田信長を鉄砲
で狙撃した、杉谷善住坊が何故か高島郡に移住した
磯野丹波守から織田信長へと護送されている事も
気になります。
雑談者
これは摩訶不思議大変面白いですね?明智光秀と
犬上郡の藤堂高虎とは接点が全くないように思う
のですが長谷川先生のお話を聞くと意外な歴史が
ある事に歴史の面白さを不思議さを感じてしまう。
さてさて日本海に住んでいた野々口丹波守と言う
明智光秀の家臣の事も御存じですか?
長谷川
大変不可解な事ですが明智光秀が織田信長から
天正年間初頭に高島田中の城と志賀郡に木戸の
城も貰っている事は『信長公記』には記されて
いる。また誤伝であろうかと思われる記録には
大津市の城郭遺構 野々口山城は『近江輿地志略』
「野々口丹波守. 城屋敷遺跡」とあるんです。
明智光秀が木戸城を攻略する時いずこに附け城を
普請したかは解明されていまんせん。木戸城に近
い歓喜寺城や野々口丹波の山城は歴史の誤伝かも
しれません。しかし滋賀郡の野々口丹波の大津の
山城を私が調査しましたら概ね永禄元亀の頃の城
だと推定される構造なんですが、明智が坂本城に
大小天守を構築した如く大津の野々口丹波の城は
土の櫓台や(天守の原型かと思われる)ものが比良
山系木戸方面に土塁を堅固に普請して存在する事
に驚いたんです。その縄張りは並の中世城郭では
ない非常に進歩的驚くべき城です。少し進歩し過
ぎている。出来が良すぎるんです。比良三千坊の
ひとつと解釈するには屈曲した導入経路が見事す
ぎる。天晴な城郭遺跡と言えますよ。一級品だ!
雑談者
これは、ひょつとするとグレードの高い古城かも
知れませんね?さて野々口丹波守の津田氏と関係
あるのでしょう?
長谷川
私は興味がありません。後世の武士、津田信正は
元和3年(1617年)に生れた人です。主君は徳川
光友で信正自身は尾張藩士で妻は野々口丹波守娘
とあります。このは話は本題と関係ないので終了。
長谷川
しかし織田信澄の息子の長男の昌澄は一時期信澄
に仕えていた藤堂高虎の斡旋を受けて、豊臣秀吉、
そしてその死後は豊臣秀頼に仕えたと言う事です。
織田信澄と藤堂高虎には接点があつた可能性有り。
雑談者
その巨大さにおて近江鎌刃城を凌駕し小谷城に
も肉薄する男鬼入谷城にも築城や茶湯の文化の
跡が明白だと私は思います。いったい何故あの
山峡に所在する城に、天目茶碗を使い生活して
いた人々が中世にいた事自体が驚くべき事です。
またあの居城に住まいする人々を支える水田は
犬上郡と坂田郡から得たものと思われますね?
長谷川
つまり坂田郡と犬上郡の両郡を押える統治する
城といえましょうか?
男鬼中心部
長谷川
天目茶碗の採取も驚くべき事ですが、この男鬼
城こそ大小天主の祖形ひとつと私は思ってます。
勿論その城郭の様式は中世城郭の系譜そのもの
ですが天主と目される大櫓と小櫓を連結する様
子は驚愕すべきものがあります。また大櫓へと
登閣すべきところには石段も残っている事には
更に驚きます。先に述べました大津市旧志賀郡
の野々口丹波山城も再度注目して下さい。
雑談者
ちなみに犬上郡と坂田郡の境に所在する佐和山
と城の城下町からも天目茶碗が出土しており茶
湯の文化が彦根犬上坂田に続いた事を彷彿とさ
せます。
▼佐和山城下 天目茶碗「令和の時代の行政発掘」
長谷川
それにしても男鬼城の壮大さは通常の中世城郭
の三倍に相当するもの
西峯の城、中峯の城、東峯の城と壮大な規模の
城。この城の築城主体は一時浅井氏により零落
の憂き目を見た京極氏が浅井久政の時代に再び
その勢力を一時盛り返した京極高廣の可能性も
あろうかと思います。
男鬼城全体イラスト
雑談者
それにしても巨大すぎる。壮大すぎる城跡です。
地誌類の伝承ではこの男鬼城の城主はだれです?
