城郭 長谷川博美 基本記録

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城郭学習 孔子の言葉

2024-03-24 02:57:04 | 日記

 

城郭学習 孔子の言葉

◆質問者

長谷川先生の主目的とは何?

「営利」または「学問」?


◆長谷川

誤解を、、、、、、、、

招く事を恐れていますが

時に多数の人々が集合を

される様子を見て暗い表情

になる事が私にはあります。

ものすごく暗い気分になる

私の講演が終了して控室に

戻ると主催者様はホクホク

顔で私は暗い顔をしてる事

があるのです。次々に帰っ

て行かれる方々の背を見て

つい私は主催者様に質問を

してしまうのです。あの方

々はどの先生の受講者様達

ですかと質問をするのです

すると主催者様はアンタの

講演を聞きに来た人だと!

 

◆長谷川

ウカシイ?私は有名人でさえ

もタレントでもないのにまた

講演のレベルも大した内容で

もないと悲観的になる事あり

 

◆質問者

長谷川先生の主目的とは何?

「営利」または「学問」?

 

◆長谷川

自分の心に自問自答してみる。

私は用意したレジメを再読を

しましたと言われると非常に

嬉しい人間なのです。参加者

様の人数ではなく、ともに、

学ぼうとする人に会えた時が

嬉しい。そういう自分の心が

本当の自分かと時に思います。

 

◆反論者

カスミを喰う仙人ですかな?

 

◆質問者

ものすごく遠方から長谷川

先生の見学会に来られる人

への感謝のは気持ちありま

すか?何百キロの離れた場所

から来られる人もあります。

 

◆長谷川

深く感謝を申し上げます。

 

孔子の論語の第1章

学而第一

 

意味

同じ学問に志す人間は、

どこからでも集まって、

学び合う。同窓・同門

のこともいう。

 

原文

子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。〔子(し)(いわ)く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)(あ)り遠方より来(きた)る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。〕

訳文

孔子(こうし)が言われた。「師の教えてくれたことを学び、いつも繰り返して自分の身につける。なんと喜ばしいことだろう。同じ志をもつ友達が遠くからでもやってきて一緒に学ぶ。なんと楽しいことだろう。たとえこうした生き方を他人がわかってくれなくても、気にかけたりはしない。それこそ君子といえるのではあるまいか。」

 

孔子の心に染みる名言1

止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばよい。

 

孔子の心に染みる名言2

徳ある人を見たら、その人に並ぶことをめざせ。徳なき人を見たら、我が身を振り返り、自省せよ。

 

孔子の心に染みる名言3

義を見てせざるは
勇無きなり

 

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驚愕! 東洋史学的新羅古代府 月城のビイスタ!

2024-03-23 17:59:48 | 海外の城 ビイスタ工法
驚愕! 東洋史学的新羅古代府 月城のビイスタ!
 
◆草津様
長谷川先生は古今稀有の城郭
研究家だと思う。おそらくは
100年に一度出るか出ないか
の大器を秘めた希代の研究家
 
◆参加者
米原まなびあいステーシヨ
での長谷川先生の講座の教
は話題が継続して呼んでます。
 
 
◆長谷川
過分の賞賛は御遠慮願います。
しよせん私は社会の裏側に咲
く裏ぶれた場末のカスミソウ
令和枯れすすきとも言える人
 
◆東洋史学研究「有識者」
中国の殷代の都城鄭州商城を
ビイスタで解説された事は
洋史学的に評価すれば破格の
慧眼持つ研究家と言う事だよ
河南省鄭州商城のビイスタ
など解読できる学者は日本国
に存在しないこの様な稀有の
学説は東洋史の金字塔にだよ。
 
 
◆長谷川
過分の賞賛は御遠慮願います

 中国には「弧田図」などの測

測量方法が古代に存在した事

は東洋史学を知る人には周知

の事で私のブログ不人気です!

