11月3日にいわき市文化センター大ホールで行われた憲法問題学習講演会を昨日のブログで多少紹介しましたが、理解した範囲でもう少し詳しく紹介したいと思います。
講演会のメインの講師は憲法学の第一人者・樋口陽一東大名誉教授で、「立憲主義はこうして確立された~東日本大震災・被災三県の自由民権運動・苅宿・千葉・小田そして鈴木安蔵へ~」と題して講演しました。
開口一番に樋口さんが話したことは、「立憲主義はこうして確立された」も「東日本大震災・被災三県の自由民権運動・苅宿・千葉・小田そして鈴木安蔵へ」も主催者に「与えられたテーマ」だということ。「50年ぶりに課題に挑戦する気持ちです」といいながら、「果たして立憲主義は確立しているのでしょうか」と疑問を呈し、自由民権活動家の苅宿中衛、千葉卓三郎、小田為綱、鈴木安蔵について紹介しだしました。
これら自由民権活動家が活動した時代背景をまず話します。明治時代初期の東北地方は、明治維新で実権を握った薩長藩閥政権の占領下にあったという認識を持つことが大切だというのです。占領下という背景があったからこそ「自由民権の声が上がるのは必然」で、抑圧されていたから国会開設や憲法制定の要求は切実な声だったというのです。
その声を上げた一人として、まず苅宿中衛の活動を紹介しました。
苅宿は福島県浪江町出身。福島県に派遣され自由民権運動を監視・抑圧した県令・三島通庸と、会津三方道路の建設従事にかかわる待遇や非従事者の財産没収などの問題から対決が深まり、抵抗する自由民権活動家や農民を弾圧した福島事件が起きました。三島がこの好機に関係者すべてを逮捕せよと弾圧を強める中、苅宿もこの時を含め3度逮捕されますが、いずれも無罪放免となり、自由党の板垣退助の招請で高知県などを訪ねています。
その高知では板垣の右腕とされる植木枝盛がいました。植木の憲法草案には問題ある命令には従わない不服従の権利・抵抗権や革命権、さらに連邦制の規定がありました。
苅宿は土佐ノ民権運動と強い関係で結ばれていたと紹介しました。苅宿について詳しい紹介がこちらのブログにありました⇒光は辺境から・・・「自由民権 東北で始まる」(その1)
二人目は仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現在の宮城県栗原市志波姫)出身の千葉卓三郎。1852年に生まれ29歳の時に「五日市憲法」を起草したと言われてます。
この憲法草案は、女性でも戸主の場合は参政権を与えたり、政治犯の死刑を廃止するなどの進んだ内容を持っているといいます。ネットで調べると、国民の権利などの規定で、当時のものとしては画期的な内容を持っていると紹介されています。
そして3人目が小田為綱。岩手県九戸郡宇部村(現在の久慈市宇部町)の出身で、海外の憲法に偏っていると葬られた元老院が作成した憲法草案をベースに独自の憲法メモを書き残しました。「憲法草稿評林」と呼ばれるその一文では、「軍は両院議決して進退せしめる」など皇帝(天皇)の軍の統帥権に議会の議決が必要なことなどを説いているといいます。
日本にこういう前史があったからこそこそ米英中が戦後の処理を決めたポツダム宣言は、「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し」と「復活・強化」を説いたのだろうといいます。
戦後GHQの一員として来日し、昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当したハーバード・ノーマンは在野の憲法学者・鈴木安蔵を訪ねています。
鈴木は、福島県小高町の出身で、文学少年、哲学青年、二高、京都帝大と当時で言えば“お決まり”の道をすすみ、マルクス主義に傾倒していったといいます。1932年には大学等で組織された社会科学研究会を弾圧した京都学連事件で治安維持法違反で逮捕され、出獄後にはマルクス主義法学主義の立場で研究をすすめたといいます。
敗戦後の1945年11月に高野岩三郎らと「憲法研究会」を結成し、同会の唯一人の憲法の専門家として活動し、同年12月には鈴木がまとめた憲法草案をもとに憲法草案要項が作成されて発表されました。
そこには、国民主権、天皇は国家的儀礼を司るや天皇は国政をせず内閣が責任をとるといった内容を含んでいたといいます。
こうした在野の憲法草案策定の試みの一方で、政府が組織した憲法問題調査会の憲法の試案は国民主権に到達することもできず、このままでは天皇を守ることもできないということで見切りをつけ、GHQがいわゆる“押し付け案”を策定することになったというのです。
憲法問題調査会には著名な憲法学者も参加していましたが、後に「委員の多くが帝国の役人たちで良いものが作れなかった」と述懐しているそうで、この学者の中には岸内閣が組織した「憲法調査会」の委員就任を断り、在野に憲法問題研究会を作って対抗した宮沢俊義、清宮四郎がいたといいます。
