夜寝台列車に乗ったことがある?
答えはある。
初めて乗るはずだったのは、おそらく高校を卒業して就職のために上京するときでした。1979(昭和54)年3月のことです。
運輸省第二港湾建設局(現在は国土交通省)に就職が決まり、最初の赴任地である茨城県の鹿島港工事事務所に向かう時でした。
実家を出る時、3つ下の妹が茶碗蒸しを作ってくれましt。家族そろった最後の食事をして、国鉄の山田線(現在はJR)のたぶん午後6時頃のディーゼルカーに乗りこみ盛岡に向かいました。
ところがこの日、大雪が降り、東北本線では列車がまともに運行していませんでした。
乗るはずの列車は青森から来る。ところがその列車は雪に阻まれやってきません。午後10時頃、盛岡で臨時の列車が仕立てられました。乗るはずの列車の今後の運行は不透明。そんなアナウンスが流れていたように記憶しています。そこでやむなく臨時列車に乗り込むことにしました。
その列車はすし詰め状態でした。人でいっぱいのデッキ。しゃがむこともままならない状況でした。基本的に立ったままで列車に揺られ東京に向かいました。
途中で気分が悪くなった記憶があります。同じくデッキで列車に揺られる人を押し分けトイレに滑り込みました。
8時間後、上野に到着しました。本当は夜行寝台で東京に行くはずだったのに、残念ながら横になるどころか、立ったまま夜を明かすことになったのが初めての夜行寝台列車での旅でした。
次の機械は実家への帰省の時でした。
就職は1979年3月29日付でした。実はそれから1ヶ月もしないうちに祖母が危篤状態になり、実家に戻ることになりました。その時にはどうやって実家に戻ったのか、記憶に残っていません。おそらく朝に電話をもらって、日中の特急列車で盛岡まで行き、山田線に乗り換え、夜に実家に戻ったのだと思います。
実家に戻った時、祖母は意識がありました。でも食べ物はのどを通りません。水分で口を湿らせるのがやっとの状態でした。
帰宅して危篤状態の祖母に会い、2日過ぎ、3日過ぎ、祖母は小康状態を保ちました。
「仕事があるんだから一度、鹿島に帰れ」
帰省して4日目だったと思いますが、両親に言われて盛岡から夜行寝台列車に乗り込みました。翌朝、上野駅に到着。鹿島線に乗って茨城県鹿島町(当時)に到着しました。おそらくその日の午後は仕事にいったと思います。
ここでの住居は独身寮でした。部屋に帰り就寝。朝だと思うのですが、祖母が夢枕に立ちました。何事かを言っていたと思うのですが、内容は覚えていません。仕事にでかけようと思いながら、寮で朝食を食べている時間帯に実家から電話がありました。
「亡くなったから戻ってこい」
どんなふうに葬式を出したのでしょう。まったく記憶に残っていません。この時も鹿島に帰るときには東北本線経由の夜行寝台だったと思います。
鹿島から実家に帰省するときの最寄り駅は常磐線の水戸駅でした。鹿島からの帰省ではだいたい午後10時頃(いや11時頃かな)の水戸発・十和田という夜行寝台列車でした。青い車体がホームに滑り込み、列車に乗り込みました。そこまではバスか何かで行って、ホームの立ち食いそば屋さんで夕食代わりにそばをかき込みました。とてもうまかった。それ以来、そばといえばホームの立ち食いそば。それが私の定番になりました。
車内は3段ベットの2等寝台でした。宮古市に向かうディーゼルカーに乗り継ぎのため降車する盛岡駅到着時間はだいたい午前5時。ベットスペースに潜り込みながら心配したのは、この時間に起床できるかどうかでした。
車掌さんにお願いすると起こしてくださると聞いたこともあります。でもお願いすることもなく、何とか到着時間前に起きることができました。いまから考えれば、こんなことを何度もできたのは奇跡です。
もっともこの帰省列車は、盛岡に到着するまで何度も止まっていました。何カ所に止まったのかは分かりませんが、止まるたびに目覚めていたことも思い出します。奇跡の秘密は、案外ここにあったのかもしれません。
その時から水戸発の夜行寝台十和田には3回乗ったと思います。1年後、横浜市に転勤し、ここから帰省する時にも盆と正月、一度は同僚の車で帰省したので、とするとおそらく5往復プラス片道の乗車で11回の夜行寝台の乗車でした。鹿島に住んでいた時と合わせ全部で18回乗ったんじゃないかな。
上野に早い時間に着いて、乗り継ぎまでの時間つぶしのため上野公園をうろうろしていたら、品のよさげな年配の男性からいっしょにお茶を飲みませんかと声をかけられたことがありました。丁重にお断りしましたけど。
夕方までに寮に着けば良いので、新宿の映画館で「旅芸人の記録」という長い映画・・そう4時間位だったでしょうか・・を見に行ったこともあります。
ギリシャの旅芸人の一行のファシズムの吹き荒れる中での旅の記録映画です。遺産で見に出かけたのは良いのですが、途中はさんだ15分ほどの休憩以外はほとんど寝てしまった。夜行列車に揺られた疲労の残る中、たんたんと旅芸人の体験を描く映画は、注意力を集中させ続ける力を持たなかったようなのです。
今は夜行寝台ってなくなったんですよね。あの情緒はもう体験することはできないんですよね。
答えはある。