 
◆助言者
長谷川先生謙遜の弁舌は学問
進捗の為に謹んだ方が良策で
す。日本国倭王の前方後円墳
の前方部などもビイスタ工法
長谷川先生の慧眼は明白な事

講座男性参加者

長谷川先生と奈良の纏向弥生

宮殿遺跡に行った時に先生に

何故奥に行くほど宮殿面積が

広いとのかと質問したら即刻

ビイスタ放射状測量工法にて

弥生宮殿が設計されてますと

言われ私はブッ飛んだのです。

こんな事私は気付けないもの!

文字で読んだ事しか覚えない

欠点が私には潜在しています。

▼纏向宮殿遺跡 長谷川幾何学解釈

◆長谷川

気付かない方が身の為ですよ!

所詮世の中いつの世もこれだ!

★見ざる

★聞かざる

★語らず

ボケまくる事こそが処世術です。


◆講座女性参加者

長谷川先生に古代大和朝廷が

東北に築城した秋田城の設計

を質問したら先生は庁舎中心

とするビイスタ工法放射腺状

の測量法と解説され驚いた!

これは大和朝廷が大陸の軍学

軍事技術を導入していた証!

▼秋田城 ビイスタ 長谷川

▼長谷川 令和6年3月 南彦根講演

◆講座参加者

でも長谷川先生の論説スゴイと

最近は評判が続いて勢いがある!

 4月13日の多賀無料講演続く事

も決定しもう皆様ワクワク状態

何が飛び出すか解らない長谷川

歴史城郭講演期待が上っている。

◆米原市住民様

長谷川先生!今年令和6年6月2日

の鎌刃城まつりの現地見学会の

講師をお願いを申し上げます!

 

◆長谷川

私ごとき浅学無名講師が米原

市のお役に立てるか心配です

第17回鎌刃城まつり盛会報告 - 城郭 長谷川博美 基本記録

◆助言者

大丈夫です!長谷川先生は

日東第一実力派城郭研究家!

今度の鎌刃城まつりで嵐を

まき起こして下さい!風雲

は急を告げて賢者様が集合

する事は古今の原則ですよ!

▼鎌刃城 ビイスタ理論  長谷川

 

◆東海の質問者

何故新羅と言う国に熱田の神宝

「草薙の剣」を持ち帰ろうとす

る僧が存在したのでしょうか?

◆ウイッキペテイアより

日本書紀[編集]

事件は、『日本書紀』(養老4年(720年)成立)において簡潔に記載されている。同書天智天皇7年(668年)是歳条によると、沙門(僧の意)の道行が草薙剣を盗み、新羅に向かって逃げた。しかしその途中で風雨に遭ったため、道行は迷って帰ってきたという。同書では道行の素性に関する記載はなく、その後の道行の経緯も記されていない[1]

草薙剣のその後については、事件18年後の朱鳥元年(686年)6月10日条に記述がある。同条によると、天武天皇が病を得た際に占いで草薙剣による祟りだと見なされたため、剣を尾張国の熱田社(現・愛知県名古屋市熱田神宮)に送り置いたという[1]

是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る。— 『日本書紀』天智天皇7年是歳条[2]
戊寅に、天皇の病を占ふに、草薙剣に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社に送り置く。— 『日本書紀』朱鳥元年6月戊寅条[3]
 
新羅の位置
三国時代後半の576年頃の半島
◆長谷川
草薙剣は霊威ある征伐刀として
有名です。新羅に熱田の刀剣を
持ち去ろうとした僧侶は新羅の
学僧で『日本書紀』『古事記』
『新羅本紀』を読破していた
人でしょう。『新羅本紀』には
新羅王が倭人出身であった記録
が見え迫りくる高句麗の脅威か
ら倭国の霊威ある征伐刀を得た
い一心があったのかもしれない?
 
◆質問者
新羅の都の月城とはビイスタ?
 
