城郭 長谷川博美 基本記録

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九州 原城のビイスタ工法  島原の乱

2022-10-25 17:48:56 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

九州 原城のビイスタ工法 

2022/04/10 に投稿した記事を再投稿を

致します。10月25日は島原の乱の日です。

 1637(寛永14)年10月25日(1637年12月11日)

「島原・天草の乱」、「島原・天草一揆」とも

一揆勢は島原の原城の旧城に籠城しました

今回のビイスタは有馬晴信の頃の幾何学

城郭縄張を紹介致します。

 

◆長谷川

城郭ビイスタ論とは城郭を放射線状に

設計測量する築城方法の事を言います。

◆長谷川

築城の事を中国の言葉で『経始』と言います。

◆対談者

長谷川先生を私は過小評価し過ぎていました!

『城郭ビイスタ論』戦前戦後を通して最高峰

の城郭研究理論、無冠の城郭金字塔だと思う!

▼長浜市高月町での長谷川野外講演記録写真

▼滋賀県犬上郡多賀での講演

◆長谷川

九州原城についてウイッキペデイア引用しますと

「15世紀末期に文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城

や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信によって

居城として整備された。この時の改修工事によっ

て瓦葺きの屋根を持った織豊系城郭として生まれ

変わり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸

などが築かれた。現在残る石垣や枡形、本丸天守台

はこの改修時のものである。」と記録されています。

また「原城(はらじょう・はるのじょう[注釈 3])は、

長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城である。

国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。

2018年6月30日に世界遺産登録が決まった

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

構成遺産である[1][2]。」とあります。

 

◆長谷川

さて私は世界遺産の原城跡が観光で盛り

上がる事を望んでいます。この城跡にも

ビイスタ工法が施されているのか原城跡

の益々の隆盛を念頭においてこの城跡を

考察したと思います。先ず北から南に向

け放射状のビイスタ工法を施工した模様。

見事な放射線でグランドプランが形成さ

れています。

▼青線の如き細密な放射状測量も読み取れます。

◆長谷川

また海側からも測量台を設けて、放射状に

ビイスタ工法を取り入れたものと思います。

これも見事な構図を成してと思われます。

 

▼様々なビイスタ工法を読み取れる。

 

典型的な織豊系城郭の平面構造をもつ城

であると言えます。これらの工法は秀吉

方織豊政権から有馬氏が学び採用したも

のと推定されます。

 

◆長谷川

秀吉は信長の有力家臣として近江虎御前

山城を築城しますが先ずビイスタ工法を

使ったデルタ型の陣城は見事な形状です。

▼秀吉の主君、織田信長の虎御前山城のビイスタ工法

▼織田信長 宇佐山城のビイスタ工法

▼織田信長の天下の覇城 安土城のビイスタ工法です。

安土城天主台の中央ビイスタ

 

◆長谷川

秀吉は鳥取城攻めでも太閤ケ平城でもビイスタ

工法を使います。二方向からビイスタ工法を使

っているようです。

 

 

秀吉は信長の築城術を肥前名護屋城築城

でも活用したと思われます。

 

◆長谷川

秀吉と天下の覇権を争った柴田勝家の玄蕃尾城

にもビイスタ工法の潜在を感じさせる縄張です。

◆関白秀吉の小田原石垣山城のビイスタ工法

◆長谷川

築城の事を中国の言葉で『経始』と言います。

宇和島城藤堂高虎伝説で「空角の経始(あき

かくのなわ)」「経始」を「なわ」と読む!

▼宇和島城の中央ビイスタ

▼藤堂高虎縄張の順天倭城

文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮半島

南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。

その中でも最西端にあたる全羅道順天の

光陽湾に面した沿岸に1597年11月から、

小西行長宇喜多秀家藤堂高虎を中心

として築城を始め、突貫工事により城は

短期間で完成をみた。

▼備前宇喜多氏の岡山城中 央ビイスタ工法

▼秀吉の天正大坂城 中央ビイスタ工法

 

▼江戸時代の城の放射線、城測量方法二点測量している。

 

 


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