中世の山城を市民グループが発見
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/5c/e16cf0b97f53ccc606310a068ab0a6a6.jpg)
と言う内容の記事は全国にも数例
存在するのであろう。私も過去に
長谷川先生。中世城郭と思われる
場所があるので、現地を見て頂け
ますかと言われて現地調査へ赴い
た経験がある。詳細に調査した上
で私が鳥瞰図を作成してみる事に
すると見事な城郭遺跡である場合
がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/df/954a717af81c199648b5a5a3a3b1c9d6.jpg)
しかし当然の理の如く地元の人々
はこの城址には無関心である場合
が多い。それは簡単な理由がある
長年親しんだハイキング道に城址
などある訳がないと歴史好きの人
が言われる傾向が多い。歴史講演
や城址散策散歩を楽しんでおられ
る方は城郭遺跡を観察する事には
馴れておられない場合が多いと言
える。もう一点人間は言語学習に
より歴史を覚えて記憶する傾向が
あり現地城郭遺跡を見て城跡だと
気づく人、認識する人は少ないと
私は考えている。また人間の脳は
最初からその様なものは存在しな
いと言語入力された場合城郭遺構
を全く観察しない見ない人もいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/87/063c3aea531dd7278b4ca5004a7549be.png)
この傾向は無理もない事であろう。
常に低土塁の城址を見学する事に
慣れた人ならば、下図の様な城は
容易に認識する事ができるが、低
土塁を如何に解釈するかによって
城郭遺跡の解釈とは全く異なって
くるものだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/4c/93db94f1a25ada61ae845f03ff592fce.jpg)
同じ城址でも観察する人間の主観
や評価で大きく認識が異なる場合
が発生しているのだ。下図の様な
同じ城でもAが本当の城址の現実
を伝えていると断言する人もおり。
A
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/38/75d00e552ecd6464767ceb7f392af7ca.jpg)
Bが中世城郭のリアルナ現実だよ
と言う人もいて世の中は一概には
どれが正しいとは言えないものだ。
B
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/6f/f510d41478ccc6efaa203531c4cb9315.jpg)
★複雑な城内通路を考察する。
下図の城には
①②③④⑤⑥⑦⑧
あいうえおか
ABCDEFGH
などの城内通路も観察する事が
出来る。ただし通路は後世撹乱の
痕跡があり正確には復元不可能だ。
▼![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ec/43968f13e93d95272d4c50b26391ec57.jpg)
また横矢など城内から入城者を
随時迎撃かのうな弓矢の配置も
伺い知る事が出来る。
▼
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/66/fa682e58e8cfa4a35d7992a106692cdf.jpg)
※参考資料
伊庭の乱「ウイッキペデイア」より
第一次伊庭氏の乱[編集]
文亀2年(1502年)10月、六角高頼が
伊庭貞隆を咎めたところ、貞隆とその
一族は出奔、11月に六角氏の一門であ
る山内就綱の協力を得て挙兵をすると、
12月26日には馬淵城・永原城を攻め落
とした。高頼は観音寺城を出て蒲生貞秀
を頼って音羽城に落ち延びた[1]。
伊庭貞隆は音羽城を攻め、翌文亀3年
(1503年)3月には細川政元の内衆で
ある赤沢朝経も伊庭氏の援軍に駆けつ
けた。しかし、6月には赤澤朝経が京都に
帰還し、朝経の主君である細川政元の仲介
で高頼と貞隆は和睦して、貞隆の息子とみ
られる六郎が高頼と対面した。六郎と山内
就綱は間もなく京都に脱出して細川政元を
頼ったが、貞隆は永正元年(1504年)には
守護代としての職務を再開している[2]。
第二次伊庭氏の乱[編集]
ところが、永正11年(1514年)2月19日に
なって、伊庭貞隆は息子の貞説(六郎と同一
人物かは不詳)と共に再び出奔して、六角氏
と対立する北近江の京極氏および浅井氏
の支援を受けて南近江で六角高頼と戦った[3]。
六角氏と伊庭氏および京極氏の戦いは断続的
に続くが、大永5年(1525年)に六角軍が
京極軍を打ち破って伊庭氏の有力被官である
九里氏を滅ぼしたことで事実上終焉し、それ
までの所領や所職のほとんどを没収された
伊庭氏は本領である神崎郡伊庭
(現在の滋賀県東近江市)のみを安堵された。
この間に六角高頼と跡を継いだ氏綱は病死し、
氏綱の弟である承亀が還俗して「六角定頼」
と名乗って新たな体制を構築することになる
[4]。また、伊庭氏の被官たちも乱の過程で
六角氏によって直臣に取り込まれていき、
中でも池田氏に至っては六角氏綱死去の際に
は池田三郎左衛門尉が氏綱側近として定頼
への家督継承に関わるまでになっている[5]。
また、六角氏と京極氏との関係で言えば、
京極氏が乱中の大永3年(1523年)に発生
した梅本坊公事と称された家督争いによって
混乱した中で六角氏に敗北したことでその
権威は没落して浅井氏に取って代わられて
いる。しかし、乱の結果として、両勢力の
混在していた犬上郡・愛知郡の支配権は
六角氏に奪われることになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/5c/e16cf0b97f53ccc606310a068ab0a6a6.jpg)
