九州の織豊系陣城 近畿の織豊系陣城
▼羽柴秀保陣跡 石垣
▼羽柴秀保陣跡 肥前名護屋城屏風より
はじめに
今回は九州の織豊系陣城と近畿の織豊
系陣城を比較して城郭遺跡の比較研究と
考察を試みる事にしたい。
先ず文禄慶長の役①における羽柴秀保
②の陣跡を紹介し、平面構成つまり縄張
③構造に言及してみたいと思う。
①文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597)
年の2度にわたる日本の豊臣秀吉の朝鮮,
明の連合軍との戦い。
②豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよ
とみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はし
ば ひでやす)は、安土桃山時代の武将
、大名。豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀
(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養
子となる。大和国の国主で大和大納言と
呼ばれた羽柴「豊臣」秀長を継いだ。
長兄に豊臣秀次、次兄に豊臣秀勝
(小吉秀勝)がいる。羽柴秀吉の弟で
羽柴秀長の後継者に相当する。
③縄張りとは、曲輪や堀、門、虎口の配
置のこと。
◆先ず羽柴秀保陣跡④の縄張りを検討し
たい。図版⑤および写真は以下の資料か
ら引用し図番作成者と年月は⑥であり
「太字」は長谷川が加筆したものである。
④佐賀県唐津市鎮西町名護屋字神ノ木
⑤▼
⑥▼
写真は遺跡主要部を上から撮影したもの。
写真に順次長谷川が解説を加えるて行く。
先ず枡形の1門が存在する。枡形に入る
敵を想定して横矢1を設定している。塁
は石塁を用いており階段1も観察出来る
次に、桝形空間が存在し右折れし2門
へと進む。主郭には雁行状に主殿群が
配地されている。主殿と枡形の間の2門
の間にはかすかであるが仕切り塀の痕跡
がある。また3門の内側「城内側」には
かすかに蔀「しとみ」の痕跡を観察する
事が出来る。横矢はそれぞれ3箇所に設
けられている。文禄、慶長の頃の羽柴
秀長の後継者の羽柴秀保の陣跡の中核部
の様子を俯瞰できる写真である。⑤資料に
は当該陣跡平面図⑦が収録されている。
またこの陣城には「タテボリ」も存在し
その写真や竪堀への試掘トレンチ写真
も収録されている。第二郭の右手前方
には竪がも存在する。
▼羽柴秀保陣跡 竪堀写真
さて⑦図で私が注目したいのは第2郭の
入口が一カ所であり、本丸に相当する
主郭へと虎口を伴う経路が通じてない
事である。この様な入口一カ所だけ
で出口のない郭は逆臣郭や行き止まり
郭と一般に呼ばれるものであろう。
⑦図▼
さて?この行き止まり郭と横矢の構え
の縄張りのルーツ、伝統様式を一体?
羽柴秀保陣営はどこの職能集団の様式
を継承したものであろうか?私の仮説
として義父、羽柴秀長の名跡や家臣団
をも継承した秀保の陣跡と秀長の陣城
との、比較研究が、必須と思われる。
資料⑤による秀保陣跡の第2郭の評価
は以下の記述を引用すると煮炊き炊飯
に関わる郭と評価しておられるようだ。
二郭は現地写真や平面図でも明らか
であるように羽柴秀保の陣に設定され
た石塁の外に該当する。これは塁の外
つまり城郭の外であるとも解釈できる。
天正11年次の羽柴秀長陣のA郭は土塁
に囲まれた郭であり両者の評価を同等
同様の炊飯や炊事に使われた台所郭と
即断できないが、田上山陣城において
も陣城の南端部に設定され強い北風を
防ぎ不意の類焼による、陣屋の羅災を
未然に防いだり、陣の中央に居陣する
主格つまり殿に相当する人物が食する
食事に不審者が毒物を混入させる事を
厳重に警戒して、出入り口を意図的に
一カ所に限定した郭の可能性も考えら
れる。事例として安土城の伝台所郭へ
入る非常に狭隘な虎口なども併せて
考慮しておきたい。
羽柴秀吉「豊臣秀吉」の戦役では天正
11年⑧の賎ケ岳合戦における、長浜市
木之本に存在する。秀吉の弟「秀長」
の陣城に該当する田上山陣城と上記羽柴
秀保の陣跡を比較検討したみたい。城郭
研究にとり文禄、慶長の役や賎ケ岳の戦
いにおける遺跡は築城年代を限定できる