長谷川
川原豊後守とも言われています。これ例の高虎
つまり藤堂高虎と連携して徳川幕府の御殿作事
をした河原豊後守つまり甲良豊後守なのか全く
解っておりません。またこの城は坂田郡に含ま
ており現在は彦根犬上に所属する謎の巨大城郭。
雑談者
さて明智光秀の出身地が近江犬上郡佐目かと?
とする伝説もあるらしいのですが文献によると
明智は確実に大小天守を坂本城で上げています。
私は彦根犬上郡境にも、大小天守を上げた例が
あるのではないかと思うのですが、いや是は
私の単なる私個人の幻想かもしれませんが?
長谷川
多賀大社社頭絵図にある、澤山城と表記された
謎の城郭は大小二つの天守閣を備えてますね!
澤山絵図
雑談者 ▲
うわあ~これすごい!石田三成の佐和山城の時
よりも以前の織田信長とか堀尾氏か堀秀政時代
の天守でしょうか?ワクワクする絵図ですね!
長谷川
実は佐和山城址にはいつの時代のものか不明な
がら天守基壇の痕跡は認められます。勿論是を
最初から全然現地を観察する気が無い人に千度
話しても言っても始まりませんが、堀尾吉晴の
築いた出雲の松江城とも類似点、附け矢倉には
類似点がうかがえます。出雲は京極の時代そし
て尼子氏の時代にも近江と交流を持っています。
最も尼子氏自体が近江国犬上郡甲良町の出身で
ありまた堂高虎の出身地藤堂村の在士と極めて
近隣の集落とも言えます。
松江城天守▼
▼佐和山城中心部推定復元イラスト長谷川博美
雑談者
藤堂高虎を支えていた武将の藤堂式部とは
元来どこの出身の武士なのですか?
長谷川
『江州佐々木南北諸氏帳』には坂田郡と犬上郡
の境界にある磯山城主に磯崎金七を当てています。
また磯崎氏は宮士と表現されていて磯崎神社神職
も兼ねていてたと推測されます。この犬上郡と
坂田郡郡境にいた人物が藤堂式部と思われます。
また藤堂高虎の父、藤堂虎高に因む磯山城の名前
が「虎ケ城」つまりは磯山城と言われています。
この城も坂田郡と犬上郡の郡境に位置している事。
雑談者
藤堂高虎談議にもどります。高虎は羽柴秀長
の次には誰に仕えたのですか?
長谷川
当時の中納言羽柴秀保に従えました。秀保とは
秀長の養子で大和の国を領有しており、秀保は
文禄慶長の役の時に豊臣秀吉の肥前名護屋城の
普請に関わった人物とされてます。これは勿論
藤堂高虎も層塔式の肥前名護屋城の天守の造り
や主君秀保の陣屋作事や、その縄張り普請にも
関わった可能性があろうかと思います。この件
は私のブログ九州の織豊系陣城と近畿の織豊系
陣城を是非再読してみて下さい。肥前名護屋城
は黒田官兵衛の縄張りとも言われますが?
雑談者
以下の図面シンプルながら素晴らしい簡潔かつ
非常に優れた秀保の陣城だと私は思います。
長谷川
藤堂高虎の縄張りは徐々に加藤清正らの戦闘を
極力意識して縄張りしたものよりも丹波篠山城
などの政庁として居住空間を活かせる幾何学的
な縄張りへと、変化して行ったと、思われます。
つまり戦国よりも江戸時代のニーズに対応した
株式会社藤堂建設として河原豊後守らとセット
の職能集団社長として頭角を現して来た人です。
▼羽柴秀保陣城
▼羽柴秀保陣城平面図
雑談者
さてさて再度近江佐和山城の話題に戻り堀秀政の
佐和山時代のお話をして下さい。
長谷川
雑談なんでアバウトにさせて頂きますが、天正11
年の賎ケ岳合戦の時には堀秀政は羽柴秀吉方武将
として北近江伊香郡余呉東野山に見事な陣城構築
を致します。はっきり言ってこの城100点満点の
120点で小学校でいえば「出来過ぎ君」の作った
城と思います。まさに秀才!流石は名人久太郎!