▼ウイッキペデイア月城より
 
◆質問者
新羅の王都は月城と呼ばれる城
長谷川先生の城郭ビイスタ論は
通用するのでしょうか?もしも
存在するのなら驚きのビイスタ!
◆長谷川
城郭ビイスタ論で解釈する
なら新羅の王城「月城」も
ビイスタ工法の可能性あり。
 
 
◆対談者
長谷川先生は平素平凡素朴な
性格です。まさか長谷川先生
がこれほどの学者だと夢にも
思わないのが一般の方々です。
▼米原市での信長公記 講座
長浜市 木之本町のイベント
◆長谷川
心配要りませんよ!私ブログ
は誰一人読んでいない事など
明白な事なのですから誤解を
されては困ります。私とは!
城郭長谷川=人気なしです!
 
◆反論者
長谷川氏の城郭ビイスタ論は
日本の城や歴史には関係ない
ビイスタ動画など見るに値を
しない。城郭は先ず長谷川氏
を否定する事からスタートだ。
 
◆長谷川
どんどん否定して下さい島原
の乱で一揆軍が籠城した原城
跡も元は有馬氏の織豊城郭で
ありビイスタ工法であります。
 
◆対談者
ああやっぱりそうか長谷川論
 
◆反論者
長谷川ビイスタ論など無視
し正しい城郭学を学ぶ事だ
 
◆対談者
正論とは一体なんなのでしょう?
明智光秀の坂本城石垣など長谷川
先生の指摘どおりビイスタ論法に
忠実に石垣が出土して来ています。
私はすなおにシユアーに城郭学習
をしたい平凡な人間なのです平凡
や素朴や純粋な精神こそ大切です。
 
 
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米原 城歩会 野洲永原御殿跡見学

2024-03-23 17:25:29 | 城址見学会予定 

◆参加希望者

車を運転する者です長谷川先生達

に3月24日野洲銅鐸博物館午前10時

合流し桜生出城山城と言う未知の

城郭遺跡を見学したいのですが?

 

◆世話人様

もう満員〆切だと言いたいところ

ですが事前に私か長谷川先生の方

にメール連絡を賜れば良い事です。

 

◆長谷川

米原 城歩会の見学会の件ですが

私は事前に桜生出城縄張図作成を

しています。これを見ながら城址

見学学習したいと思います資料が

ないと縄張は解らないと思います。

今回保険や参加費はありませんが

野洲銅鐸博物館入館料300円必要

 

◆長谷川

 メール等で城歩会に事前報告さ

れますと長谷川の縄張資料等が

用意出来ます。これは無料です。

 

◆初対面者

長谷川先生と面識がありません城

の見学会に参加したいのですが?

 

◆世話人様

大丈夫ですよ。長谷川先生は気楽人

「ぼーっとした人」微笑です気楽に

御参加を下さい。入会の勧誘などは

一切致しません。自由が根本の先生!

◆達観者

そのボーツトした先生が恐ろしい程

城郭のウンチクを持っておられる!

城郭ビイスタ論は大変な理論です。

米原 城歩会 野洲永原御殿跡見学

 

▼以下野洲市教育委員会様の御案内

史跡永原御殿跡は、江戸時代初期に徳川家康から徳川家光までの三代の将軍が、上洛のときに宿泊した徳川将軍家専用の城郭です。

野洲市では、永原御殿跡を史跡公園として整備するため、毎年発掘調査を実施しています。令和5年度は、第三代将軍徳川家光が宿泊中に寝所(しんじょ)として利用した本丸「御休息所(ごきゅうそくじょ)」跡を発掘調査しています。この程、その成果が明らかとなりましたので、調査担当者がご説明して現地を公開します。

日 時・・・令和6年3月24日(日曜日) 午後1時30分~午後3時

場 所・・・国史跡永原御殿跡発掘調査区(野洲市永原1031番地)

対 象・・・どなたでも(事前申し込み不要)

参加費・・・無料

※駐車場や一度に見学できる人数に限りがあります。現地係員の指示に従ってください。
※できるだけ徒歩・自転車でお越しください。
※この説明会は、妓王まちづくり推進協議会のご協力を得て実施します。

