◆質問者
鎌倉幕府で一番中国から伝来した「兵法書」
つまり「軍学」に精通していた人物は誰?
源頼朝が上総広常を暗殺した事は愚策また
人を見る目のない暗愚の将軍に感じました!
◆長谷川
都から鎌倉幕府に招聘された大江広元が
幕府草創の根幹とビジョンを源頼朝へと
授けた可能性があると思います。中国か
ら渡来した兵書に精通していたのは大江
維時という人の伝説があります。以下は
ウイッキペデイアを引用しますが
「日本では、朝廷の書物を管理していた
『六韜』『三略』および『軍勝図』(諸葛亮の
八陣図)を持ちかえったが、これらの兵書を「
人の耳目(じもく)を惑わすもの」とし大江家
にのみ伝え、他家に秘して、しばらくの間は広
まらなかったとされる大江家が兵書を伝えた
のは古代では天皇の勅命でやむをえずの場合)」
とあります。鎌倉幕府を創業開府した源頼朝に
とり大江家の「兵書」は東国政権開府の為に
様々なヒントを提供してくれます。源頼朝は
都で風采のあがらなかった貴族「大江広元」
をヘッドハンテイグつまり企業頭脳確保雇用
した訳なのです、当時隠然とした勢力を誇っ
てた上総広常の粛清暗殺を断行しております
が鎌倉府創業者源頼朝としては様々な政情に
対して悩んだ事かと思います策略の相談相手
として、都から招聘した大江広元の意義とは
史書に書かれないぐらい重要だったでしょう。
罪なき家臣を讒言より暗殺する暗愚の将とし
て源頼朝は現代社会に映りますが、国家的な
鎌倉府を創業する大業を成し遂げる為に非情
な粛清も存在したのでありましよう。
◆質問者
軍記物『平家物語』には八島合戦の折に
日輪を描いた扇の要を那須与一が要を射落
す象徴的な物語が描写されています。日輪
は日本国で平家は安徳帝を奉斎しています。
日本文学の根底に直接物事の真意を語らず
常に忌み言葉や文学には暗喩が含まれます?
頼朝 信長 秀吉 天下人は扇形の都市計画を好んだ!
鎌倉殿の13人と鎌倉府のランドスケープ論
◆質問者
この投稿で一番注目すべき事とは何?
織田信長が扇「おうぎ」を好んだ事?
日本歴史建造物の縄張理論動の衝撃!
ビイスタ工法でしょうか?
◆長谷川
文献『信長公記』によりますと永禄11年(1568年)
10月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛致します。
京都の名士達が献上品を持ち信長上洛祝賀の為に
茶器刀剣とか高価な名品を献上しますが連歌師の
里村紹巴は白扇二本を献上したのですが織田信長
と言う人の性格は我々凡人のような「鈍感な人」
ではなく電光が飛び散る閃光のような感覚の人。
里村紹巴が白扇二本を献上した暗喩に気色満面!
二本献上とは?日本献上の暗喩が含まれている!
◆対談者
長谷川先生安土城の伝前田利家邸にビイスタ
工法が使われていると「サラリ」と言われた
時は最初何の事か?全く解りませんでしたが
しかし城郭ビイスタ論の動画を見る内に私は
納得するようになってきた世の中には形式論
者や亜流学説踏襲論という愚者がいるお陰で
城郭ビイスタ論やランドスケープ論は日本史
に於いて全く進歩進捗してない今になり長谷川
先生が解説されその内様がようやく解ってきた。
◆対談者
豊臣秀吉は「一の谷馬蘭後立付兜」いちのたに
ばりんうしろだてつきかぶと)と称される兜
(かぶと)が目を引く、豊臣秀吉愛用の甲が。
巨大な「後立」(うしろだて)が特長で、
「菖蒲」(しょうぶ)の一種である「馬蘭」
の葉がモチーフになっている。これも扇です。
◆長谷川
学習する人に様々なタイプの人が存在致します。
「ならう」と言う言葉には
「習う」には学習と言う意味があり。
「倣う」には模倣するコピーの意味。
先学の指示に従うフオロー追従者型
の人は「習う」「倣う」模写型の人
と言えます。それに比し法則や定理
や原理に「気付く」発見型の人です。
音楽も誰も作り出せない音楽を創造
する作曲家型と模倣物真似が得意な
コピー型の人に二分されます。海外
ではカバーと言って。自分なりに曲
を咀嚼し編曲するアレンジ能力ある
音楽家や楽器演奏家が高く評価され
る。まあ人それぞれの得意分野です。
◆対談者
長谷川先生は令和4年の大河ドラマ鎌倉殿の13人
を先生自身は御覧になられましたか?