当時の堀秀政の拠点が佐和山城である事が重要!
一般者
何でこの城が素晴らしいのか解らないのですが?
雑談者
一見して解るでしよ?こんな城は最新型の城!
つまり織豊系陣城の傑作縄張りの陣城ですよ!
▼東野山城イラスト
長谷川
天正11年の当時の築城術として後の城の縄張り
の模範、見本、鑑となる、様々な縄張り技術が
凝縮されているんですね。堀秀政は優秀な武人。
▼東野山縄張図
ボケナスおじさん
料理リポーターで言うと「ひこまろ」さんの言う
味の宝石箱や!これは陣城の宝石箱なんですか?
雑談者
冗談ぬきで本当に賎ケ岳合戦の陣城はスゴイです!
長谷川
ここで大事な事を忘れないうちに記しておきます。
天正11年堀秀政は近江坂田郡と犬上郡に佐和山城
の城主として鳥居本の大工を使って佐和山の御殿
を普請した記録が残ってます。鳥居本は現在彦根
市ですが元来坂田郡鳥居本でして注目したいのは
鳥居本小野の大工。彦根城なども彦根大工ですが
鳥居本から彦根に城下町は移住させられた事です。
鳥居本と言えばだれが有名かと言う事になります。
先般発掘された発掘現場の近辺も百々町筋です。
雑談者
日本の名築城家としては、黒田官兵衛、藤堂高虎、
加藤清正、明智光秀、百々三河守、丹羽長秀も入
る何せ、安土城の普請奉行でしたからね。それに
百々三河守とかいう岐阜の武士も名築城家だった
と聞いています。有名な山内一豊の高知城縄張り。
長谷川
百々三河守ってもともとどこの武将だったと思い
ますか?
雑談者
あっ!鳥居本の百々屋敷!浅井氏の時に佐和山
の城主も務めていた一族だと思います。つまり
この彦根犬神郡坂田郡近辺には築城や建築技術
に非常に優れた技能集団がいた可能性が高い!
最近鳥居本に百百百百と書いて「どどもも」と
言う蕎麦屋さんが出来たと聞いておりますよ。
長谷川博美図
玄蕃尾城「賎ケ岳合戦」柴田勝家 天正11年
肥前名護屋城「文禄慶長の役」豊臣秀吉
安土城のビスタ線 長谷川博美線挿入作図
「天正7年」完成近江安土城」織田信長指示
普請奉行 佐和山城主 丹羽長秀、
天守作事 岡部又衛門のプロジエクト
▼
玄蕃尾城 長谷川博美作図
五段階で★★★★★星5
表題『城郭雑談』 世間虚仮 唯仏是真
副題(彦根犬上坂田)
一般者
長谷川先生!こんな城なんて
チョロイもんです?甘いよな!
雑談者
君の方がチョロイいんじやない?
一般者
チョツト見る甲斐のある城かな?
長谷川
城址って精妙に当時のハイテクで
普請され縄張り縄打ちされてます。
ベテラン様
縄張りはあるが縄打ちはありません。
なかま
ありますよ。しっかりして下さい。
一般者
ぎよえ~っ俺は全然追随出来ません!
ジヤズ、フュージョンで言うならば
マイク、スターンの36音符連発だ!
これがあの!城郭伝説で聞くあの?
長谷川先生の縄張の魔術師なのか?
信じられん!
雑談者
このブログのコメと良いねしてる人
は只者じやないですよ!深いのです。
剣道で言えば吉岡憲法とか宮本武蔵。
項羽か劉邦か、どちらでしょうかな?
