城郭 長谷川博美 基本記録

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お開きの意味と深意 信長と秀吉

2019-10-17 19:21:10 | 戦国武将
お開きの意味と深意 信長と秀吉
長谷川
この記事は民俗学の分野にも多々
関係する事項だと私は考えます。
日本人いや世界でもそうですが
公式行事中に個人のプライベート
な事は人間とは慎むものです。
しかし二次会や宴会やパーテイで
は酒宴と言うアルコールの機会に
遭遇すると、気の緩みもあり人間
本来の本音が露呈する事もあります。
羽柴秀吉は虎視眈々と主君信長の
本音を分析し織田家臣団内の競争
に勝ち抜き厳しい戦国の世を渡る
準備や危機管理は常に心掛けた事
と思います。また秀吉は信長四男
を養子に迎え実質信長の子息をも
人質にとり、自分の安泰策もとり
天正3年には越前から近江長浜に
信長には無断で帰還し自己の播磨
侵攻策戦の重要性を信長に説き許
されるなど全く抜け目がありませ
ん。また斉藤利三の四国の縁者
長宗我部氏の四国支配を信長に
最初は認めてさせていたものの
秀吉の甥、秀次を三好氏に送り
込み四国勢力との外交窓口担当
の明智光秀グループの失脚を画策
し羽柴方優位に誘導に成功する等
の巧妙な策戦を展開していきます。
本能寺の変後の丹後の細川氏等も
明智に味方して、家を保とうする
ありさまです。思い起こせば麒麟
の花押を用いた、足利義輝も四国
の三好勢に京都で殺害され、麒麟
の花押を用いた織田信長も京都で
明智の為に殺害されます。山崎の
合戦の際の秀吉の、異常な迅速な
中国大返しの現実また信長の法要
を秀吉自ら行い清須会議において
は信長の孫に相当する三法師をも
擁立してその後盾としてなり織田
家の権力を簒奪して行く手際の良
さ、また織田浅井の血統を引く淀
に自分の後継者たる男子を産ませ
る秀吉のまるで百舌鳥の托卵の様
な世渡りの上手さには唖然とする。

▲質問者

長谷川先生よく宴会の終りとか、
集会の終りに現代人が「お開き」
にしましょう。と言いますよね?
お開きと言う言葉は当然現代語で
あり戦国武将の信長や秀吉は絶対
に使ってない言葉だと私は確信し
ておりますが?

◆長谷川
「お開き」と言う言葉は信長も
秀吉も当時も当然使ってますよ!
私『信長公記』の講師9年もさせ
て頂きましたので知ってます!

▲質問者

じやあその証拠となる一次文献
資料を私に提示して下さいよ!

◆長谷川
はいこれ信長と同じ時代を生きた
太田牛一、著作の『信長公記』の
天正六年(1578年)の正月三ケ日
の次の一月四日の記録なんです!
これは近江国安土に於いての記録
です。

『信長公記』天正六年
「正月四日に、万見仙千代所にて、
御ひらきの御会なさる。此時の人数
九人。二位法印、宮内卿法印、林佐渡守、
滝川左近、長谷川与次、市橋九郎右衛門、
惟住五郎左衛門、羽柴筑前守、長谷川宗仁、
以上。」と記録されています。

以上の参加武将の中で一般的に知られて
いるのは滝川 一益、林佐渡守、丹羽長秀、
そして羽柴秀吉でしよう。

▲質問者
あれまあ~?ちやんと一級文献資料
の『信長公記』に「御ひらきの御会」
と書いていますね!こりやまた驚き!

◆長谷川
ちなみに、お開き(おひらき)を
語源由来辞典を引用するならば

「お開きは、会合や宴会、特に祝宴で
「終わり」「散会(散る)」「閉会
(閉じる)」という不吉な表現を避
けるために用いられる。 本来は、
武士が「退却する」「退陣する」と
いう意味で使った忌み言葉。 そこ
から、近世には「帰る」「去る」
という意味が生じ、明治以降、
「散会」「閉会」の意味で「お開き」
が用いられるようになった。」とある。

▲質問者
長谷川先生ならば民俗学や神道知識
に詳しいのでもう、少し解説続けて
下さいませんか!先生の解説は本当
は深いのに、話を半分しか聞かずに
自分の意見だけ述べる人もいて困る!

◆長谷川
『信長公記』を読むと約400年以上
も前の当時の事ですから当時の人々
の民俗学的発想が生々しく現代より
も解る事例も多数存在するんです!

◆長谷川
例えば信長死後の比較的近い年代に
記された記録、1603年にイエズス会
が刊行した『日葡辞書』には「ハレ」
は「Fare」と表記され「表立ったこと、
または、人々がたくさん集まった所」
と説明され、「ケ」は「Qe」と表記され、
「普通の、または、日常の(もの)」と
説明されている。いるんですよ!この
記録実は民俗学にとって非常に重要な
記録なんですよ!後世の柳田 國男
(やなぎた くにお、1875年(明治8年)
7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)
は、日本の民俗学者ですが日本の
「ハレとケ」の概念とは、柳田國男に
よって見出された、時間論をともなう
日本人の伝統的な世界観のひとつ。
とあるんですが1603年の記録の方が
古いんです。

▲質問者
簡単に言えば、お祭りや儀式の時が「はれ」
で普段の生活が「け」と言う事なんですね?