◆長谷川
録画したものを拝見致しました現代の日常語を
用いたホームドラマ感覚で作られており好感を
私個人は感じました。衣服や建築物や城館等の
有職故実は本格的に考証され素晴しく感じた。
◆鎌倉府のランドスケープ論や鎌倉城ビイスタ論!
◆質問者
鎌倉とは東国武士政権の府城で鎌倉府には当然
ランドスケープ論や城郭ビイスタ論に適合する
都市構造が存在したのでは?ないでしょうか?
◆長谷川
「鎌倉城」は、『吾妻鏡』1180年(寿永3年)
9月9日の条には、石橋山の戦いに敗れて安房
(千葉県)に逃れた源頼朝に対して、千葉常胤
は、この地は要害の地ではないので鎌倉に行く
事を進言してます。九条兼実の日記『玉葉(
ぎょくよう)』1183年(寿永3年)10月25日
の条に「鎌倉城にいる源頼朝が木曽義仲追討の
ために兵五万を興し」、同年11月2日の条にも
「去月五日に鎌倉城を出発した」と「鎌倉城」
が見ます。が現在鎌倉城は諸説あり未確定です。
日本で一番柔軟な歴史思考と歴史大観
ビイスタ工法の普遍性
今話題沸騰 城郭ビイスタ論
長谷川博美上文字をクリック!
◆質問者
長谷川先生!日本語の「ながめ」の意味教えて!
素晴しい展望とか?素晴しい眺望とか?ながめ
◆長谷川
現代では「ながめ」=眺めの文字を使いますが
私は眺望展望「ビイスタ」と意味と考えてます。
日本語の中に本義が潜在していると思いますよ。
「ちかめ」「近目」の対義語として、日本には
遠くを展望する事を「長目」と言う意味が本来
存在したが時代の推移ともに長目の本義が稀薄
になり「眺め」の文字「眺望」を慣用句として
使うように、来は遠見や遠目の遠方を見る行為
ながめ、つまり「長い目線」=「ながめ」です。
建築用語の「栄え」つまり見栄えを考慮した事
良い展望を「ハエ」と古来より言い習わしてる。
衣服が映える。見映えがする景観が長目であり
眺めでも有ります。日本国には江戸期まで眺望
測量の手法が存在したのですが戦前戦後の城郭
研究家は「ながめ」「長目」の発想を無視した。
◆長谷川
それは近江佐々木六角氏の観音寺城にもビイスタ工法
が存在する事でも江戸期の城郭測量法が理解できます。
◆ニユートン
ニユートンはリンゴの落ちるのを見て万有引力
の存在に気付く単純な現象で万有引力に気付!
◆普遍性とは?
人類が国家時間軸を超越して繰り返して行って
きた行動は発想方法を人類の行動規範の普遍性
◆万国博覧会
長谷川少年が70年の万国博覧会で学校の先生に
言った。先生!ソヴイエト連邦館の設計とはね、
コンパスの分度器の要領で設計されていますと
先生はこう言った馬鹿な事を言うもんじや無い!