雑談者
長谷川先生の言葉
私の城郭の先生は
唯一城郭こそ私の先生
と言われた言葉が最近
非常に私は
重く、深く、
感じてます。
世間虚仮 唯仏是真
せけんこけ ゆいぶつぜしん
先生も此の発想も
この言葉に通じる。
世間とは人を見る目がない。
仮りそめの嘘のようなもの
仏こそが真実という意味?
世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり。」
聖徳太子『大日本仏教全書』第112巻P.46
先生の小説『近江商人轟陣兵』も
自分の利益より社会の為必死に働く
涙の中に流れる真心が溢れています。
長谷川
いきなり重い哲学のような事言わずに気楽に!
雑談者
長谷川先生今回は雑談で御願い致します。雑談
とは言え長谷川先生の言及には、含みや、深淵
が含まれており驚くべき事を平気で言われます。
長谷川
今回は固くならず気楽に宜しくお願い致します。
雑談者
さて私としては城郭ブームや明智ブームが到来
すると予測されるが、長谷川先生が講師として
登場されない事に強い不満やストレスを感じて
ます。長谷川先生支持派として「はがゆい」事
解りますか?この気持!それそこに実績がある
のに皆が気付いてくれない。大衆が気付ない事。
長谷川
そうですか?人生は何事も気軽に行きましょう。
ブームは一時的、流行で研究は地味な継続です。
雑談者
最近明智光秀が近江国犬上郡多賀町の佐目に
ゆかりがあると言う説がありますが、これらの
伝説や中世城郭も長谷川先生がもう数十年前
から取り組まれ、その現場を何度も体験した。
長谷川
そんな事もありましたね、研究は今後も続け
ます。研究は一時的ではなく地味な継続です。
有名になりたいとか一躍脚光を浴びたいとか
とは異なるブームや流行と、別の地道な世界。
雑談者
私は彦根犬上郡には優れた築城家や建築家の
集団が昔から、必ず居たと思っております。
私は昔坂本城に行った時に下坂本の東南寺
に坂本城の石碑が存在、ここが古く文人墨客
の訪れた坂本城だと思っているんです。湖畔
じや無く、その中心は今も陸と思っています。
長谷川
しかし石垣が下坂本の湖畔から渇水時に出たり
しました、文献等を読むと坂本城から直接舟に
乗って安土城に信長が帰る記事や軍記ものや
宣教師の記録に明智の坂本城の最期は城内から
琵琶湖へ宝物を投げ捨てたと記録されている事
に影響されたものと思います。また江戸期の
坂本城は近江国明細図にもあたかも坂本城は湖中
にある如く記録されている事も坂本城湖中説に
影響を与えている事でしょう?
長谷川
近江国明細図には歴史的に意味深い地名が頻出
先ず穴太「あのう」石垣職人を表わす地名
比叡辻「ひえの辻」比叡山延暦寺のお膝元
上坂本、下坂本、これは比叡山に登る正面の通路
雲母坂「きららさか」を暗喩する比叡山のへの道
を意味する「さかもと」
文字が切れているが「しなのわたし」は古来有名
唐崎松「からさきの松」半島状に琵琶湖に突き出
ており古来より文人墨客の憧れの名所旧跡
地図の南志賀の文字にも注目滋賀県の起源は
近江国の志賀に由来する。
坂本城近江国明細図
雑談者
私は解せません!なぜ江戸時代の文人墨客らが
下坂本の東南寺付近を目指したのか?坂本城の
石碑は元とは言えばその近辺にあったものです。
長谷川
貴方の力説は解りますよ、江戸時代にも江戸城
に浜御殿と言う江戸湾を望む場所に別亭が存在
した、それをちなみに現代人は江戸の本丸とは
言わない。それは浜御殿でやがて皇室の浜離宮
として活用されている。徳川幕府の雄藩に相当
する彦根城だって琵琶湖畔の松原に彦根藩当主
の別邸、浜の御殿が存在した。しかしだれもが
彦根松原の浜御殿を彦根城の本丸とは言わない
事に貴方は着目している訳ですね?
雑談者
長谷川先生!ズハリ、坂本城には浜御殿の様な
本丸とは異なる、別郭があったと思いますが?
