城郭 長谷川博美 基本記録

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本能寺の変 兵法と用兵

2023-08-04 21:37:56 | 戦国

本能寺の変 兵法と用兵

 

◆質問者

日本の戦国時代の偽装急襲戦法を

解説下さい要は見せかけ戦法を!

 

◆長谷川

声東撃西(せいとうげきせい)は

兵法三十六計の第六計にあたる戦術。

で「東に声して西を撃つ」の意味。

 

◆質問者

日本国における典型的な声東撃西は?

 

◆長谷川

織田信長の越前敦賀郡金ヶ崎城攻めで

す。最初信長は若狭の武藤氏討伐の軍

を起こすと公言しておいて越前朝倉氏

攻めを突然実施し越前に侵攻しますが

北近江の浅井氏朝倉氏を救援して信長

の『声東撃西』に相当する作戦は破綻

します。有名な金ヶ崎の退口と呼ばれ

ております。1570年元亀元年の事績。

 

◆長谷川

元亀三年の三方ヶ原の合戦で甲斐の

武田信玄は西上する作戦進路をとり

徳川家康の浜松城無視する様な進路

に見せかけますが武田信玄は三方ケ

原に進路を変更して徳川と織田援軍

に勝利致します。1572年の事績です。

 

◆反論者

長谷川さんは本当に歴史学者ですか?

織田信長は「声東撃西」について具体

的には全く書き記していませんよ!?

 

◆長谷川

織田信長軍法写には「声東撃西」

と同意の文言を記録しています。

◆質問者

天正10年 1582年

本能寺の変に直面した紀州鷺森本願寺

は四国渡海を予定していた織田信孝軍

に突如攻められ顕如さんは無事ですか?

 

◆長谷川

本能寺当日織田方は四国渡海を名目に

突如紀州鷺森本願寺攻めを実施してま

すが午後には本能寺の変報が到来して

織田信孝軍は大坂に引き返してます。

これも声東撃西(せいとうげきせい)

と呼ばれる偽装行軍用兵の一種です。

何かを攻めるフリをして別の場所を

突然急襲が兵法の常套たる詭道です

鷺森は素人が見れば純然たる本願寺

ですが軍事縄張ビイスタ工法が存在

する事は軍略家に丸見えの軍事機能

◆質問者

本能寺の変の事前に明智日向守

光秀は丹波亀岡城に一旦兵員を

集合させます亀岡城にビイスタ

工法は存在したのでしょうか?

 

◆長谷川

存在した可能性が高いと思います。

 

 

 

◆対談者

長谷川先生の城郭ビイスタ動画

が視聴数が伸びに伸びて6800回

 

◆長谷川

城郭ビイスタ動画見られてる

事など私は全く信じられない

 

◆反論者

動画絶対に見ては駄目なのだ!

◆対談者

明智光秀の本能寺攻めは明智に

とり都合の良い「

本能寺の変のとき信長包囲殺害の

現場指揮を執っていたのが明智方

武将の斎藤利三で軍事のプロとも

言える武将です。彼の居城である

丹波黒井城には城郭ビイスタ存在

したのでしょうか?もしかして?

 

◆長谷川

丹波黒井城は城郭ビイスタ工法です。

◆一般様

すごい理論ですね!これ日本城郭

理論の基礎だと私は思います此れ

を知らないと城を知らないも同然

ビイスタ動画は必須の動画ですね

織田信長は自らの居城近江安土城

を出発して京都本能寺へと向かっ

た運命の進路をとった事になる。

織田信長の安土城もビイスタ工法

◆一般様

明智光秀は丹波亀岡に中国出陣

の為の兵員を集合させて表向き

は中国に向かうと見せかけて京

本能寺を急襲して織田信長殺害

に成功したと言えます。日向守

光秀は丹波亀岡城で悩んだ事と

思います。

 

 

◆一般様

本能寺を急襲する明智にとり

声東撃西(せいとうげきせい)

と呼ばれる偽装行軍用兵には

都合が良い状況だったのです

か?

 

◆長谷川

中国地方に京都廻りで進軍を

すると配下に伝えれば明智の

配下は納得致しやすいまさに

声東撃西(せいとうげきせい)

と呼ばれる偽装行軍用兵には

最適の状況だったと思います。

 

◆一般様

織田信長自身は声東撃西(せいとう

げきせい)の策を人生で使ってる?

 

◆長谷川

『信長公記』に

尾張小牧築城の際に二宮山に築城

すると2回現地に尾張富士の現地

へ信長は家臣を引き連れ行ってます

が信長は急に小牧山に変更築城し

て小牧山に急速に築城を完了させ

ています。これも家中には二宮山

へ移動パフオーマンス「見せかけ」

を演じて小牧山に築城して小口城

を手に入れる声東撃西の策戦です。

 

本庄惣衛門覚え書き現代語訳[編集]ウイツキペデイアより

明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺
に我らより一番乗りに侵入したというものがいたら
それはみな嘘です。
その理由は、信長様に腹を切らせるとは夢にも知らな
かったからです。
その時は、太閤様が、備中毛利輝元殿を討ちに侵攻
していました。その援軍に明智光秀が行こうとしていました。
ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうでは
なくて京都へ命じられました。我らはその時は家康様が
御上洛しておられるので、家康様だとばかりに思ってい
ました[注釈 1]。(目的地の)本能寺という所も知りませんでした。
軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。誰かと思えば、
斎藤内蔵助殿の御子息と小姓でした。本能寺の方に行く間、
我らはその後に付き、片原町へ入っていきました。
そして二人は北の方に行かれた。我らはみな堀際へ東向きに
行きました。
本道へ出ました。その橋の際に人一人がいたので、そのまま
我らはその首を取りました。
そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて鼠
ほどのものもいませんでした。先ほどの首を持って内へ入り
ました。
おそらく北の方から入った弥平次殿と母衣衆の二人が、
「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、堂の下へ投げ入れ、
(堂の)正面から入りましたが、広間にも一人も人がいないで
した。蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。
庫裏の方より、下げ髪の、白い着物を着た女一人を我らは捕らえ
ましたが侍は一人もおりません。(女は)「上様は白い着物を
お召しになっています」と申しましたが、それが信長様を指すも
のだとは存じませんでした。その女は、斎藤内蔵助殿に渡しました。
(信長様の家臣である)御奉公衆は袴に片衣で、股立を取り、二
三人が堂の中へ入ってきました。
そこで首を又一つ取りました。その者は、一人奥の間より出てきて
、帯もしていませんでした。刀を抜いて浅黄色の帷子を着て出て
きました。その時に、かなりの人数の(我らの)味方が入ってき
ました。それを見て敵は崩れました。我らは吊ってある蚊帳の陰
に入り、この者が出てきて通り過ぎようとしたときに後ろから
切りました。
その時の首と(先に寺の門前で取った首)で二つ取りました。
褒美として槍をいただきました。
野々口西太郎坊の配下にいたときのことです。

 

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