初めて乗るはずだったのは、おそらく高校を卒業して就職のために上京するときでした。1979(昭和54)年3月のことです。
運輸省第二港湾建設局(現在は国土交通省)に就職が決まり、最初の赴任地である茨城県の鹿島港工事事務所に向かう時でした。
実家を出る時、3つ下の妹が茶碗蒸しを作ってくれましt。家族そろった最後の食事をして、国鉄の山田線(現在はJR)のたぶん午後6時頃のディーゼルカーに乗りこみ盛岡に向かいました。
ところがこの日、大雪が降り、東北本線では列車がまともに運行していませんでした。
乗るはずの列車は青森から来る。ところがその列車は雪に阻まれやってきません。午後10時頃、盛岡で臨時の列車が仕立てられました。乗るはずの列車の今後の運行は不透明。そんなアナウンスが流れていたように記憶しています。そこでやむなく臨時列車に乗り込むことにしました。
その列車はすし詰め状態でした。人でいっぱいのデッキ。しゃがむこともままならない状況でした。基本的に立ったままで列車に揺られ東京に向かいました。
途中で気分が悪くなった記憶があります。同じくデッキで列車に揺られる人を押し分けトイレに滑り込みました。
8時間後、上野に到着しました。本当は夜行寝台で東京に行くはずだったのに、残念ながら横になるどころか、立ったまま夜を明かすことになったのが初めての夜行寝台列車での旅でした。
次の機械は実家への帰省の時でした。
就職は1979年3月29日付でした。実はそれから1ヶ月もしないうちに祖母が危篤状態になり、実家に戻ることになりました。その時にはどうやって実家に戻ったのか、記憶に残っていません。おそらく朝に電話をもらって、日中の特急列車で盛岡まで行き、山田線に乗り換え、夜に実家に戻ったのだと思います。
実家に戻った時、祖母は意識がありました。でも食べ物はのどを通りません。水分で口を湿らせるのがやっとの状態でした。
帰宅して危篤状態の祖母に会い、2日過ぎ、3日過ぎ、祖母は小康状態を保ちました。
「仕事があるんだから一度、鹿島に帰れ」
帰省して4日目だったと思いますが、両親に言われて盛岡から夜行寝台列車に乗り込みました。翌朝、上野駅に到着。鹿島線に乗って茨城県鹿島町(当時)に到着しました。おそらくその日の午後は仕事にいったと思います。
ここでの住居は独身寮でした。部屋に帰り就寝。朝だと思うのですが、祖母が夢枕に立ちました。何事かを言っていたと思うのですが、内容は覚えていません。仕事にでかけようと思いながら、寮で朝食を食べている時間帯に実家から電話がありました。
「亡くなったから戻ってこい」
どんなふうに葬式を出したのでしょう。まったく記憶に残っていません。この時も鹿島に帰るときには東北本線経由の夜行寝台だったと思います。
鹿島から実家に帰省するときの最寄り駅は常磐線の水戸駅でした。鹿島からの帰省ではだいたい午後10時頃(いや11時頃かな)の水戸発・十和田という夜行寝台列車でした。青い車体がホームに滑り込み、列車に乗り込みました。そこまではバスか何かで行って、ホームの立ち食いそば屋さんで夕食代わりにそばをかき込みました。とてもうまかった。それ以来、そばといえばホームの立ち食いそば。それが私の定番になりました。
車内は3段ベットの2等寝台でした。宮古市に向かうディーゼルカーに乗り継ぎのため降車する盛岡駅到着時間はだいたい午前5時。ベットスペースに潜り込みながら心配したのは、この時間に起床できるかどうかでした。
車掌さんにお願いすると起こしてくださると聞いたこともあります。でもお願いすることもなく、何とか到着時間前に起きることができました。いまから考えれば、こんなことを何度もできたのは奇跡です。
もっともこの帰省列車は、盛岡に到着するまで何度も止まっていました。何カ所に止まったのかは分かりませんが、止まるたびに目覚めていたことも思い出します。奇跡の秘密は、案外ここにあったのかもしれません。
その時から水戸発の夜行寝台十和田には3回乗ったと思います。1年後、横浜市に転勤し、ここから帰省する時にも盆と正月、一度は同僚の車で帰省したので、とするとおそらく5往復プラス片道の乗車で11回の夜行寝台の乗車でした。鹿島に住んでいた時と合わせ全部で18回乗ったんじゃないかな。
上野に早い時間に着いて、乗り継ぎまでの時間つぶしのため上野公園をうろうろしていたら、品のよさげな年配の男性からいっしょにお茶を飲みませんかと声をかけられたことがありました。丁重にお断りしましたけど。
夕方までに寮に着けば良いので、新宿の映画館で「旅芸人の記録」という長い映画・・そう4時間位だったでしょうか・・を見に行ったこともあります。
ギリシャの旅芸人の一行のファシズムの吹き荒れる中での旅の記録映画です。遺産で見に出かけたのは良いのですが、途中はさんだ15分ほどの休憩以外はほとんど寝てしまった。夜行列車に揺られた疲労の残る中、たんたんと旅芸人の体験を描く映画は、注意力を集中させ続ける力を持たなかったようなのです。
今は夜行寝台ってなくなったんですよね。あの情緒はもう体験することはできないんですよね。
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