の展示品を必死に見て必死にメモを取りなさい。
エキスポ70ソヴイエト連邦館にビイスタ工法が
使われていた事など誰も気づかぬ長谷川少年の
別視点です。世の中は変わった視点を持っ人が
何かの法則を発見する事はよく知られた事です。
1970年当時ソヴイエト連邦は連邦国家としての
威信を世界に喧伝する為のビスタ工法を用いた。
澁澤栄一が東急東横線にパリのエトワール凱旋
門近辺の放射状都市計画を模倣した田園調布を!
◆長谷川
寛文期近江膳所城にビスタ工法が存在した事
など誰も指摘しない事ですよ。長谷川が指摘。
徳川幕府配置した重要城郭膳所城指摘しても!
◆長谷川
彦根城玄宮園にビスタ工法を使った茶室が
存在した事など誰も指摘しない長谷川だけ。
玄宮園とはもし京都に政変が発生した場合
京都の天皇を彦根城玄宮園に保護せんが為
の徳川幕府筆の雄藩として彦根藩に課せら
てた役割、玄とは北の意味、宮は皇室の事。
臨池閣の臨とは展望、ながめ、眺望の意味。
つまりビイスタの漢字が臨「のぞむ」です。
◆長谷川
太閤秀吉が築いた肥前名護屋城にビスタ
工法が存在した事を指摘するのも長谷川
だけ秀吉が韓半島に留まらず大陸出兵も
含む国家的威信をかけた城郭構造こそが
ビスタ工法だった。つまり威信的設計法
◆長谷川 庭園の要石「かなめいし」
古来より日本の作庭にはその庭園を見渡す為
の裁量のビユポイント(展望視点)が潜在して
いる、庭園展望には必ず要の地点がある事だ。
◆長谷川
長崎出島にビイスタ工法ある事を学校の
先生は教えてくれなかった。ビイスタ
もオランダとの交易を正式に展開できる
徳川幕府の威信をかけた日本玄関特区!
◆長谷川
岐阜県大野古墳群、ふらりと行く!ビイスタ工法
がある事に気付く人など世間に全くいないものだ
▼岐阜県(大野古墳群)
◆長谷川
九州にあるオサホ塚メサホ塚の設計線も!
◆長谷川
あの古代纏向宮殿遺跡にビスタ工法が
存在するなんてだれも指摘しないのだ
が倭に誕生した古代王権の威信を全国
の倭国連合に誇示する為のビスタ工法。
◆長谷川
そうそう、あの織田信長が築城した安土城
にビスタ工法があると指摘しても歴史城郭
愛好家は知らぬ顔。ぽかーんと知らぬ顔だ。
天下布武を標榜して日本国内を統一せん事
を天正前期の天下の府城の役目を担う安土
城ビイスタ工法は見落とせない歴史の要点。
◆対話者
長谷川先生それらの遺跡は全て時代背景
が異なる別時代のものなのです。だから
我々は、全く、ピンと、来ないのですよ!
◆長谷川
人間とは時代区分に捉われて歴史の大河
を大観できない。人間は絶えず類似した
事を繰り返す動物習性。間違った政治を
し多くの国民を戦争に導き殺す愚かな人
常に邪「よこしま」な心で国民を騙す人
さえ長い歴史の中に必ず登場。歴史とは
姿を変え形を変えて常に繰り返してます。
なにも文字だけが歴史の本質でなく文字
だけが真実とは断言できません。人間は
あらゆる時代で言葉や文字でウソを繰返
しています。我々は時に大きな目を持っ
て社会を歴史を『普遍的』に時代が変っ
ても同じ事を繰り返してる人間の普遍性
を、大観しなければならないと思います。
日本国の開国を促す為アメリカのペリー
提督が神奈川県の浦賀に上陸した徳川幕府
は日本国の代表としての威信を誇示する為
浦賀にビィスタ鶴翼の陣幕を設営している。
歴史のポイントや変り目、画期を示す時期
にビイスタ工法が日本史の中に登場してる。
◆米原市近江図書館にて
御婦人
図書館とは文字の宝庫、無限の文字と
様々な図書こそ人間人類の信奉する物。
◆質問者
享保18年の城郭測量指南では二カ所の測量点
があります。これは「扇」二本あると言えます。
天下布武を標榜し目指した織田信長は二本の扇
に強く引かれ感心を持つ武将と言えますか?