鈴木の憲法草案要項が日本国憲法につながることになったわけですが、樋口氏は昨日も紹介した通り、明治の時代から続いた憲法制定に関する日本人の研究が日本国憲法に息づいていることを浮き彫りにしながら、「事実に即して物を考えることから世の中を少しでも良くしていくことが大切です。今日の話でも、日本国憲法が押し付けられたという論がいかに自虐的なものなのか少しでも知っていただき、明治の先人たちの足跡にプライドを持っていただけることを読み取っていただきたい」と呼びかけたわけです。
ちなみにこれを書くにあたって調べていると、憲法研究会の憲法草案要項には戦争放棄はなかったようなのですが、この戦争放棄は幣原首相がマッカサーに提案したものだったことが、マッカーサーの書簡で確認されたという発見がありました。
その背景をしんぶん赤旗は次のように報道しました。
原首相はなぜ、戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアをマッカーサーに提案したのでしょうか。
幣原は1946年3月27日、自身の内閣がつくった「戦争調査会」の開会あいさつで、原爆よりもさらに強力な破壊的新兵器も出現するであろうときに、「何百万の軍隊も何千隻の艦艇も何萬の飛行機も全然偉力を失う」とのべ、「世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ(戦争放棄の)旗を翳(えい)して、遥(はる)か後方から付いてくる時代が現れるでありましょう」と述べました。
幣原は、秘書官だった平野三郎氏による聞き取り(51年2月)に対しても「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」と述べています。
一方で幣原は、戦争放棄と天皇制維持をセットで提案したかったが、敗戦から間もない状況で日本側から提案することはできず、「憲法は押し付けられたという形をとった」と説明しています。
堀尾氏は「今回の新史料を、こうした発言とも重ねあわせると、9条が幣原の発意であったことにいっそう確信が持てると考えます」と言います。
こうしたことからも日本国憲法が、日本の叡智から生まれてきたことには確信が持てます。
樋口氏の講演の後には、樋口氏と米倉明東大名誉教授(民法学)のトークセッションでした。
この中で米倉氏は、憲法の個人の尊重は生命の尊重にも通ずることから憲法九条にも影響すると考えられ、ここから九条をたやすく変えることはできないと考えると持論を展開しました。
「そもそも人があって国家ができ、国家を維持するためにルールができる」のに「後から出てきた国会が大きな顔をして人を殺してこいという権利があるのか」と、戦争をする日本づくりの安倍政権の改憲のねらいを批判。明治憲法と同時代に現在の民法ができていますが、この民法の第三条の規定は「私権の享有は、出生に始まる。」と個人の権利は自然に備わっているという天賦人権説が盛り込まんでいると紹介しました。国家主義的憲法のもとで生まれた天賦人権説にもとづく民法は、日本国憲法になったもとでやりやすくなった、と説明しました。
その上で、個人を尊重するから戦争をやめようということになるわけで、この個人の尊重こそ日本国憲法の精髄をしめていると語りました。
また、日本国憲法の公布を当時の明治憲法下で主権者だった天皇も敗戦を迎えた国民も喜んでいたのだから、押し付けられたというのは間違いだ、と指摘したのは昨日のブログにも書いた通りです。
以前にも米倉氏のこの指摘は聴いていますが、ユニークな視点にひかれます。
樋口氏は、自民党憲法草案にある「家族」や「和」という言葉に疑問を投げかけました。いずれの言葉も良い響きを持っていますが、かつて「家」が個人を束縛した歴史があり、「和」という言葉が長いものには巻かれろ式にまっとうな生き方を否定してきたと指摘し、草案が一つの考え方が貫かれていることを指摘していました。
こうした講演会を聴いて、あらためてその内容を確認するためにいろいろと読んでみると、「押し付け憲法」だという一方的な攻撃がどれだけ現実を踏まえない的外れのものであるかが分かってきます。ただこの的外れの攻撃が、影響力を持っていることは事実で、これを押し返すためにも、日本国憲法が日本人の叡智の結集であることを知ってもらうことが大切になっているんだろうと思います。
安倍首相の居丈高な姿勢、国民を愚民扱いするような態度はおかしく、そもそも国の指導者が指導を間違って戦争にけたのだから、憲法が押し付けられたのだから、国家の指導者は誤ってしかるべし、という声を聴くと、なるほどそのとおりだよなと思います。戦争をしなければ、憲法を“押し付けられる”ことはなかったのですから。
日本生まれの日本国憲法。このことをしっかり伝えていくようにしたい。