歴史的、資料的、価値の高い指標的遺跡
標本と言える貴重な存在であろう。下図
は滋賀県中世城郭分布調査収録⑧より私、
長谷川博美自身の田上山陣城図を用いて
検討したい。下図の田上山陣城は主郭へ
至るには主郭西部、図面では西部に設け
られた犬走りをバイパス機能として通過
しなければ主郭には到達できない様に
設計されている。これは、肥前名護屋の
羽柴秀保陣跡においても、その機能に
おいて、同様類似した構造と言えよう。
▼
▲上図のA郭は秀保の義父、秀長築城の
田上山陣城であるが主郭には直接虎口が
通じない文禄慶長の役の際の秀保陣の構
と類似遺構した横矢がA郭に存在しA郭
は独立した郭であり一カ所のみに虎口が
確認できる事だ。1583年の賎ケ岳合戦
から1592年の天正20年改め、文禄の時代
差は、約10年近い時間的な隔たりがあり
ながら、その城郭縄張り構造の様式伝統
が家中の職能集団によって、その伝統が
「技術継承」されたと、私は考察する。
⑧賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
は、天正11年(1583年)4月、近江国
伊香郡(現: 滋賀県長浜市)の賤ヶ岳
付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。
互いに両陣営が臨時築城つまり陣城築城
して長期的に対峙した日本の合戦。この
合戦で最大の城郭遺構とは、堀も含めた
全長300mにもおよぶ柴田勝家の本営本陣
の玄蕃尾城だ。歴史的名称は内中尾山城。
▼長谷川博美イラスト
▼文禄慶長の役の秀吉の本営肥前名護屋城
概念図 長谷川加筆
臨戦態勢で軍事的緊張の高い陣城の実例
賎ケ岳合戦 近江東野山陣城の事例
▼賎ケ岳合戦、堀秀政、東野山城
長谷川博美 個人作成イラスト図
羽柴秀保の場合は文禄の役で先ず名護屋
城の普請に参加、次いで兵1万5千を率い
て参陣するが自身は渡海せず名護屋城下に
陣屋を築いて滞在したとされ秀保の陣屋は
直接戦闘に携わる事のない陣営であり前線
の軍事的緊張は、比較的少ない、陣営では
ないだろうか?それに比して賎ケ岳合戦で
柴田勝家南下を最前線で阻止した秀吉傘下
の堀秀政の賎ケ岳合戦 近江東野山陣城は
石垣こそないもの、土塁構えの陣城ながら
後世の様々な城郭縄張に継承され影響を与
えたる驚くべき縄張技巧を駆使し普請され
た秀逸な織豊系城郭の白眉ともいえる縄張
り構造を持っている。
⑧から引用
▲先ずAは典型的な喰い違い虎口で開門して
も城内が、攻城側から見透かされない。銃撃
戦の場合における防御に適した防御になって
いる。虎口の左の土塁外には郭の周囲に横堀
が掘削されている。Bは城内施設の蔀しとみ、
または内枡形に近い構造になっている。Cは
虎口でその左側すなわち東側のKKKは竪土塁
「登り土塁」と竪堀になっている。Dの土塁は
比較的に低く、郭を区画する為の仕切り塀や
土塁と思われる。Eは殿舎建物基壇と推定さ
れる。Fの右側は入隅と呼ばれる土塁の内折
Gは角馬しと、考えられるが、Gを城外の翳
カザシの施設Fを城内の蔀シトミの施設と
解釈できよう。Iの虎口を経てこの城の中核部
に入る事が可能だ。従ってこの郭の周囲には横堀
が掘削され更に外周に低土塁を思わせる轍「段差」
も観察する事が出来る。虎口はH、I、Jと北国
街道を見下ろす尾根へと順次、繫がっている。
⑧から引用▼
▼長谷川博美 東野山城 鳥瞰図イラスト
陣跡の地形は西から東にかけて緩やかな
陣城特融の傾斜を持っておりこの秀逸な
縄張りの城郭は在地土豪、東野氏による
ものではなく典型的な織豊系城郭の流れ
を汲む天正11年期の幾何学的矩形を基本
におく縄張を持つ典型的陣城遺構であろう。
⑧から引用
追記
肥前名護屋の羽柴秀野保の陣の周囲に
は多数の秀保配下の将士が宿営地つまり
陣屋の跡が残されている。堀秀政の東野
山城の周囲にも多数の塹壕や堀切が過去
に存在した事を記したい。長谷川博美。
余談
東野山城の首尾を担当した堀秀政は足利
義昭の初期京都御座所の本圀寺普請奉行
を若干17歳の堀秀政が担当し名人久太郎
なる異名を取った事が知られている。また
彼の家老、奥田直政こと、堀監物も天下の
三陪臣と天下に評判をとる名将と伝わる!