◆長谷川
文献『信長公記』によりますと永禄11年(1568年)
10月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛致します。
京都の名士達が献上品を持ち信長上洛祝賀の為に
茶器刀剣とか高価な名品を献上しますが連歌師の
里村紹巴は白扇二本を献上したのですが織田信長
と言う人の性格は我々凡人のような「鈍感な人」
ではなく電光が飛び散る閃光のような感覚の人。
当代随一の連歌師「里村紹巴」の恐るべき寓意を
信長は、瞬時に読み取る電光石火の頭脳の切れが
あります。
「織田信長」が「二本手にいる今日の喜び」と発
句し「舞ひ遊ぶ 千世万代の 扇にて」と連歌師
里村紹巴が付けます。
信長の深意は「日本手にいる京の喜び」
信長の深意は「日本手にいる京の喜び」
「日本国を統治し京都を押えた事」
であり、二本と日本が、今日と京が掛け言葉です。
◆長谷川
貴方は今、手に扇子「センス」を持ってる。
センスの扇型こそビスタ工法そのものです。
◆御婦人
何を訳の解らない事を言っておられるのか?
あなたヒマが有れば図書館でも行って歴史
書でも読んで勉強しなさいよ!図書館へと
千度万度通って文を史「ふみ」読む事を!
◆長谷川
人間とは、時代が変わろうとも同じ事を
繰り返す動物。時代が変われど同じ事を
繰り返す事を人類の「普遍性」と言ます。
世の古今東西森羅万象を比較研究する事
を「比較研究論」とも言います。世の中
には図書館の中に書かれた文字や図書だ
けでない普遍性が現実に存在する。貴方が
一万回も近江図書館に通っても誰も教えて
くれない事もある。それは同じ城に千回行
っても何も気付かない人が多いのと同じ事
人を図書館や履歴書や肩書きや名刺や学歴
や外見や服装だけで人を判断しないよう慎
みましよう。近江図書館にも普遍的ビスタ
工法が存在します。気づいた人は設計施工
した職人だけ。何万城もの城を見て気付け
るか?何万回も遺跡を見て気付けるのか?
何万回近江図書館に通い気付けるか?それ
▼安土城ヒスタ線(長谷川博美掛線挿入)
◆長谷川
貴方の柔軟な普遍的観察力と柔軟思考や資質
次第だと思います。図書館の本全部読んでも
解らない事や気付けない事が世の中ある事に
気付いて下さい。さあこの近江図書館の玄関
を、よくよく見て下さい!気付いて下さいね!
時に人間は時代や分野や常識と言う固定概念
に捉われ過ぎ普遍的に柔軟に物事を見ない!
◆長谷川
鎌倉府にしても何で鎌倉七口があるのか?
切通しを如何に鎌倉府は配置しているのか?
写真をぽかーんと見ていても仕方がない事!
それは京畿七口「京七口」の摸倣でしよう!
小田原城の「七口」も関八州の府城でした!