と言う内容の記事は全国にも数例
存在するのであろう。私も過去に
長谷川先生。中世城郭と思われる
場所があるので、現地を見て頂け
ますかと言われて現地調査へ赴い
た経験がある。詳細に調査した上
で私が鳥瞰図を作成してみる事に
すると見事な城郭遺跡である場合
がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/df/954a717af81c199648b5a5a3a3b1c9d6.jpg)
しかし当然の理の如く地元の人々
はこの城址には無関心である場合
が多い。それは簡単な理由がある
長年親しんだハイキング道に城址
などある訳がないと歴史好きの人
が言われる傾向が多い。歴史講演
や城址散策散歩を楽しんでおられ
る方は城郭遺跡を観察する事には
馴れておられない場合が多いと言
える。もう一点人間は言語学習に
より歴史を覚えて記憶する傾向が
あり現地城郭遺跡を見て城跡だと
気づく人、認識する人は少ないと
私は考えている。また人間の脳は
最初からその様なものは存在しな
いと言語入力された場合城郭遺構
を全く観察しない見ない人もいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/87/063c3aea531dd7278b4ca5004a7549be.png)
この傾向は無理もない事であろう。
常に低土塁の城址を見学する事に
慣れた人ならば、下図の様な城は
容易に認識する事ができるが、低
土塁を如何に解釈するかによって
城郭遺跡の解釈とは全く異なって
くるものだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/4c/93db94f1a25ada61ae845f03ff592fce.jpg)
同じ城址でも観察する人間の主観
や評価で大きく認識が異なる場合
が発生しているのだ。下図の様な
同じ城でもAが本当の城址の現実
を伝えていると断言する人もおり。
A
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/38/75d00e552ecd6464767ceb7f392af7ca.jpg)
Bが中世城郭のリアルナ現実だよ
と言う人もいて世の中は一概には
どれが正しいとは言えないものだ。
B
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/6f/f510d41478ccc6efaa203531c4cb9315.jpg)
★複雑な城内通路を考察する。
下図の城には
①②③④⑤⑥⑦⑧
あいうえおか
ABCDEFGH
などの城内通路も観察する事が
出来る。ただし通路は後世撹乱の
痕跡があり正確には復元不可能だ。
▼
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ec/43968f13e93d95272d4c50b26391ec57.jpg)
また横矢など城内から入城者を
随時迎撃かのうな弓矢の配置も
伺い知る事が出来る。
▼
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/66/fa682e58e8cfa4a35d7992a106692cdf.jpg)
※参考資料
伊庭の乱「ウイッキペデイア」より
第一次伊庭氏の乱[編集]
文亀2年(1502年)10月、六角高頼が
伊庭貞隆を咎めたところ、貞隆とその
一族は出奔、11月に六角氏の一門であ
る山内就綱の協力を得て挙兵をすると、
12月26日には馬淵城・永原城を攻め落
とした。高頼は観音寺城を出て蒲生貞秀
を頼って音羽城に落ち延びた[1]。
伊庭貞隆は音羽城を攻め、翌文亀3年
(1503年)3月には細川政元の内衆で
ある赤沢朝経も伊庭氏の援軍に駆けつ
けた。しかし、6月には赤澤朝経が京都に
帰還し、朝経の主君である細川政元の仲介
で高頼と貞隆は和睦して、貞隆の息子とみ
られる六郎が高頼と対面した。六郎と山内
就綱は間もなく京都に脱出して細川政元を
頼ったが、貞隆は永正元年(1504年)には
守護代としての職務を再開している[2]。
第二次伊庭氏の乱[編集]
ところが、永正11年(1514年)2月19日に
なって、伊庭貞隆は息子の貞説(六郎と同一
人物かは不詳)と共に再び出奔して、六角氏
と対立する北近江の京極氏および浅井氏
の支援を受けて南近江で六角高頼と戦った[3]。
六角氏と伊庭氏および京極氏の戦いは断続的
に続くが、大永5年(1525年)に六角軍が
京極軍を打ち破って伊庭氏の有力被官である
九里氏を滅ぼしたことで事実上終焉し、それ
までの所領や所職のほとんどを没収された
伊庭氏は本領である神崎郡伊庭
(現在の滋賀県東近江市)のみを安堵された。
この間に六角高頼と跡を継いだ氏綱は病死し、
氏綱の弟である承亀が還俗して「六角定頼」
と名乗って新たな体制を構築することになる
[4]。また、伊庭氏の被官たちも乱の過程で
六角氏によって直臣に取り込まれていき、
中でも池田氏に至っては六角氏綱死去の際に
は池田三郎左衛門尉が氏綱側近として定頼
への家督継承に関わるまでになっている[5]。
また、六角氏と京極氏との関係で言えば、
京極氏が乱中の大永3年(1523年)に発生
した梅本坊公事と称された家督争いによって
混乱した中で六角氏に敗北したことでその
権威は没落して浅井氏に取って代わられて
いる。しかし、乱の結果として、両勢力の
混在していた犬上郡・愛知郡の支配権は
六角氏に奪われることになる。
賜りました。私の
ブログは述べたい
事の70%しか言及
していないと思います。
しかし良いねの人は
文章になっていない
30%も察知しておられ
ると思います。世の中
に城郭に関心がある
人は本当に少ないと
思います。
城内通路や
横矢等を
追記致しました。
併せてお読みください。