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神武東征神話の考察

2024-03-21 07:08:23 | 比較研究論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

上表文(じょうひょうぶん)とは、君主に文書を奉ること。またその文書をいう。上書(じょうしょ)ともいう。

倭王武の上表文[編集]

倭の五王の最後の倭王武は、の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

  • 「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)

倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、倭国の威力が行き渡っているかのように誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。 「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定されることもあるが確証はない。(→古墳時代

遣隋使の上表文[編集]

第1回遣隋使は、600年(推古8)に派遣された。『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記載はない。因みに、『隋書』の著者は、魏徴(?- 貞観17年(643))である。

  • 「開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ)、字(あざな)は多利思比孤タラシヒコ)、阿輩雞彌と号す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。(中略)王の妻は雞彌と号す。(中略)太子を名づけて利歌弥多弗利と為す(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)

文帝開皇20年(600年)は、推古8年である。阿毎多利思北孤は天を兄とし、日を弟とし、その名は天より垂下した尊貴な男子という意味で、天孫降臨を思わせる。「阿輩雞彌」はオオキミの音を写したものと見られている。そうすると6世紀末の時点で俀王は国内で「大王(オオキミ)」と称されていたことが分かる

 
◆質問者
神武東征神話は矛盾が多すぎ
真実の歴史が語られてません
国力の弱い小国日向から出発
して近畿地方の奈良大和征服
領土化させる事は無理ですよ。
 
 
◆長谷川
神話ですから現実とは異なる
作り事や小説だと言えます。
人間の基本は言葉を使えば嘘
を言う文字を使えば改竄する。
それ人間社会の基本構造です
人は真や誠を好まない動物で
正直者が馬鹿を見る世の中で
す。天下統一目前の織田信長
は居城を名古屋/清須/小牧山
岐阜/佐和山/安土と移動して
いますが文献が無ければ尾張
の人達が全国区制覇したとは
誰も信じない夢物語の世界。
 
◆質問者
いったい誰がこの様な物語の
内容を書いたのでしょうか?
 
◆長谷川
神武を歓迎した饒速日命の
子孫に都合の良い事を書い
た様に思います。履歴書や
系図は自分に都合良く書く
事それこそが人間社会の常!
時の政権に対し同等の家格
や迎合性を書く事も普通だ!
 
 
◆質問者
天照大御神より立派な名前
を持っ神様とは?
 
◆長谷川
 
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命です。
ウイッキペデイア
古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命櫛玉饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。他の別名として、神饒速日命(かむにぎはやひのみこと)、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)がある。
 
磐舟イメージの古墳壁画
太陽 楯 刀剣 弓矢 鳥 船舶
◆長谷川
神武政権より奈良にいち早
磐舟で到着して早く王国
を奈良に建設していたのは
邇芸速日命ニギハヤヒの神
と記紀は記録しております。
またニギハヤヒは神武天皇
等と同種の神器を所有して
大和朝廷と同等の天孫降臨
系だとニギハヤヒ家系では
述べています。
 
◆質問者
神武東征神話を読むと奈良に
は大和朝廷以前に大きな日本
を支配した国家が存在した様
に感じますが先に大和に到着
して大国を形成した国家かと?
 
◆長谷川
饒速日ニギハヤヒを祖先神と
して崇敬している氏族を見ま
しょう。強大な物部氏族です。
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命櫛玉饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。

他の別名として、神饒速日命(かむにぎはやひのみこと)、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)がある。

さらに、警備のため天物部[註 1]の5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴った。

  • 二田造(ふただのみやつこ)
  • 大庭造(おおばのみやつこ)
  • 舎人造(とねりのみやつこ)
  • 勇蘇造(ゆそのみやつこ)
  • 坂戸造(さかとのみやつこ)
  • 二田物部(ふただのもののべ)
  • 当麻物部(たぎまのもののべ)
  • 芹田物部(せりたのもののべ)
  • 鳥見物部(とみのもののべ)
  • 横田物部(よこたのもののべ)
  • 嶋戸物部(しまとのもののべ)
  • 浮田物部(うきたのもののべ)
  • 巷宜物部(そがのもののべ)
  • 足田物部(あしだのもののべ)
  • 須尺物部(すさかのもののべ)
  • 田尻物部(たじりのもののべ)
  • 赤間物部(あかまのもののべ)
  • 久米物部(くめのもののべ)
  • 狭竹物部(さたけのもののべ)
  • 大豆物部(おおまめのもののべ)
  • 肩野物部(かたののもののべ)
  • 羽束物部(はつかしのもののべ)
  • 尋津物部(ひろきつのもののべ)
  • 布都留物部(ふつるのもののべ)
  • 住跡物部(すみとのもののべ)
  • 讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)
  • 相槻物部(あいつきのもののべ)
  • 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)
  • 播麻物部(はりまのもののべ)
  • 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

これらを、船で運んだとあり、操船した者の名が記されている。

  • 天津羽原(あまつはばら) 船長、跡部首(あとべのおびと)らの祖
  • 天麻良(あまつまら) 梶取、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 
  • 天津真浦(あまつまうら) 船子、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖
  • 天津麻占(あまつまうら) 船子、笠縫らの祖 
  • 天津赤麻良(あまつあかまら) 船子、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖
  • 天津赤星(あまつあかぼし) 船子、為奈部(いなべ)らの祖

▼三重 宝塚一号墳 舟形埴輪

船形各部位

 

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