◆長谷川
鎌倉府を開府したのは東国政権樹立の源頼朝
でしょうか?源家の隆盛よりも巧妙に源頼朝
取り入り、制御し、象徴的シンボルに祀り上
げてその実権を掌握し鎌倉府の実権を実質的
に支配したは執権職となった北条一族でしよ
う。頼朝一族は雛人形のような傀儡武家貴族
として書き記しているのが『吾妻鏡』の世界。
雛人形の首のすげかえ自由自在の源家の外戚
北条氏と言事になりますか?何時の世も王様
の外戚や王様の神官が権力を横柄に奪い取る
歴史記録を消滅させたのが若きエジプト王の
ツタンカーメンの例でも明らか信長さえ尾張
では斯波氏を一旦保護しやがて追放足利義昭
一旦保護し利用して捨てるのが実質権力者達
の手法です。
「織田信長」が「二本手にいる今日の喜び」と発
句し「舞ひ遊ぶ 千世万代の 扇にて」と連歌師
里村紹巴が付加えます。
信長の深意は「日本手にいる京の喜び」
信長の深意は「日本手にいる京の喜び」
「日本国を統治し京都を押えた事」
であり、二本と日本が、今日と京が掛け言葉です。
◆御婦人
解らないわよ!そんな突飛な事を言われ
ても全く全然解らん!サッパリ解せんわ!
◆長谷川
この近江図書館の玄関は明らかに平成ビ
イスタ工法によって放射状に設計されて
います。とらわれない心、かたよらない
心、ひろくひろく、もっと広く巨視的に
大観の心を持ち社を観察致しましよう。
◆御婦人
人間とは千回万回現場に行っても気付かない!
城址に千回万回登っても解らない事がある訳?
◆御婦人
長谷川先生!私は図書館で文字ばかりを読んで
物事の本質に気付きました。城へ千回行っても
何かに気付く事がある人間は無知の知を自覚し
て、ゼロからリセットし再スターする事も可能
です、しかし頑な頑固に凝り固まったら人間は
一歩も進歩ません。自分を知る事、社会を観察
する事小学生の頃「社会見学」と言う体験学習
が存した事を今更ながらに知る事になりました。
私は何かに気付いた!大悟したのでしょうか?
◆男性
頭脳を柔軟に保ち社会や物を冷静に観察する事!
古代のコロシアム、ギリシャ/ローマの半円形の
劇場、野球場、田園コロシアム全てビスタ工法
一体人類は分度器を何の為に使っているんだよ?
◆長谷川
城見学の本質は人により様々な視点観点ある事も
冷静に認識し互いの価値観や人間性を互いに仲良
く尊重致しましょう。人間は十人十色の顔があり
世の中に同じ顔の人は存在しない千人の人あれば
千人の人の心と考えがある事を冷静に観察する事。
楽しむ 城址に行く事を楽しむ 観光行楽
行く事 城跡に行く事を好む人 城めぐり
見る事 城址を見る事を好む人 城郭見学
考える事 城址を見て考える 考察家
計測する人 城址を測量する人 研究家
発掘する人 城址発掘 考古学
▼televisionに登場する著者長谷川博美
◆縄張り縄打ちについて
郊外を行き畑を耕す人が居る。作物を植える畝
を作るとき2本の杭を打ち丁張りして畝を作る
人を見ます。道路工事をされている人々を見た
時に路側帯を敷設する為に、丁張という水糸を
張る人を見ます。道路工事、建築現場にも水糸
や測量糸を張った場面をみます。勿論考古学の
現場でも測量糸/水糸を現代でも引きます。これ
全て人間が普遍的に行ってる意図的な縄張りで
計画性のあるプラニングであり、設計構想です。
新しい駐車場にいったら駐車線を正確に整えて
塗装する為に白いチョークで白線の跡が残って
いた。これを見てハット人間が常に縄張する事
を大悟して下さい。脳内のランプを点灯させる。
▼安土城天主台の設計構想(長谷川博美/掛線挿入)
安土城八角平(長谷川博美掛線挿入)
▼柴田勝家 内中尾山城 玄蕃尾城
▼近江八幡市円山城跡 長谷川図
▼天正大坂城のビスタ工法線(長谷川掛線挿入)
設計線は測量点は緻密に相互連携し一城をなす。
◆質問者
長谷川先生!鎌倉城や鎌倉七口と言う鎌倉幕府
の関門ももしかしてビスタ工法やビスタ理論を
用いて作られた可能性は全く無いのでしょうか?