長谷川
あなたの論説はボケた様でスルドイと言えます!
何故ならば山科言継らの、日記には坂本城には
「浜の座敷」と言うものがあり、そこで宴会が
実施されたと記録しています。つまり坂本の浜
は本丸とは別に浜の座敷があった事が判ります。
雑談者
それに明智光秀は織田信長の安土城より早くも
天正2年か3年頃に天主閣を築いた事が記録に
あると言います。この坂本城は江戸城や彦根城
のルーツや先祖と言える近世城郭の祖先だった
と思うのですが?
長谷川
そうです『兼見卿記』には既に天正の早い段階に
で天主や小天主を明智光秀が坂本城に上げた記録
が残っていますので、この坂本城は安土城よりも
早い近世城郭の先祖と言う事がいえましょうか?
とにかく天正の早い段階で大小天主を城内に上げ
た明智の先進性には日本城郭史上着目すべき記録
です。この明智の大小天守の発想がどこから来た
もののか考察する事も重要な城郭史かと思います。
足利義満の北山第にあった金閣と見鏡閣なのか?
長谷川
さて『信長公記』でも信長の在佐和山を記して
おり佐和山城が信長の居城であった時期を歴史
家は見逃されていると思います。有名な信長の
大船も尾張の宮大工岡部又衛門のプロジェクト
で推進されている事にも着目したい。もっとも
この大船の材木を、多賀方面から芹川を流して
松原で組み立てた事も犬上郡を考える上で重要。
雑談者
近江国犬上郡藤堂村から出た藤堂高虎が最初は
浅井長政の小姓として小谷城で仕えた事は重要
かと思いますが?
長谷川
そうですね!この小谷城とは驚くべき巨大城郭
で鐘の丸こと小谷城本丸は天主郭とも言っても
過言ではない、非常に先駆的な城郭や殿舎群を
備えた城郭だったと私は調査を踏まえて推定を
しておます。少年期の高虎に与えた城郭普請の
基礎を形成したのが小谷城だった可能性もある。
小谷城推定復元図
雑談者
藤堂高虎は浅井氏小谷城、阿閉氏、山本山城、
木の目城要塞郡、織田信澄の近江高溝城の
検分をしていると思います。そして羽柴秀長
に属して三重県の赤木城を普請したり和歌山
城などの普請なども検分した事でしょう。
また自らの城としては、今治城も伊賀上野城、
津城なども築城に次々と手掛けた人ですよね?
私は高虎が犬上郡出身である事に注目します。
やがて徳川家康の築城ブレーンとして採用され
て行く驚くべき過程を見逃してならないと思う。
高虎の令和創作能
長谷川
そもそも藤堂高虎の築城術の根底を支えていた
職能集団は近江犬上郡に、築城ルーツを持って
たと私は思います。まず犬上の巨大城郭として
一時近江守護職に室町幕府から任命された京極
政経の500メールにも及ぶ巨大土塁と角馬だしの
原型と思われる遺構のある多賀山中の桃原城や
犬上郡甲良の京極氏に関係する多賀京極系の城
勝楽寺の後世石垣も見落としたくはありません。
▼勝楽寺城
▼勝楽寺
雑談者
明智光秀と藤堂高虎の接点は全くゼロですか?
琵琶湖の湖東と湖西は全く無関係世界ですか?
長谷川
奇妙な視点だが考えさされる視点です。近年明智
光秀の永禄9年頃湖西の田中の城にいた事が話題
になってます。『信長公記』には信長は彦根松原
で建造した大船で高島郡を攻略し、明智光秀には
志賀の木戸城や高島の田中城を下賜されています。
何故明智光秀が高島田中の城を与えられたのか?