名将には名臣がいるものだ。越後春日山城
の山麓に掘られた、総構の監物堀も、実は
堀直政こと奥田直政こと堀監物が掘ったと
されており、世の中には信じられない名将
や名臣が隠れ存在するから恐ろしいものだ。
⑧滋賀県中世城郭分布調査. 7
(伊香郡・東浅井郡の城)1990年
名築城家 藤堂高虎の存在
名築城家として後世に知られる築城家とし
て羽柴秀長や羽柴秀保の家臣だった藤堂氏
の存在は忘れらる事は出来ないであろう。
彼は後に豊臣秀吉や徳川家康にも築城や
建築に関わる手腕を飼われて活躍した人。
彼の縄張には、徳川氏や東国大名の縄張と
一線を画する西国戦国城郭のエッセンスと
精髄を吸収した洗練された矩形の縄張を
見る事が出来る。
▼羽柴秀保陣跡 石垣
▼羽柴秀保陣跡 肥前名護屋城屏風より
はじめに
今回は九州の織豊系陣城と近畿の織豊
系陣城を比較して城郭遺跡の比較研究と
考察を試みる事にしたい。
先ず文禄慶長の役①における羽柴秀保
②の陣跡を紹介し、平面構成つまり縄張
③構造に言及してみたいと思う。
①文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597)
年の2度にわたる日本の豊臣秀吉の朝鮮,
明の連合軍との戦い。
②豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよ
とみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はし
ば ひでやす)は、安土桃山時代の武将
、大名。豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀
(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養
子となる。大和国の国主で大和大納言と
呼ばれた羽柴「豊臣」秀長を継いだ。
長兄に豊臣秀次、次兄に豊臣秀勝
(小吉秀勝)がいる。羽柴秀吉の弟で
羽柴秀長の後継者に相当する。
③縄張りとは、曲輪や堀、門、虎口の配
置のこと。
◆先ず羽柴秀保陣跡④の縄張りを検討し
たい。図版⑤および写真は以下の資料か
ら引用し図番作成者と年月は⑥であり
「太字」は長谷川が加筆したものである。
④佐賀県唐津市鎮西町名護屋字神ノ木
⑤▼
⑥▼
写真は遺跡主要部を上から撮影したもの。
写真に順次長谷川が解説を加えるて行く。
先ず枡形の1門が存在する。枡形に入る
敵を想定して横矢1を設定している。塁
は石塁を用いており階段1も観察出来る
次に、桝形空間が存在し右折れし2門
へと進む。主郭には雁行状に主殿群が
配地されている。主殿と枡形の間の2門
の間にはかすかであるが仕切り塀の痕跡
がある。また3門の内側「城内側」には
かすかに蔀「しとみ」の痕跡を観察する
事が出来る。横矢はそれぞれ3箇所に設
けられている。文禄、慶長の頃の羽柴
秀長の後継者の羽柴秀保の陣跡の中核部
の様子を俯瞰できる写真である。⑤資料に
は当該陣跡平面図⑦が収録されている。
またこの陣城には「タテボリ」も存在し
その写真や竪堀への試掘トレンチ写真
も収録されている。第二郭の右手前方
には竪がも存在する。
▼羽柴秀保陣跡 竪堀写真
さて⑦図で私が注目したいのは第2郭の
入口が一カ所であり、本丸に相当する
主郭へと虎口を伴う経路が通じてない
事である。この様な入口一カ所だけ
で出口のない郭は逆臣郭や行き止まり
郭と一般に呼ばれるものであろう。
⑦図▼
さて?この行き止まり郭と横矢の構え
の縄張りのルーツ、伝統様式を一体?
