九州 原城のビイスタ工法
2022/04/10 に投稿した記事を再投稿を
致します。10月25日は島原の乱の日です。
1637(寛永14)年10月25日(1637年12月11日)
「島原・天草の乱」、「島原・天草一揆」とも
一揆勢は島原の原城の旧城に籠城しました
今回のビイスタは有馬晴信の頃の幾何学
城郭縄張を紹介致します。
◆長谷川
城郭ビイスタ論とは城郭を放射線状に
設計測量する築城方法の事を言います。
◆長谷川
築城の事を中国の言葉で『経始』と言います。
◆対談者
長谷川先生を私は過小評価し過ぎていました!
『城郭ビイスタ論』戦前戦後を通して最高峰
の城郭研究理論、無冠の城郭金字塔だと思う!
▼長浜市高月町での長谷川野外講演記録写真
▼滋賀県犬上郡多賀での講演
◆長谷川
九州原城についてウイッキペデイア引用しますと
「15世紀末期に文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城
や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信によって
居城として整備された。この時の改修工事によっ
て瓦葺きの屋根を持った織豊系城郭として生まれ
変わり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸
などが築かれた。現在残る石垣や枡形、本丸天守台
はこの改修時のものである。」と記録されています。
また「原城(はらじょう・はるのじょう[注釈 3])は、
国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。
◆長谷川
さて私は世界遺産の原城跡が観光で盛り
上がる事を望んでいます。この城跡にも
ビイスタ工法が施されているのか原城跡
の益々の隆盛を念頭においてこの城跡を
考察したと思います。先ず北から南に向
け放射状のビイスタ工法を施工した模様。
見事な放射線でグランドプランが形成さ
れています。
▼青線の如き細密な放射状測量も読み取れます。
◆長谷川
また海側からも測量台を設けて、放射状に
ビイスタ工法を取り入れたものと思います。
これも見事な構図を成してと思われます。
▼様々なビイスタ工法を読み取れる。
典型的な織豊系城郭の平面構造をもつ城
であると言えます。これらの工法は秀吉
方織豊政権から有馬氏が学び採用したも
のと推定されます。
◆長谷川
秀吉は信長の有力家臣として近江虎御前
山城を築城しますが先ずビイスタ工法を
使ったデルタ型の陣城は見事な形状です。
▼秀吉の主君、織田信長の虎御前山城のビイスタ工法
▼織田信長 宇佐山城のビイスタ工法
▼織田信長の天下の覇城 安土城のビイスタ工法です。
安土城天主台の中央ビイスタ
◆長谷川
秀吉は鳥取城攻めでも太閤ケ平城でもビイスタ
工法を使います。二方向からビイスタ工法を使
っているようです。
秀吉は信長の築城術を肥前名護屋城築城
でも活用したと思われます。
◆長谷川
秀吉と天下の覇権を争った柴田勝家の玄蕃尾城
にもビイスタ工法の潜在を感じさせる縄張です。
◆関白秀吉の小田原石垣山城のビイスタ工法
◆長谷川
築城の事を中国の言葉で『経始』と言います。
宇和島城藤堂高虎伝説で「空角の経始(あき
かくのなわ)」「経始」を「なわ」と読む!
▼宇和島城の中央ビイスタ
▼藤堂高虎縄張の順天倭城
文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮半島
南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。
その中でも最西端にあたる全羅道順天の
として築城を始め、突貫工事により城は
短期間で完成をみた。
▼備前宇喜多氏の岡山城中 央ビイスタ工法
▼秀吉の天正大坂城 中央ビイスタ工法
▼江戸時代の城の放射線、城測量方法二点測量している。
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