天正元年には一旦浅井方であり佐和山城主だった
磯野丹波守を信長は一度高島郡を与えますが磯野
丹波守の養子として津田七朗兵衛信澄に与え大溝
城を作らせ是を与えます。これ織田信澄の事です
が、彼は元は信長の実弟で彼の父は有名な末森城
城主で一時織田弾正とも名乗っていた人物で文献
等では織田信勝とされる勘十郎信行の事ですが、
彼の息子が柴田勝家の元で養育され近江大溝城主
織田信澄となります。一説に信澄の妻は明智光秀
の息女であり伝説では石垣天守台の残る大溝城は
明智光秀の縄張りと言われております。藤堂高虎
が大溝城の普請に関わった記録はありませんが
藤堂高虎は織田信澄に使えていた事は確かでしよう。
藤堂は明智との交流や明智の築城技術を吸収する
だけの技量は持っていた可能性があります。それと
もう一つ犬上郡の後三条町は、つまり彦根後三条町
は高島郡の飛び地であると『淡海温故禄』に記録さ
れてます。また鈴鹿山系八風峠で織田信長を鉄砲
で狙撃した、杉谷善住坊が何故か高島郡に移住した
磯野丹波守から織田信長へと護送されている事も
気になります。
雑談者
これは摩訶不思議大変面白いですね?明智光秀と
犬上郡の藤堂高虎とは接点が全くないように思う
のですが長谷川先生のお話を聞くと意外な歴史が
ある事に歴史の面白さを不思議さを感じてしまう。
さてさて日本海に住んでいた野々口丹波守と言う
明智光秀の家臣の事も御存じですか?
長谷川
大変不可解な事ですが明智光秀が織田信長から
天正年間初頭に高島田中の城と志賀郡に木戸の
城も貰っている事は『信長公記』には記されて
いる。また誤伝であろうかと思われる記録には
大津市の城郭遺構 野々口山城は『近江輿地志略』
「野々口丹波守. 城屋敷遺跡」とあるんです。
明智光秀が木戸城を攻略する時いずこに附け城を
普請したかは解明されていまんせん。木戸城に近
い歓喜寺城や野々口丹波の山城は歴史の誤伝かも
しれません。しかし滋賀郡の野々口丹波の大津の
山城を私が調査しましたら概ね永禄元亀の頃の城
だと推定される構造なんですが、明智が坂本城に
大小天守を構築した如く大津の野々口丹波の城は
土の櫓台や(天守の原型かと思われる)ものが比良
山系木戸方面に土塁を堅固に普請して存在する事
に驚いたんです。その縄張りは並の中世城郭では
ない非常に進歩的驚くべき城です。少し進歩し過
ぎている。出来が良すぎるんです。比良三千坊の
ひとつと解釈するには屈曲した導入経路が見事す
ぎる。天晴な城郭遺跡と言えますよ。一級品だ!
雑談者
これは、ひょつとするとグレードの高い古城かも
知れませんね?さて野々口丹波守の津田氏と関係
あるのでしょう?
長谷川
私は興味がありません。後世の武士、津田信正は
元和3年(1617年)に生れた人です。主君は徳川
光友で信正自身は尾張藩士で妻は野々口丹波守娘
とあります。このは話は本題と関係ないので終了。
長谷川
しかし織田信澄の息子の長男の昌澄は一時期信澄
に仕えていた藤堂高虎の斡旋を受けて、豊臣秀吉、
そしてその死後は豊臣秀頼に仕えたと言う事です。
織田信澄と藤堂高虎には接点があつた可能性有り。
雑談者
その巨大さにおて近江鎌刃城を凌駕し小谷城に
も肉薄する男鬼入谷城にも築城や茶湯の文化の
跡が明白だと私は思います。いったい何故あの
山峡に所在する城に、天目茶碗を使い生活して
いた人々が中世にいた事自体が驚くべき事です。
またあの居城に住まいする人々を支える水田は
犬上郡と坂田郡から得たものと思われますね?
長谷川
つまり坂田郡と犬上郡の両郡を押える統治する
城といえましょうか?