羽柴秀保陣営はどこの職能集団の様式
を継承したものであろうか?私の仮説
として義父、羽柴秀長の名跡や家臣団
をも継承した秀保の陣跡と秀長の陣城
との、比較研究が、必須と思われる。
資料⑤による秀保陣跡の第2郭の評価
は以下の記述を引用すると煮炊き炊飯
に関わる郭と評価しておられるようだ。
二郭は現地写真や平面図でも明らか
であるように羽柴秀保の陣に設定され
た石塁の外に該当する。これは塁の外
つまり城郭の外であるとも解釈できる。
天正11年次の羽柴秀長陣のA郭は土塁
に囲まれた郭であり両者の評価を同等
同様の炊飯や炊事に使われた台所郭と
即断できないが、田上山陣城において
も陣城の南端部に設定され強い北風を
防ぎ不意の類焼による、陣屋の羅災を
未然に防いだり、陣の中央に居陣する
主格つまり殿に相当する人物が食する
食事に不審者が毒物を混入させる事を
厳重に警戒して、出入り口を意図的に
一カ所に限定した郭の可能性も考えら
れる。事例として安土城の伝台所郭へ
入る非常に狭隘な虎口なども併せて
考慮しておきたい。
羽柴秀吉「豊臣秀吉」の戦役では天正
11年⑧の賎ケ岳合戦における、長浜市
木之本に存在する。秀吉の弟「秀長」
の陣城に該当する田上山陣城と上記羽柴
秀保の陣跡を比較検討したみたい。城郭
研究にとり文禄、慶長の役や賎ケ岳の戦
いにおける遺跡は築城年代を限定できる
歴史的、資料的、価値の高い指標的遺跡
標本と言える貴重な存在であろう。下図
は滋賀県中世城郭分布調査収録⑧より私、
長谷川博美自身の田上山陣城図を用いて
検討したい。下図の田上山陣城は主郭へ
至るには主郭西部、図面では西部に設け
られた犬走りをバイパス機能として通過
しなければ主郭には到達できない様に
設計されている。これは、肥前名護屋の
羽柴秀保陣跡においても、その機能に
おいて、同様類似した構造と言えよう。
▼
▲上図のA郭は秀保の義父、秀長築城の
田上山陣城であるが主郭には直接虎口が
通じない文禄慶長の役の際の秀保陣の構
と類似遺構した横矢がA郭に存在しA郭
は独立した郭であり一カ所のみに虎口が
確認できる事だ。1583年の賎ケ岳合戦
から1592年の天正20年改め、文禄の時代
差は、約10年近い時間的な隔たりがあり
ながら、その城郭縄張り構造の様式伝統
が家中の職能集団によって、その伝統が
「技術継承」されたと、私は考察する。
⑧賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
は、天正11年(1583年)4月、近江国
伊香郡(現: 滋賀県長浜市)の賤ヶ岳
付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。
互いに両陣営が臨時築城つまり陣城築城
して長期的に対峙した日本の合戦。この
合戦で最大の城郭遺構とは、堀も含めた
全長300mにもおよぶ柴田勝家の本営本陣
の玄蕃尾城だ。歴史的名称は内中尾山城。
▼長谷川博美イラスト
▼文禄慶長の役の秀吉の本営肥前名護屋城
概念図 長谷川加筆
臨戦態勢で軍事的緊張の高い陣城の実例
賎ケ岳合戦 近江東野山陣城の事例
▼賎ケ岳合戦、堀秀政、東野山城
長谷川博美 個人作成イラスト図