◆長谷川
私はこの件に関して全く解りません。鎌倉七口
の配置に若宮大路を主軸としたビスタ工法が採用
されたかにについては私は全く解りません。これ
は鎌倉府を長年研究されている諸氏の見解を参考
して下さい。下記はウッキペデイアの鎌倉城から
抜粋したものです。各自が研究を進めて下さい。
それから各自が一般の方も含めて鎌倉城を考える
事の意義が大切な事であると私は謙虚に冷静に時
に考えております。みんなで考える事が大切な事。
日本史において初めて公家の畿内政権とは異なる
坂東の武家政権が誕生した訳ですから鎌倉府とし
ての威信や面目や威光を放つに十二分な設計設定
インフラ、壮大な縄張りや全体構想プラニングが
存在して然るべき武家政権の府庁が鎌倉であろう
と私は考えてます。勿論鎌倉以前にも大和朝廷が
鎌倉郡衙を経営して遺跡も確認されており郡衙が
鎌倉にある事は政治的地理的普遍性でもあります。
「鎌倉城」観の成立[編集]
平安時代末期から鎌倉時代初頭にあたる、源氏と
平氏が争った治承・寿永の乱(1180年-1185年)
の頃、九条兼実の日記『玉葉』の記事として、
寿永2年(1183年)10月25日の条に「鎌倉城に
いる源頼朝が木曽義仲追討のために兵5万を興し」
て、同年11月2日の条に「去月5日に鎌倉城を
出発した」とあることが知られている[2]。この
記事の「鎌倉城」を、土塁や堀切、切岸などを
築いて防御を固めた軍事施設的な「城」の意味で
捉え、また鎌倉に現存する人為的な地形改変を
城郭的遺構と見て、鎌倉全域を城郭と考える説
(または中世人がそう認識していたとする説)
が出現した[3]。 城郭史的視点で鎌倉城について
触れた初期の研究は、戦前の1937年(昭和12年)
の鳥羽正雄による「城郭構造の社会・経済的考察」
(『歴史教育12-8』※鳥羽 1980『日本城郭史の再検討』
に所収)という。ただし鳥羽は、天然の要害地の中に
ある鎌倉が「鎌倉城」と一部で呼ばれたものの、
明確な城遺構がなく、中世鎌倉には有事の際に防御
施設を造ることはあっても、常設的な城郭遺構はな
かったとする[4][5]。 「軍事都市」「城塞都市」的な
鎌倉像を印象付けたのは、神奈川県内考古学研究の
基礎を築いた赤星直忠の1950年代-1970年代の研究と
いわれる[3]。 赤星は、古都鎌倉は西・北・東の3方を
急峻な山地、南を海(相模湾)という天然の要害が
囲み、鎌倉七口と呼ばれる切通しを平時の出入口と
しているが、有事には封鎖して外部からの敵を迎撃
する城塞都市であるとして、旧鎌倉町域から極楽寺
地区を除く範囲を「鎌倉城」の範囲とした。その具体
的な遺構の例として、鎌倉・逗子市境の丘陵にある
名越切通(国史跡)の逗子側800メートルに渡ってみ
られる「お猿畠の大切岸」という切岸状の岩盤露頭を
挙げて、これを北条氏が三浦氏の侵攻に備えて設けた
ものとした[6][3]。 赤星による軍事的性格を積極的に
評価した鎌倉都市像は、石丸熙による研究でさらに進
んで、和田合戦以降、城塞都市としての拡張が図られ
たと推論された[7][3]。 1980年(昭和55年)刊行の
『日本城郭大系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)
も『玉葉』や赤星の論考を引き、鎌倉が当時、地域
全体をして城郭と捉えられていたとする[8]。
批判的見解[編集]
近年、これについて批判も多くあらわれており[9]、
岡陽一郎は、「切岸」状の岸壁や「堀切」状の尾根
開削地、斜面を段切りした「平場」など、鎌倉周囲
の山々にあり軍事防衛と関係付けられてきた遺構を