男鬼中心部
長谷川
天目茶碗の採取も驚くべき事ですが、この男鬼
城こそ大小天主の祖形ひとつと私は思ってます。
勿論その城郭の様式は中世城郭の系譜そのもの
ですが天主と目される大櫓と小櫓を連結する様
子は驚愕すべきものがあります。また大櫓へと
登閣すべきところには石段も残っている事には
更に驚きます。先に述べました大津市旧志賀郡
の野々口丹波山城も再度注目して下さい。
雑談者
ちなみに犬上郡と坂田郡の境に所在する佐和山
と城の城下町からも天目茶碗が出土しており茶
湯の文化が彦根犬上坂田に続いた事を彷彿とさ
せます。
▼佐和山城下 天目茶碗「令和の時代の行政発掘」
長谷川
それにしても男鬼城の壮大さは通常の中世城郭
の三倍に相当するもの
西峯の城、中峯の城、東峯の城と壮大な規模の
城。この城の築城主体は一時浅井氏により零落
の憂き目を見た京極氏が浅井久政の時代に再び
その勢力を一時盛り返した京極高廣の可能性も
あろうかと思います。
男鬼城全体イラスト
雑談者
それにしても巨大すぎる。壮大すぎる城跡です。
地誌類の伝承ではこの男鬼城の城主はだれです?
長谷川
川原豊後守とも言われています。これ例の高虎
つまり藤堂高虎と連携して徳川幕府の御殿作事
をした河原豊後守つまり甲良豊後守なのか全く
解っておりません。またこの城は坂田郡に含ま
ており現在は彦根犬上に所属する謎の巨大城郭。
雑談者
さて明智光秀の出身地が近江犬上郡佐目かと?
とする伝説もあるらしいのですが文献によると
明智は確実に大小天守を坂本城で上げています。
私は彦根犬上郡境にも、大小天守を上げた例が
あるのではないかと思うのですが、いや是は
私の単なる私個人の幻想かもしれませんが?
長谷川
多賀大社社頭絵図にある、澤山城と表記された
謎の城郭は大小二つの天守閣を備えてますね!
澤山絵図
雑談者 ▲
うわあ~これすごい!石田三成の佐和山城の時
よりも以前の織田信長とか堀尾氏か堀秀政時代
の天守でしょうか?ワクワクする絵図ですね!
長谷川
実は佐和山城址にはいつの時代のものか不明な
がら天守基壇の痕跡は認められます。勿論是を
最初から全然現地を観察する気が無い人に千度
話しても言っても始まりませんが、堀尾吉晴の
築いた出雲の松江城とも類似点、附け矢倉には
類似点がうかがえます。出雲は京極の時代そし
て尼子氏の時代にも近江と交流を持っています。
最も尼子氏自体が近江国犬上郡甲良町の出身で
ありまた堂高虎の出身地藤堂村の在士と極めて
近隣の集落とも言えます。
松江城天守▼
▼佐和山城中心部推定復元イラスト長谷川博美
雑談者
藤堂高虎を支えていた武将の藤堂式部とは
元来どこの出身の武士なのですか?
長谷川
『江州佐々木南北諸氏帳』には坂田郡と犬上郡
の境界にある磯山城主に磯崎金七を当てています。
また磯崎氏は宮士と表現されていて磯崎神社神職
も兼ねていてたと推測されます。この犬上郡と
坂田郡郡境にいた人物が藤堂式部と思われます。
また藤堂高虎の父、藤堂虎高に因む磯山城の名前
が「虎ケ城」つまりは磯山城と言われています。
この城も坂田郡と犬上郡の郡境に位置している事。
雑談者
藤堂高虎談議にもどります。高虎は羽柴秀長
の次には誰に仕えたのですか?
長谷川
当時の中納言羽柴秀保に従えました。秀保とは
秀長の養子で大和の国を領有しており、秀保は
文禄慶長の役の時に豊臣秀吉の肥前名護屋城の
普請に関わった人物とされてます。これは勿論
藤堂高虎も層塔式の肥前名護屋城の天守の造り
や主君秀保の陣屋作事や、その縄張り普請にも
関わった可能性があろうかと思います。この件
は私のブログ九州の織豊系陣城と近畿の織豊系
陣城を是非再読してみて下さい。肥前名護屋城
は黒田官兵衛の縄張りとも言われますが?