羽柴秀保の場合は文禄の役で先ず名護屋
城の普請に参加、次いで兵1万5千を率い
て参陣するが自身は渡海せず名護屋城下に
陣屋を築いて滞在したとされ秀保の陣屋は
直接戦闘に携わる事のない陣営であり前線
の軍事的緊張は、比較的少ない、陣営では
ないだろうか?それに比して賎ケ岳合戦で
柴田勝家南下を最前線で阻止した秀吉傘下
の堀秀政の賎ケ岳合戦 近江東野山陣城は
石垣こそないもの、土塁構えの陣城ながら
後世の様々な城郭縄張に継承され影響を与
えたる驚くべき縄張技巧を駆使し普請され
た秀逸な織豊系城郭の白眉ともいえる縄張
り構造を持っている。
⑧から引用
▲先ずAは典型的な喰い違い虎口で開門して
も城内が、攻城側から見透かされない。銃撃
戦の場合における防御に適した防御になって
いる。虎口の左の土塁外には郭の周囲に横堀
が掘削されている。Bは城内施設の蔀しとみ、
または内枡形に近い構造になっている。Cは
虎口でその左側すなわち東側のKKKは竪土塁
「登り土塁」と竪堀になっている。Dの土塁は
比較的に低く、郭を区画する為の仕切り塀や
土塁と思われる。Eは殿舎建物基壇と推定さ
れる。Fの右側は入隅と呼ばれる土塁の内折
Gは角馬しと、考えられるが、Gを城外の翳
カザシの施設Fを城内の蔀シトミの施設と
解釈できよう。Iの虎口を経てこの城の中核部
に入る事が可能だ。従ってこの郭の周囲には横堀
が掘削され更に外周に低土塁を思わせる轍「段差」
も観察する事が出来る。虎口はH、I、Jと北国
街道を見下ろす尾根へと順次、繫がっている。
⑧から引用▼
▼長谷川博美 東野山城 鳥瞰図イラスト
陣跡の地形は西から東にかけて緩やかな
陣城特融の傾斜を持っておりこの秀逸な
縄張りの城郭は在地土豪、東野氏による
ものではなく典型的な織豊系城郭の流れ
を汲む天正11年期の幾何学的矩形を基本
におく縄張を持つ典型的陣城遺構であろう。
⑧から引用
追記
肥前名護屋の羽柴秀野保の陣の周囲に
は多数の秀保配下の将士が宿営地つまり
陣屋の跡が残されている。堀秀政の東野
山城の周囲にも多数の塹壕や堀切が過去
に存在した事を記したい。長谷川博美。
余談
東野山城の首尾を担当した堀秀政は足利
義昭の初期京都御座所の本圀寺普請奉行
を若干17歳の堀秀政が担当し名人久太郎
なる異名を取った事が知られている。また
彼の家老、奥田直政こと、堀監物も天下の
三陪臣と天下に評判をとる名将と伝わる!
名将には名臣がいるものだ。越後春日山城
の山麓に掘られた、総構の監物堀も、実は
堀直政こと奥田直政こと堀監物が掘ったと
されており、世の中には信じられない名将
や名臣が隠れ存在するから恐ろしいものだ。
⑧滋賀県中世城郭分布調査. 7
(伊香郡・東浅井郡の城)1990年
名築城家 藤堂高虎の存在
名築城家として後世に知られる築城家とし
て羽柴秀長や羽柴秀保の家臣だった藤堂氏
の存在は忘れらる事は出来ないであろう。
彼は後に豊臣秀吉や徳川家康にも築城や
建築に関わる手腕を飼われて活躍した人。
彼の縄張には、徳川氏や東国大名の縄張と
一線を画する西国戦国城郭のエッセンスと
精髄を吸収した洗練された矩形の縄張を
見る事が出来る。
私を理解して頂いて
いる方は全国で
一名様のみですが
改めて深く感謝を
申し上げます。