※永原御殿跡は令和5年度から整備工事を実施しています。現地説明会など市主催の催し物開催日以外は本丸の内側は立ち入りできません。

現地説明会ポスター

夏休み!永原御殿跡の発掘調査体験教室の画像

↑今年度も、夏休みには一般参加を募って発掘調査体験教室を開催しました。合計4日間の日程で。合計47名の方々にご参加いただきました。

夏休み

↑発掘体験の初日から建物の礎石とみられる石材を発見しました。寛永11年(1634)の7月8日に、徳川家光が上洛の途中に一泊だけ利用したご寝所です。その建物の柱を支えていた石材です。

永原御殿跡の整備イメージ

←史跡永原御殿跡の第1期の整備イメージです。

公園整備では、本丸西側に残る土塁を保護し、かつて存在した本丸東側の土塁を復元整備します。本丸内部は、発掘調査成果を元に、江戸時代の平面図「中井家指図」を等大で表示して、御殿の規模を体感できるように整備します。

◆長谷川

 令和6年3月28日木曜開催の

米原まなびあいステーシヨン

講義写真を取材するに野洲に

24日出かける予定をしてます。

 

◆対談者

徳川家康の宿城永原御殿跡の

発掘現場説明会に長谷川先生

の車に便乗をさせて下さい!

 

◆長谷川

当日のスケージュールです。

★日時 3月24日

★参加申し込み者

①長谷川 車 

②尾張様 午前9時米原駅東口

③浅井様 米原公民館前

④高月様 米原公民館前

 

昼食と水分とは各自

事前御用意願います

登山に適した服装と靴

 

10時 於 野洲銅鐸博物館

   拝観料 300円

   永原御殿復元模型見学

11時 

   桜生城  外観見学

   桜生出城 山城見学

 

12時 桜生古墳 見学

   昼食

 

13時 野洲市教育委員会様の

 永原御殿発掘説明会に参加

 

 

コメント (2)
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神武東征神話の考察

2024-03-21 07:08:23 | 比較研究論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

上表文(じょうひょうぶん)とは、君主に文書を奉ること。またその文書をいう。上書(じょうしょ)ともいう。

倭王武の上表文[編集]

倭の五王の最後の倭王武は、の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

  • 「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝)

倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、倭国の威力が行き渡っているかのように誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。 「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定されることもあるが確証はない。(→古墳時代

遣隋使の上表文[編集]

第1回遣隋使は、600年(推古8)に派遣された。『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記載はない。因みに、『隋書』の著者は、魏徴(?- 貞観17年(643))である。

  • 「開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ)、字(あざな)は多利思比孤タラシヒコ)、阿輩雞彌と号す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。(中略)王の妻は雞彌と号す。(中略)太子を名づけて利歌弥多弗利と為す(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)

文帝開皇20年(600年)は、推古8年である。阿毎多利思北孤は天を兄とし、日を弟とし、その名は天より垂下した尊貴な男子という意味で、天孫降臨を思わせる。「阿輩雞彌」はオオキミの音を写したものと見られている。そうすると6世紀末の時点で俀王は国内で「大王(オオキミ)」と称されていたことが分かる

 
◆質問者
神武東征神話は矛盾が多すぎ
真実の歴史が語られてません
国力の弱い小国日向から出発
して近畿地方の奈良大和征服
領土化させる事は無理ですよ。
 
 
◆長谷川
神話ですから現実とは異なる
作り事や小説だと言えます。
人間の基本は言葉を使えば嘘
を言う文字を使えば改竄する。
それ人間社会の基本構造です
人は真や誠を好まない動物で
正直者が馬鹿を見る世の中で
す。天下統一目前の織田信長
は居城を名古屋/清須/小牧山
岐阜/佐和山/安土と移動して
いますが文献が無ければ尾張
の人達が全国区制覇したとは
誰も信じない夢物語の世界。
 
◆質問者
いったい誰がこの様な物語の
内容を書いたのでしょうか?
 
◆長谷川
神武を歓迎した饒速日命の
子孫に都合の良い事を書い
た様に思います。履歴書や
系図は自分に都合良く書く
事それこそが人間社会の常!
時の政権に対し同等の家格
や迎合性を書く事も普通だ!
 