◆長谷川
民俗学や文化人類学において「ハレとケ」
という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、
年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段
の生活である「日常」を表しております。

▲質問者
なるほど!正月三が日は日本人にとり様々な
人と年頭年始の挨拶をする言わば公式儀礼。
つまり「ハレ」『信長公記』天正六年
「正月四日に、万見仙千代所にて、
御ひらきの御会なさる。此時の人数
九人。二位法印、宮内卿法印、林佐渡守、
滝川左近、長谷川与次、市橋九郎右衛門、
惟住五郎左衛門、羽柴筑前守、長谷川宗仁、
以上。」と書いているのはつまり「ケ」へ
と普段の生活に戻る契機と考えられます。

▲質問者
ところで「御ひらきの御会」のルーツに
相当する神道儀礼とは一体なんでしょう?

◆長谷川
一般には、神事終了後の宴会(打ち上げ)
とされるが、本来は神事を構成する行事の一
つである。神霊が召し上がったものを頂く
ことにより、神霊との結びつきを強くし、
神霊の力を分けてもらい、その加護を期待
する。ずばり言うと直会(なおらい)です。
「神社祭式」に定められた次第としては、
配膳所役が各人の前に饗膳を据え、ついで
銚子所役が神酒を注ぎ、各人がこれを飲み、
箸をつけることとなっている。この後、楽
を奏し、行事終了後、膳を徹することとな
っているが、楽は省略してもよいとされて
いる。 膳には折敷を用い、品目は洗米、
切りスルメ、切り昆布などである。神酒を
注ぐには長柄の銚子を用い、三度に分けて
注ぐ。神酒を受けるものは、銚子所役が前
に来て跪いたとき、拍手を一つ打った後、
杯をとって神酒を受ける。といった内容
です。

◆長谷川
八束清貫先生の『神社有職故実』には以下
の解説が掲載されています。





▲質問者
天正六年の「ひらきの御会」に参加した武将で
信長と会話したり対話する事により信長の将来
の展望や計画や情報をより深く知った武将とは
一体だれでしょう?

◆長谷川
羽柴秀吉だと思います。彼が信長の生の肉声を
くまなく聞き取り、播州に帰り、黒田官兵衛
や竹中半兵衛や羽柴秀長等ら秀吉ブレーン達に
相談すれば、自分達がどの様な危機管理を普段
採っていれば厳しく非常とも言える戦国サバイ
バル生き残り作戦の準備して、生存できるのか
また準備や用意をしたら最善の策を事前に打つ
事ができますからね!秀吉の奇跡の中国大返し
など現代の常識から言って事前準備しておいた
危機管理能力、そのもの、だと私は思いますよ。

※民俗学的社会考察 長谷川
◆現代日本人「ハレとケ」の概念考察
現代日本人の思考のなかにも通底する「ハレとケ」
の概念として結婚式と披露宴があげられる。結婚
式自体は式典や儀礼的な公式な「ハレ」の場である
事は、間違いない。披露宴は読んだ字の如く「宴」
うたげであり、時に様々な座興や芸能も展開され
る「ケ」日常の場に近い空間と言える。さらに
二次会と呼ばれる新婚夫婦の交友関係が集まる
空間が存在する事もある。この現象も「ハレ」
の空間からより「ケ」普段の生活の空間に戻ろ
うとする日本人の心に通底潜在する深層心理だ。
成人式で普段とはこんなる歌舞伎者を連想させる
はでな衣装を着用する若者や一段あでやかで美
くしい晴着を着用する女性心理も民俗学で言う
いや、1603年にイエズス会が刊行した『日葡辞書』
には「ハレ」は「Fare」と表記され「表立ったこと、
または、人々がたくさん集まった所」と説明され、
「ケ」は「Qe」と表記され、「普通の、または
、日常の(もの)」と言明されている事も納得で
きる。

滋賀民俗学会の菅沼晃次郎先生は晩年日本人の
本音と建て前なる事象を折節に取り上げておられ
た記憶がある。日本人とは時に裏と表の顔を具有
する。公的には穏やかな人格と社会から評価され
ていても様々な悪事を展開する人物も時にいて
善や真心を専ら求める人々にとり極めて不快で
あると言える。しかし中国の性善説、性悪説に
あるように人間とは元来良心と悪心を具有する
ものと解釈も出来ようか?かの羽柴秀吉が真田
一族を表裏卑怯の者「ひょうりひきょうのもの」
とその才能を認めながらも、警戒している事で
も解る。人間には利害関係があり厳しい社会を
生き抜く為に表裏のある人間にならざるを得な
い場合も多々あろう。今日もどこかの職場では
出来の悪い上司の悪口を酒場で述べる人もいる。
また教職にあるまじき倫理観の欠落した人格を
ボヤく大衆もいる事だろう、日本人の宮仕えの
何と憂い事の多かりしか、それが憂世と言うも
のか?

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