雑談者
以下の図面シンプルながら素晴らしい簡潔かつ
非常に優れた秀保の陣城だと私は思います。
長谷川
藤堂高虎の縄張りは徐々に加藤清正らの戦闘を
極力意識して縄張りしたものよりも丹波篠山城
などの政庁として居住空間を活かせる幾何学的
な縄張りへと、変化して行ったと、思われます。
つまり戦国よりも江戸時代のニーズに対応した
株式会社藤堂建設として河原豊後守らとセット
の職能集団社長として頭角を現して来た人です。
▼羽柴秀保陣城
▼羽柴秀保陣城平面図
雑談者
さてさて再度近江佐和山城の話題に戻り堀秀政の
佐和山時代のお話をして下さい。
長谷川
雑談なんでアバウトにさせて頂きますが、天正11
年の賎ケ岳合戦の時には堀秀政は羽柴秀吉方武将
として北近江伊香郡余呉東野山に見事な陣城構築
を致します。はっきり言ってこの城100点満点の
120点で小学校でいえば「出来過ぎ君」の作った
城と思います。まさに秀才!流石は名人久太郎!
当時の堀秀政の拠点が佐和山城である事が重要!
一般者
何でこの城が素晴らしいのか解らないのですが?
雑談者
一見して解るでしよ?こんな城は最新型の城!
つまり織豊系陣城の傑作縄張りの陣城ですよ!
▼東野山城イラスト
長谷川
天正11年の当時の築城術として後の城の縄張り
の模範、見本、鑑となる、様々な縄張り技術が
凝縮されているんですね。堀秀政は優秀な武人。
▼東野山縄張図
ボケナスおじさん
料理リポーターで言うと「ひこまろ」さんの言う
味の宝石箱や!これは陣城の宝石箱なんですか?
雑談者
冗談ぬきで本当に賎ケ岳合戦の陣城はスゴイです!
長谷川
ここで大事な事を忘れないうちに記しておきます。
天正11年堀秀政は近江坂田郡と犬上郡に佐和山城
の城主として鳥居本の大工を使って佐和山の御殿
を普請した記録が残ってます。鳥居本は現在彦根
市ですが元来坂田郡鳥居本でして注目したいのは
鳥居本小野の大工。彦根城なども彦根大工ですが
鳥居本から彦根に城下町は移住させられた事です。
鳥居本と言えばだれが有名かと言う事になります。
先般発掘された発掘現場の近辺も百々町筋です。
雑談者
日本の名築城家としては、黒田官兵衛、藤堂高虎、
加藤清正、明智光秀、百々三河守、丹羽長秀も入
る何せ、安土城の普請奉行でしたからね。それに
百々三河守とかいう岐阜の武士も名築城家だった
と聞いています。有名な山内一豊の高知城縄張り。
長谷川
百々三河守ってもともとどこの武将だったと思い
ますか?
雑談者
あっ!鳥居本の百々屋敷!浅井氏の時に佐和山
の城主も務めていた一族だと思います。つまり
この彦根犬神郡坂田郡近辺には築城や建築技術
に非常に優れた技能集団がいた可能性が高い!
最近鳥居本に百百百百と書いて「どどもも」と
言う蕎麦屋さんが出来たと聞いておりますよ。
長谷川博美図
玄蕃尾城「賎ケ岳合戦」柴田勝家 天正11年
肥前名護屋城「文禄慶長の役」豊臣秀吉
安土城のビスタ線 長谷川博美線挿入作図
「天正7年」完成近江安土城」織田信長指示
普請奉行 佐和山城主 丹羽長秀、
天守作事 岡部又衛門のプロジエクト
▼
玄蕃尾城 長谷川博美作図
ぶっ飛んでる
失礼なコメで
すみません。
むしろ長谷川先生を
を理解した人の方が
数段上の城の達人
だと私は思います。
濃く、深く、古城に興味ある人は
必ずや驚かれている事でしょう。
良いね1名様
コメント3名様
には深く御礼を申上げます。
私のようなブログに注目して
頂きました事を真摯に感謝
を申上げます。
何故かゾクゾクと
寒気がします。