考古・史料両面から精査した。結果、それらは家屋
や切通しの道・墓(やぐら)・採石場など幅広い
用途の生産遺構である可能性が高く、中世の軍事に
直結させるよりも、鎌倉時代~近世(あるいは現代)
までを通じて連面と行われてきた一般土地利用の所産
とみた方が適切なものが多いとした[10]。名越にある
「お猿畠の大切岸」などの地形は、鎌倉時代当時に
土地造成や、道路の舗装用に周囲の山の泥岩を破砕
したものを多用している事例から、石切(採石)場の
痕跡と見るべきとする[11]。実際に「お猿畠の大切岸」
は、2002年(平成14年)に行われた逗子市による発掘
調査で、14世紀~15世紀代の建物基礎等に使用したと
考えられる石材の石切場だとわかり、切岸説に疑問が
付された[12]。 また鎌倉市朝比奈町の朝夷奈切通
(国史跡)周囲の山々も「朝比奈砦」として城塞遺跡と
されているが[1]、『太平記』など鎌倉滅亡時の史料には
朝夷奈方面(鎌倉北東部)の戦闘の状況やその存在を示す
記録がなく[13][注釈 1]、城郭と断定しうる遺構も少ないこ
とから疑問が示されている[14]。 また岡は「鎌倉城」の
記述が治承・寿永期の史料にのみ見られることから、
当時の京都にいて、鎌倉を見たことの無い公家たちの
考える城郭観(軍事色の強い空間)が反映された言葉と
する説[15]をあげてこの戦乱期に源頼朝が本拠とした場所
を理念的に指した表現ではないかと推論する[16]。少なく
とも軍事要塞的イメージが大きくなりすぎた「鎌倉城」像
は再検討した方よいと指摘する[17]。 齋藤慎一は、『玉葉』
など中世前期の史料で使われる「城」の語は、用例などから、
非常時(戦時)における軍事的要塞を示す「城郭」「要害」
とは区別されていると指摘し、三浦氏の衣笠城等の「城」
事例と、発掘調査成果も含めた分析から地勢的・空間論的
な視点で「城」の語の実像を考察した。そして中世前期段階
の「城」とは、武家が自身の屋敷や一族の墓地・寺社・庶子
の屋敷などを構えて日常生活の場とした「本拠地」を表す
概念であり、『玉葉』の「鎌倉城」とは、防御施設の「城郭」
ではなく、1180年(治承4年)に鎌倉入りした源頼朝が、
現在の鎌倉市内六浦道付近に構築した「武家の本拠地」の意
と解した[18]。 埋蔵文化財包蔵地の「鎌倉城」[編集]
現在の行政上の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)としても「鎌倉城」
は存在し「鎌倉市No.87 鎌倉城」となっているが、市の遺跡
一覧表には特定の住所は記載されておらず[1]、丘陵周辺など
市内の広範囲にNo.87(鎌倉城)が設定されている[19]。
鎌倉市御成町に位置する「鎌倉城」では、古くから
「無量寺」という寺院があった地と伝えられており、
2005年(平成17年)-2006年(平成18年)の発掘調査では、
方丈と見られる礎石建物跡や庫裏と見られる掘立柱建物跡が
検出され、寺院であることが確認された[20]。このほかも
数ヵ所で「鎌倉城」の名で発掘調査された地点があるが、
発掘結果は墓(やぐら)[21]や用途不明の平場などで[22]、
「鎌倉城」の名を冠しつつ城郭遺構が検出されていない
地点が多い。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^『太平記』において新田義貞軍は、極楽寺坂や化粧坂、
- 稲村ヶ崎など、朝夷奈方面とは逆の鎌倉市北西部・
- 西部方面から侵攻・突入している。
出典[編集]