 
◆質問者
天照大御神より立派な名前
を持っ神様とは?
 
◆長谷川
 
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命です。
ウイッキペデイア
古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命櫛玉饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。他の別名として、神饒速日命(かむにぎはやひのみこと)、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)がある。
 
磐舟イメージの古墳壁画
太陽 楯 刀剣 弓矢 鳥 船舶
◆長谷川
神武政権より奈良にいち早
磐舟で到着して早く王国
を奈良に建設していたのは
邇芸速日命ニギハヤヒの神
と記紀は記録しております。
またニギハヤヒは神武天皇
等と同種の神器を所有して
大和朝廷と同等の天孫降臨
系だとニギハヤヒ家系では
述べています。
 
◆質問者
神武東征神話を読むと奈良に
は大和朝廷以前に大きな日本
を支配した国家が存在した様
に感じますが先に大和に到着
して大国を形成した国家かと?
 
◆長谷川
饒速日ニギハヤヒを祖先神と
して崇敬している氏族を見ま
しょう。強大な物部氏族です。
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命櫛玉饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。

他の別名として、神饒速日命(かむにぎはやひのみこと)、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)がある。

さらに、警備のため天物部[註 1]の5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴った。

  • 二田造(ふただのみやつこ)
  • 大庭造(おおばのみやつこ)
  • 舎人造(とねりのみやつこ)
  • 勇蘇造(ゆそのみやつこ)
  • 坂戸造(さかとのみやつこ)
  • 二田物部(ふただのもののべ)
  • 当麻物部(たぎまのもののべ)
  • 芹田物部(せりたのもののべ)
  • 鳥見物部(とみのもののべ)
  • 横田物部(よこたのもののべ)
  • 嶋戸物部(しまとのもののべ)
  • 浮田物部(うきたのもののべ)
  • 巷宜物部(そがのもののべ)
  • 足田物部(あしだのもののべ)
  • 須尺物部(すさかのもののべ)
  • 田尻物部(たじりのもののべ)
  • 赤間物部(あかまのもののべ)
  • 久米物部(くめのもののべ)
  • 狭竹物部(さたけのもののべ)
  • 大豆物部(おおまめのもののべ)
  • 肩野物部(かたののもののべ)
  • 羽束物部(はつかしのもののべ)
  • 尋津物部(ひろきつのもののべ)
  • 布都留物部(ふつるのもののべ)
  • 住跡物部(すみとのもののべ)
  • 讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)
  • 相槻物部(あいつきのもののべ)
  • 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)
  • 播麻物部(はりまのもののべ)
  • 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

これらを、船で運んだとあり、操船した者の名が記されている。

  • 天津羽原(あまつはばら) 船長、跡部首(あとべのおびと)らの祖
  • 天麻良(あまつまら) 梶取、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 
  • 天津真浦(あまつまうら) 船子、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖
  • 天津麻占(あまつまうら) 船子、笠縫らの祖 
  • 天津赤麻良(あまつあかまら) 船子、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖
  • 天津赤星(あまつあかぼし) 船子、為奈部(いなべ)らの祖

▼三重 宝塚一号墳 舟形埴輪

船形各部位

 

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魏志倭人伝と神武東征神話の構成比較考察

2024-03-20 09:46:17 | 比較研究論

魏志倭人伝と神武東征神話の構成比較考察

◆質問者

魏志倭人伝と『記紀神話』には

共通項目があるのでしょうか?

古代邪馬台国と古代大和朝廷は

何らかの共通点があるのかと?

 

◆長谷川

方や中国側から書かれた古代

日本史です方や大和朝廷側が

国家形成経緯を記した神話の

世界なので区別して考える事

が必要であると思われますね。

 

◆質問者

邪馬台国の幹部構成とは何?