講演会のメインの講師は憲法学の第一人者・樋口陽一東大名誉教授で、「立憲主義はこうして確立された~東日本大震災・被災三県の自由民権運動・苅宿・千葉・小田そして鈴木安蔵へ~」と題して講演しました。
開口一番に樋口さんが話したことは、「立憲主義はこうして確立された」も「東日本大震災・被災三県の自由民権運動・苅宿・千葉・小田そして鈴木安蔵へ」も主催者に「与えられたテーマ」だということ。「50年ぶりに課題に挑戦する気持ちです」といいながら、「果たして立憲主義は確立しているのでしょうか」と疑問を呈し、自由民権活動家の苅宿中衛、千葉卓三郎、小田為綱、鈴木安蔵について紹介しだしました。
これら自由民権活動家が活動した時代背景をまず話します。明治時代初期の東北地方は、明治維新で実権を握った薩長藩閥政権の占領下にあったという認識を持つことが大切だというのです。占領下という背景があったからこそ「自由民権の声が上がるのは必然」で、抑圧されていたから国会開設や憲法制定の要求は切実な声だったというのです。
その声を上げた一人として、まず苅宿中衛の活動を紹介しました。
苅宿は福島県浪江町出身。福島県に派遣され自由民権運動を監視・抑圧した県令・三島通庸と、会津三方道路の建設従事にかかわる待遇や非従事者の財産没収などの問題から対決が深まり、抵抗する自由民権活動家や農民を弾圧した福島事件が起きました。三島がこの好機に関係者すべてを逮捕せよと弾圧を強める中、苅宿もこの時を含め3度逮捕されますが、いずれも無罪放免となり、自由党の板垣退助の招請で高知県などを訪ねています。
その高知では板垣の右腕とされる植木枝盛がいました。植木の憲法草案には問題ある命令には従わない不服従の権利・抵抗権や革命権、さらに連邦制の規定がありました。
苅宿は土佐ノ民権運動と強い関係で結ばれていたと紹介しました。苅宿について詳しい紹介がこちらのブログにありました⇒光は辺境から・・・「自由民権 東北で始まる」(その1)
二人目は仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現在の宮城県栗原市志波姫)出身の千葉卓三郎。1852年に生まれ29歳の時に「五日市憲法」を起草したと言われてます。
この憲法草案は、女性でも戸主の場合は参政権を与えたり、政治犯の死刑を廃止するなどの進んだ内容を持っているといいます。ネットで調べると、国民の権利などの規定で、当時のものとしては画期的な内容を持っていると紹介されています。
そして3人目が小田為綱。岩手県九戸郡宇部村(現在の久慈市宇部町)の出身で、海外の憲法に偏っていると葬られた元老院が作成した憲法草案をベースに独自の憲法メモを書き残しました。「憲法草稿評林」と呼ばれるその一文では、「軍は両院議決して進退せしめる」など皇帝(天皇)の軍の統帥権に議会の議決が必要なことなどを説いているといいます。
日本にこういう前史があったからこそこそ米英中が戦後の処理を決めたポツダム宣言は、「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し」と「復活・強化」を説いたのだろうといいます。
戦後GHQの一員として来日し、昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当したハーバード・ノーマンは在野の憲法学者・鈴木安蔵を訪ねています。
鈴木は、福島県小高町の出身で、文学少年、哲学青年、二高、京都帝大と当時で言えば“お決まり”の道をすすみ、マルクス主義に傾倒していったといいます。1932年には大学等で組織された社会科学研究会を弾圧した京都学連事件で治安維持法違反で逮捕され、出獄後にはマルクス主義法学主義の立場で研究をすすめたといいます。
敗戦後の1945年11月に高野岩三郎らと「憲法研究会」を結成し、同会の唯一人の憲法の専門家として活動し、同年12月には鈴木がまとめた憲法草案をもとに憲法草案要項が作成されて発表されました。
そこには、国民主権、天皇は国家的儀礼を司るや天皇は国政をせず内閣が責任をとるといった内容を含んでいたといいます。
こうした在野の憲法草案策定の試みの一方で、政府が組織した憲法問題調査会の憲法の試案は国民主権に到達することもできず、このままでは天皇を守ることもできないということで見切りをつけ、GHQがいわゆる“押し付け案”を策定することになったというのです。
憲法問題調査会には著名な憲法学者も参加していましたが、後に「委員の多くが帝国の役人たちで良いものが作れなかった」と述懐しているそうで、この学者の中には岸内閣が組織した「憲法調査会」の委員就任を断り、在野に憲法問題研究会を作って対抗した宮沢俊義、清宮四郎がいたといいます。
