歴史大観 江越の発想 信長 伊藤博文 柴田勝家 彦根藩 柳ケ瀬天下の釼
◆織田信長
信長は『信長公記』によると天正3年越前一向一揆鎮圧
の帰路に長浜市余呉町椿坂に宿泊している「椿」つばえ
と太田牛一は表記している。椿坂集落は元来中世に関所
が設けられた江越の要衝にあり隣村に柳ケ瀬が存在する。
◆伊藤博文
長州藩/吉田松陰の門下生で明治の日本国の宰相へと
なり明治には関ヶ原から長浜へと鉄道を結節させて日本
海の要港敦賀へと繫ぐ柳ケ瀬トンネルを建設さて伊藤は
この柳ケ瀬トンネルを『万世永頼之遂道』と、つまりは
永遠不滅の日本国の北陸と近畿を結ぶ国家的施設と呼称
している事にある。英国留学の履歴を持っ伊藤が英国の
トンネル技師2名を招いてロシアとの玄関口を越前敦賀
に求めてた事が解る。
◆柳ケ瀬トンネル/世界文化遺産候補へ
是だけ明治の一大交通史を飾り天下の釼柳ケ瀬を克服
する柳ケ瀬トンネルの意義は非常に大きく重いと言える。
◆北陸自動車道柳ケ瀬トンネルの意義
現代交通網の主幹とも言える北陸道を日本国が建設した
事の意義が大きい。また明治の宰相伊藤博文のトンネル
と現代の北陸道が隣り合わせで現存している交通の要衝
性/普遍性にも留意すべきである。
◆柴田勝家の新北国街道開削と巨大玄蕃尾城の意義
天正11年近畿中国の羽柴秀吉と織田信長軍団の宿老
北陸方面師団長とも言える柴田勝家が、この柳ケ瀬
トンネルの上に、巨大玄蕃尾城を築城した意味は大
きい。かの城の巨大な大門と大きな本丸を見る人は
一応に玄蕃尾城の巨大さに卒倒し圧倒され驚愕する。
彦根藩の柳ケ瀬の関設置
徳川300年の基は交通網の整備とである。徳川の雄藩「彦根藩」
は椿坂に存在した関所を柳ケ瀬に移動させて天下の釼柳ケ瀬を
監視する事に努めた。余呉城郭研究会の柳ケ瀬の関建物の見学。
石田三成と長浜称名寺
天正11年羽柴秀吉の家臣石田三成が柴田勝家の柳ケ瀬山
の本陣「玄蕃尾」「内中尾山城」の偵察報告を彼の主君で
ある羽柴秀吉に報告している。石田佐吉三成は秀吉死後に
日本国最大の一大大合戦「関ヶ原合戦」を引き起こす人物。
大谷吉継の謎
柳ケ瀬集落の南に長浜市余呉町の小谷は元来「大谷」と表記
していた。秀吉の家臣となり、越前敦賀城を拝領した人傑で
秀吉は大谷吉継を大切にしていた。大谷吉継は関ヶ原の戦い
で最初は徳川に従軍する予定であったが朋友石田治部少輔に
説得されて関ヶ原で戦死して、その生涯を終える。
◆朝倉義景と刀根坂の戦い
天正元年越前の大守朝倉義景は近江小谷城救援を中止して
本国越前敦賀郡へと越前へと退却する。撤退策戦に付け入
り策戦を信長は決行してこの福井滋賀県境で朝倉の本隊
を構成する主要な武家を壊滅させてるあの織田信長とは
柳ケ瀬に敦賀に確実に足跡を残しているのだ。
◆滋賀極北を再評価する気運
我々は福井―滋賀/福滋をつい過疎地寒村として評価する
傾向を持っているが全国区の人々から見れば特に戦国史
から見ればこの北国街道玄蕃尾城や柳ケ瀬は戦国街道と
も言える超一級の歴史街道であり、重要な歴史観光資源
である事を忘れてはならないだろう。そう言う意味では
ロハス長浜の前川常務や同社、岡村館長は、大きな将来
の長浜市の広域発展をも見据えたパイロット計画推進策
歴史観光文化の発展を日本全国に発信すべく日夜研鑚し
ている人々と言えるかもしれない。貴方の町の誰か様も
実は江越つまり滋賀福井に所縁のある人傑がいる事かと。
猛然と巨大玄蕃尾城の堀底を驀進する有志余呉城郭研究会一同!