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 

◆長谷川

女王 斎主 卑弥呼   ひみこ

官  大臣 伊支馬   いきま

官  大臣 彌馬升 やましょう

官  大臣 彌馬獲支 やまこき

官  大臣 奴佳鞮    ぬかて

の四官 大臣達を表現しております。

倭人伝には卑弥呼の食膳を給する

弟の1名の大膳職のような弟王も記録

 

◆質問者

『記紀』神武東征神話の編成とは

 

◆長谷川

九州 天照大御神 斎主 神格化女神

神武東征軍

 

1長兄:彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、五瀬命(いつせのみこと)

戦死

2次兄:稲飯命(いないのみこと)、稲氷命(いないのみこと)

『新撰姓氏録』右京皇別下の新良貴条には、稲飯命が新羅に渡って国主となったとの所伝がみえる。『古事記』の海原に入ったという伝承や、『日本書紀』の海に身を投じたという伝承から作られた物語と考えられている。

入水自殺

3三兄:三毛入野命(みけいりののみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと

『日本書紀』神武即位前紀では、兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとしている。

『古事記』では、事績は何も記されずに「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけ記されている。

考証[編集]

名前の「御」は敬称で、「毛」は「食物」、「沼」は「主」を意味するとされる[1]

伝承[編集]

宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとする。高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。

入水自殺

 

4末弟:神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

神武天皇として奈良盆地の大和朝廷を草創

 

◆長谷川

以上は魏志倭人伝卑弥呼の

邪馬台国の四官の編成は全

く同じ傾向を示しています

四臣制度のようなものです。

 

◆質問者

何故?次男三男は水中に消えて

しまったのでしょうかね?彼等

は王室の血族で臣下ではない

のですが?自殺しのたの?

◆長谷川

古代の豪族の海洋航行自体が

漁労や物資運搬ではなく政治

的まつり事つまり祭祀である

と考えて下さい。船旅の祭祀

担当が持哀と呼ばれています。

▼三重 宝塚一号墳 舟形埴輪

船形各部位

◆長谷川

魏志倭人伝は古代の倭人達の

航行を祭祀と捉えております。

航行の安全祭祀を行う者達が

倭人伝は「持哀」と表現して

います。もし海が荒れた場合

は「持哀」航行不安全の責任

をとり入水自殺をする事なっ

ています。ヤマトタケル東征

神話などではタケルの妻たる

乙橘姫が入水自殺をしてます

タケルは嘆き悲しみ関東から

大和に帰る時東を見て「我が

妻よと悲しんだ」我妻こそが

東国、あずま、の起源する事。

▼倭人伝の航行 持哀の記録


  其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
  如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
  謂其持衰不勤

「その行来して海を渡り、中国に詣るに、常に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服を垢汚し、肉を食らはず、婦人に近づかざらしむこと、喪人の如し。これを名づけて持衰と為す。もし行者に吉善あらば、共に、その生口、財物を顧す。もし疾病有るか、暴害に遭へば、さらに之を殺さんと欲す。その持衰が勤めずと謂ふ。」

「海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイに至らぬところがあったというわけである。」

 

◆質問者

磐船・岩船(いわふね)とは?

◆長谷川

貴人が乗船して巡航する船舶

の事でしよう。ただの船では

なく神事の一環として考える

出航には日和「ひより」つま

り占いがつきものであろ。

 

 

鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)は、日本神話に登場するであり、また、神が乗るの名前である。別名を天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、天鳥船(あめのとりふね)といい[1]天夷鳥命(阿波伎閉委奈佐毘古命、稲背脛命、大背稲三熊大人、武三熊命)と同神とする系図がある[2]

 

◆質問者

神武東征記に天の八咫烏「ヤタガラス」

を天照大御神が遣わしたとありますが

皇室に伝わる八咫鏡とはどの様な形?

 

◆長谷川

神宝の八咫鏡の現物の実態は全く

解っておりません九州の平原古墳

からは46㎝もある大鏡が数枚出土

をしております。

◆質問者

もしかすると邪馬台国の4臣制度

を考えると4臣は直接王族でなく

邪馬台国の臣下であったと推定

をすると新生近畿の大和へと九州

にから近畿に派遣された4将軍と

言う事なり一番末弟の人物こそが

神武天皇と後に追号された

 

 

コメント
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