鈴木の憲法草案要項が日本国憲法につながることになったわけですが、樋口氏は昨日も紹介した通り、明治の時代から続いた憲法制定に関する日本人の研究が日本国憲法に息づいていることを浮き彫りにしながら、「事実に即して物を考えることから世の中を少しでも良くしていくことが大切です。今日の話でも、日本国憲法が押し付けられたという論がいかに自虐的なものなのか少しでも知っていただき、明治の先人たちの足跡にプライドを持っていただけることを読み取っていただきたい」と呼びかけたわけです。
ちなみにこれを書くにあたって調べていると、憲法研究会の憲法草案要項には戦争放棄はなかったようなのですが、この戦争放棄は幣原首相がマッカサーに提案したものだったことが、マッカーサーの書簡で確認されたという発見がありました。
その背景をしんぶん赤旗は次のように報道しました。
原首相はなぜ、戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアをマッカーサーに提案したのでしょうか。
幣原は1946年3月27日、自身の内閣がつくった「戦争調査会」の開会あいさつで、原爆よりもさらに強力な破壊的新兵器も出現するであろうときに、「何百万の軍隊も何千隻の艦艇も何萬の飛行機も全然偉力を失う」とのべ、「世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ(戦争放棄の)旗を翳(えい)して、遥(はる)か後方から付いてくる時代が現れるでありましょう」と述べました。
幣原は、秘書官だった平野三郎氏による聞き取り(51年2月)に対しても「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」と述べています。
一方で幣原は、戦争放棄と天皇制維持をセットで提案したかったが、敗戦から間もない状況で日本側から提案することはできず、「憲法は押し付けられたという形をとった」と説明しています。
堀尾氏は「今回の新史料を、こうした発言とも重ねあわせると、9条が幣原の発意であったことにいっそう確信が持てると考えます」と言います。
しんぶん赤旗日刊紙、2016年8月19日
こうしたことからも日本国憲法が、日本の叡智から生まれてきたことには確信が持てます。
樋口氏の講演の後には、樋口氏と米倉明東大名誉教授(民法学)のトークセッションでした。
この中で米倉氏は、憲法の個人の尊重は生命の尊重にも通ずることから憲法九条にも影響すると考えられ、ここから九条をたやすく変えることはできないと考えると持論を展開しました。
「そもそも人があって国家ができ、国家を維持するためにルールができる」のに「後から出てきた国会が大きな顔をして人を殺してこいという権利があるのか」と、戦争をする日本づくりの安倍政権の改憲のねらいを批判。明治憲法と同時代に現在の民法ができていますが、この民法の第三条の規定は「私権の享有は、出生に始まる。」と個人の権利は自然に備わっているという天賦人権説が盛り込まんでいると紹介しました。国家主義的憲法のもとで生まれた天賦人権説にもとづく民法は、日本国憲法になったもとでやりやすくなった、と説明しました。
その上で、個人を尊重するから戦争をやめようということになるわけで、この個人の尊重こそ日本国憲法の精髄をしめていると語りました。
また、日本国憲法の公布を当時の明治憲法下で主権者だった天皇も敗戦を迎えた国民も喜んでいたのだから、押し付けられたというのは間違いだ、と指摘したのは昨日のブログにも書いた通りです。
以前にも米倉氏のこの指摘は聴いていますが、ユニークな視点にひかれます。
樋口氏は、自民党憲法草案にある「家族」や「和」という言葉に疑問を投げかけました。いずれの言葉も良い響きを持っていますが、かつて「家」が個人を束縛した歴史があり、「和」という言葉が長いものには巻かれろ式にまっとうな生き方を否定してきたと指摘し、草案が一つの考え方が貫かれていることを指摘していました。
こうした講演会を聴いて、あらためてその内容を確認するためにいろいろと読んでみると、「押し付け憲法」だという一方的な攻撃がどれだけ現実を踏まえない的外れのものであるかが分かってきます。ただこの的外れの攻撃が、影響力を持っていることは事実で、これを押し返すためにも、日本国憲法が日本人の叡智の結集であることを知ってもらうことが大切になっているんだろうと思います。
安倍首相の居丈高な姿勢、国民を愚民扱いするような態度はおかしく、そもそも国の指導者が指導を間違って戦争にけたのだから、憲法が押し付けられたのだから、国家の指導者は誤ってしかるべし、という声を聴くと、なるほどそのとおりだよなと思います。戦争をしなければ、憲法を“押し付けられる”ことはなかったのですから。
日本生まれの日本国憲法。このことをしっかり伝えていくようにしたい。
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