- ^ a b c 「鎌倉市周知の埋蔵文化財包蔵地一覧」鎌倉市公式HP
- ^ 岡 2004 pp.43-44
- ^ a b c d 岡 2004 pp.45-50
- ^ 鳥羽 1937
- ^ 岡 2004 p.45
- ^ 赤星 1972
- ^ 石丸 1978・1994など
- ^ 平井ほか 1980 pp.335-336
- ^ 齋藤 2006 pp.7-9
- ^ 岡 2004 pp.51-57
- ^ 岡 2004 pp.56-57
- ^ 「国指定史跡 名越切通」逗子市公式HP
- ^ 兵藤 2015
- ^ 岡 2004 p.44
- ^ 中澤 1999
- ^ 岡 2004 p.44
- ^ 岡 2004 pp.58-62
- ^ 齋藤 2006 pp.184-185
- ^ 岡 2004 pp.59
- ^ 鎌倉市教育委員会 2008 pp.7-8
- ^ 財団法人かながわ考古学財団 1999など
- ^ 財団法人かながわ考古学財団 2005
参考文献[編集]
- 鳥羽正雄 1937「城郭構造の社会・経済的考察」『歴史教育12-8』歴史教育研究会(※鳥羽1980に所収)
- 赤星直忠 1959「鎌倉の城郭」『鎌倉市史(考古編)』鎌倉市
- 赤星直忠 1972「逗子市お猿畠大切岸について」『神奈川県文化財調査報告書34集』神奈川県教育委員会
- 石丸熙1978「中世鎌倉の一側面 -初期の都市防備体制を見る」『三浦古文化23』
- 赤星直忠ほか 1979『史跡名越切通保存管理計画策定報告書』逗子市教育委員会
- 平井聖ほか 1980「鎌倉城」『日本城郭大系6(神奈川・千葉)』pp.335-336 新人物往来社
- 鳥羽正雄 1980『日本城郭史の再検討』(日本城郭史研究叢書)名著出版
- 石丸熙1994「鎌倉城考『玉葉』寿永2年11月2日条をめぐって」『東海史学29』
- 中澤克昭 1999「空間としての城郭とその構造」「城郭観の展開」『中世の武力と城郭』吉川弘文館
- 財団法人かながわ考古学財団 1999 『鎌倉城所在やぐら群』かながわ考古学財団調査報告74
- 岡陽一郎(五味文彦・馬淵和雄編)2004「幻影の鎌倉城」『中世都市鎌倉の実像と境界』pp.41-64 高志書院
- 財団法人かながわ考古学財団 2005 『鎌倉城(浄明寺五丁目地内)』かながわ考古学財団調査報告190
- 齋藤慎一 2006『中世武士の城』吉川弘文館
- 鎌倉市教育委員会 2008「鎌倉城」『鎌倉の埋蔵文化財 11 平成18年度発掘調査の概要』鎌倉市
- 兵藤裕己校注 2015『太平記(三)』岩波書店
思いきや論説にはキッチリと筋が通った堅実な理論裏ウチされた側面がある。最後に鎌倉城に言及して読者を驚かせ圧倒する構成が凄い。でも著者には地道な研究家学究家としての広く冷静な歴史観や視座が備わる人ですね
信長、秀吉、長崎出島、神奈川浦和、へと行きいよいよ最後に鎌倉城に落すとは夢に思わずスゴイ広大な着想です。
を宇宙から地球を撮影した時に唯一写真に写るのが万里の長城であったりとかして驚く事もあるものです。
眺め・・・・という表現に含まれる日本語の原義に「長目」があるんですか。
安易に「長雨」とかの掛詞に注意を向けていましたが、もっと深い所に・・・・。
ありがとうございました。
歴史に疎い凡人の私には難しいですが、眺めは長めと言う事からグッと引き込まれた様です。
物を見る時、部分だけ見ていては全体が分かりません。
あらゆるものには部分と全体が有り、長めで捉えた視点は大変興味深いです。
これからお城を観る目も変わって行きそうです。
有難う御座います。